2018年09月23日
一緒に学ぼう世界史のポイント 94 《エジプトの自立》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 94 《エジプトの自立》
アクアリウムの世界
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エジプトの自立
オスマン帝国の衰退
スレイマン1世
16世紀半ば、スレイマン1世の時代に全盛期を迎えたオスマン帝国は、その後徐々に衰退して行きます。
1683年の第二次ウィーン包囲失敗が、衰退の大きな切っ掛けと為りました。第一次ウィーン包囲(1529)以後も、オーストリアとは断続的に武力衝突が起きていましたが、第二次ウィーン包囲失敗後はオーストリアやロシア等との戦争に為り、敗北したオスマン帝国は1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーなどをオーストリアに割譲しました。その後も、ロシアとの戦争で18世紀後半には黒海北岸の領土を失います。
国内的には地方総督の自立化傾向や帝国内の諸民族の独立運動が起きて来るのですが、オスマン政府は有効な対策が打てずズルズルと衰えて行きます。
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ワッハーブ王国の成立と崩壊
イブン=アブドゥル=ワッハーブ
オスマン帝国の衰退を象徴する最初の事件がワッハーブ王国の成立です。18世紀半ば、アラビア半島でイブン=アブドゥル=ワッハーブという人物がワッハーブ派と云う宗派を興しました。彼によれば、当時のイスラムのあり方はムハンマドの教えから外れている。だから、ムハンマド時代の教えに帰れと云うのです。
確かに、当時多くのムスリムの心を捉えていたスーフィズム(神秘主義)や聖者崇拝などはコーランの何処を探しても出て来ません。イスラムがアラブ人以外の民族に広がる中で付け加えられて行ったものです。(現在でも、スーフィズムや聖者崇拝はあります)
ワッハーブが唱えたのは、コーランに書いていない事はダメと云うガチガチのイスラム原理主義です。これは、当時の状況を考えるとトルコ人のオスマン帝国に支配されているアラブ人が、宗教を通じて自己主張していると捉えることが出来ます。
やがて、このワッハーブ派を信奉したアラビア半島中央部のネジド地方の豪族サウード家が、オスマン帝国の支配に逆らい半島にワッハーブ王国を建設しました。やがて、領土を拡大し始め19世紀初めにはメッカとメディナの2聖都を支配するまでに発展した。
オスマン帝国に取っては、メッカやメディナを失うと云うのは大失態で、辺境アラビアの出来事と放って置く訳にはいかなく為りました。処が、この時既にオスマン帝国は独力でこれを討伐する力が無かった。そこで、又後で述べる様にエジプト総督の力を借りて要約ワッハーブ王国を滅ぼしました(1818年)。
しかし、この後1823年にワッハーブ王国は復興し、89年に又滅亡しますが、20世紀初頭にサウジアラビア王国と云う名前で再度復活します。現在のサウジアラビアです。
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ギリシアの独立
1821年にはギリシアで独立戦争が始まりました。当時、ヨーロッパ列国はウィーン体制の下で民族運動には冷淡だったのですが、ギリシアと言えばヨーロッパ文明の故郷、イギリスの有名な詩人バイロンが義勇軍として独立戦争に参加したりフランスの画家ドラクロワが「シオの虐殺」と云うオスマン軍によるギリシア人虐殺事件を描いたりして次第にヨーロッパ人に注目されます。
又、南下政策を採るロシアが、この機会にバルカン半島に勢力を拡大しようと考えギリシアを支援してオスマン帝国と開戦。イギリス、フランスもギリシア独立に介入して、1829年のアドリアノープル条約でギリシアは独立を達成しました。
ギリシア独立戦争「シオの虐殺」
バルカン半島には、独立したギリシア以外にも、スラブ人、ギリシア正教徒が多数住んで居ますから、彼等もこの後オスマン帝国からの自立を求めて運動を活発化させるし、オーストリアやロシアがこれを援助しますから、オスマン帝国政府は益々難しい状況に為って行きます。
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エジプトの自立
既に18世紀位から、アフリカ北岸地域では在地勢力がオスマン帝国の宗主権を認めながら、地方政権を建てていました。その中で、今からエジプトの話をする訳ですが、何故特にエジプトなのかと云うと、エジプトはオスマン帝国から自立しただけで無く、ヨーロッパをモデルに国家建設を目指したからです。
しかもそれが一時は成功しそうに為る。最終的には失敗してイギリスの植民地に為ってしまう訳ですが。だから19世紀のエジプトの歴史は、アジア・アフリカ諸民族が最も早い時期に欧化を目指し失敗した先駆的な例と為りました。ヨーロッパがアジア・アフリカを従属化し植民地化して行くひとつの典型なのです。又、エジプトの試みがオスマン帝国の衰退と絡み合いながら進行して行ったことも重要です。
ムハンマド=アリー
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エジプトの自立はナポレオンの遠征から始まります。1798年ナポレオン率いるフランス軍がエジプトを占領しました。これに対抗してイギリスはエジプトに軍隊を派遣しましたが、エジプトはオスマン帝国の領土なので当然オスマン帝国政府も各地の部隊をエジプトに送り込みました。
この時、派遣されたオスマン軍の将校だったのがムハンマド=アリーです。アルバニア系と言われています。エジプト人でも無ければトルコ人でも無いと云う事です。このムハンマンド=アリーが徐々に頭角を現してやがてエジプト派遣軍を掌握します。
そして、1801年と1803年にフランス軍とイギリス軍が夫々撤退した後、カイロの有力者達の支持を取り付けて1805年にはエジプト総督を名乗ります。オスマン帝国政府は、これを追認するしかありませんでした。この段階で、オスマン帝国の宗主権の下にムハンマド=アリーのエジプトが自立したのです。
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ムハンマド=アリーは、フランス軍やイギリス軍をその目で見て実際に戦って居る訳ですから、ヨーロッパの軍隊がどう云うものか、その軍事力や組織力の高さを知っています。そこで、エジプトの支配者と為ったムハンマド=アリーは、ヨーロッパを目標としてエジプトの近代化を進めて行きました。
具体的には、西洋式の陸海軍の創設、造船所、官営工場、印刷所を建設し近代化を担う人材養成の為教育制度改革を行いました。印刷所は、イギリスやフランスの本をアラビア語に翻訳出版する為に作られたもので、アラブ地域で作られた最初の官営印刷所だそうです。又マムルーク達を、式典参加を理由に集合させ一挙に虐殺すると云う事も遣った(1811年)。彼等は、ナポレオンの遠征以前からエジプトで一定の政治的勢力を持ち続けて居り、中央集権化を進めるには邪魔な存在だったのです。
マムルークを一挙に虐殺
近代化政策の財源は農業です「エジプトはナイルの賜」ですから農業生産は高い。ムハンマド=アリーは農産物輸出事業を独占しその利益を財源としました。こうして、急速に軍事力を高めたエジプトが、その実力を見せたのが1818年のワッハーブ王国の撃破でした。
メッカ、メディナを占領したワッハーブ王国の討伐をオスマン帝国から依頼され、アラビア半島に出兵しこれを破ったのでしたね。何故、ムハンマド=アリーはオスマン帝国の要請に従ったかと云う事ですが、エジプトは自立して居ますが飽く迄も自立であって独立では無い。エジプトはオスマン帝国の宗主権を認めて居り正式にはオスマン帝国の一部。ムハンマド=アリーの肩書きはオスマン皇帝から任命されたエジプト総督なのです。
オスマン帝国からすると、強く為ったエジプトは言うことを聞いて呉れるのであれば非常に頼りがいに為る舎弟です。この後、ギリシア独立戦争が始まるとオスマン帝国は又エジプトに出兵を要請しました。エジプトはこれにも応じてギリシアに出兵します。
オスマン帝国側はその見返りとしてシリアの支配権を与える約束をして居ました。処が、ギリシア独立戦争が終わってもオスマン帝国側が約束を果たさ無い。そこで、エジプトはシリアの領有を要求してオスマン帝国と開戦しました。これを、第一次エジプト・トルコ戦争と云う(1831〜33)。この戦争はエジプトが勝利しシリアを領有することに為りました。
エジプト=トルコ戦争
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この戦争で南下政策を実現させたいロシアは、恩を売る為にオスマン帝国を支援して居ます。又、エジプトの利権を狙うフランスはエジプトを支援しました。この地域は、アフリカ、アジア、ヨーロッパに跨っており戦略的に重要な場所だから只でさえヨーロッパ列国の関心が高い。
ここでの紛争は、ヨーロッパ列国に取って利権を得たり拡大するチャンスです。最早、オスマン帝国、エジプトと云う当事者だけの争いでは収まら無く為って居るのです。又、当事者よりもバックに控えるヨーロッパ列国の方が経済的にも軍事的にも圧倒的に優位なので、何時の間にか当事者を飛び越えてヨーロッパ列国が紛争を仕切って、自分達に都合の好い秩序を作り上げて行くことに為るのです。
1838年 イギリスがオスマン帝国とトルコ=イギリス通商条約を結びました。オスマン帝国に関税自主権の無い不平等条約でした。この結果、オスマン帝国の領土であるエジプトにもこの条約が適用されエジプトの貿易は大打撃を受けました。
オスマン帝国から完全に独立すればこの条約から逃れる事が出来ます。そこで、ムハンマド=アリーはオスマン帝国にエジプトの独立を求め1839年第二次エジプト=トルコ戦争が始まりました。
ここで、登場するのがイギリスです。イギリスは第一次エジプト=トルコ戦争の結果に不満を持って居た。エジプトの領土が拡大しそれに伴ってこの地域でフランスの勢力が増したことが気に食わなかったのです。そこで第二次エジプト=トルコ戦争が始まると、早速この戦争の調停に乗り出しました。フランスやロシアとの外交的な駆け引きの末、翌1840年のロンドン会議で、イギリスは自分の作った調停案をエジプトに押し着けて戦争を終わらせました。
その内容は、エジプトはシリアを放棄する引き換えにムハンマンド=アリー家がエジプト総督位を世襲すると云うものでした。ムハンマド=アリーはこの内容に不満でしたが、イギリスの軍事的圧力の前にこれを飲まざるを得ませんでした。
結局、エジプトは正式に独立することは出来ませんでしたが、ムハンマド=アリー家による総督世襲が認められたので、普通はこれ以後のエジプトを独立国家として扱っています。(書物や年表によっては、1805年をムハンマド=アリー朝の成立としているものもあります)
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スエズ運河
サイード・パシャ
ムハンマド=アリーの死後、エジプト総督位はその子孫が継いで行き、ムハンマド=アリーが始めた近代化政策はその後も引き継がれて行きました。
様々な事業の中でエジプトの運命に大きな影響を与えたのがスエズ運河建設です。スエズ運河建設を始めたのは第4代総督サイイド=パシャでした。彼はムハンマド=アリーの三男で、少年時代にカイロに来て居たフランス人外交官レセップスを家庭教師にして居た。レセップスにかなり懐いて居た様です。三男だから本来は総督位を継ぐ立場では無かったのですが、兄や甥が次々と死んで行った為総督に為ってしまったのです。
サイイド=パシャが総督に為ると、フランスに帰っていたレセップスがエジプトに遣って来て、総督との個人的な関係を利用してスエズ運河建設を売り込んだのです。総督は、レセップスにスエズ運河建設の許可を与えました。(1854年)
スエズ運河
レセップスはスエズ運河株式会社を設立し、資金を集めて1859年に着工、10年に及ぶ難工事を経て1869年に運河は完成しました。全長167キロメートル幅60〜100メートル深さ8メートル。総工費は当初の予算2億フランの倍を超える4億5千フラン工事に駆り出されたエジプト農民の死者は12万人に及びました。
建設費はエジプト政府も負担し、その費用はフランスからの借り入れに頼り、完成後のスエズ運河はエジプトとフランスの共同所有と為りました。スエズ運河の開通によってヨーロッパからアジアに向かう船はアフリカを廻ら無くてもインド洋に抜けることが出来、費用、時間は大幅に短縮されました。現在でも、活発に利用されているスエズ運河は、歴史的な大事業だったと言って好いでしょう。
イスマーイール・パシャ
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スエズ運河開通の時のエジプト総督は、サイイド=パシャを継いだイスマーイール=パシャです。イタリアの作曲家ベルディによる「アイーダ」と云う有名なオペラがあります。これは、スエズ運河開通記念に建てられたカイロの大歌劇場で上演する為にイスマーイール=パシャがベルディに作曲を依頼した作品です。
ストーリーの原案をイスマーイール=パシャが考えたと云う説もあります。エジプト総督がスエズ運河の開通を飾るのにオペラの作成を依頼すると云うのは、どれだけエジプトの支配層がヨーロッパ文化に被れていたかと云う事ですよね。エジプトをヨーロッパの国にしたかったそんな気持ちがあったのかも知れません。
ベンジャミン・ディズレーリ
エジプトは、スエズ運河の航行料収入を当てにしていたのですがこれが思うように延びず、又、アメリカ南北戦争のお陰で、大きく伸びていた綿花の輸出による収入が南北戦争の終結による合衆国の国際貿易復帰によってダウンしてしまいました。
急速な財政悪化に困ったエジプト政府は保有していたスエズ運河の株式を売りに出すことにした。1875年、これを買収したのがイギリスです。この時のイギリスの首相がディズレーリ。積極的な帝国主義政策を執り世界に利権を拡大して居た。
彼は、エジプト政府によるスエズ運河株式売却のニュースを知ると、このチャンスを逃してはいけないと思った。そこでディズレーリは議会に図らず独断でこれを買い取りました。議会の賛成を得ていないから政府からお金が出無い。そこで、大富豪ロスチャイルド家から40万ポンド(約1億フラン)を借りたと云う。
この結果、エジプトの領土にあるにも関わらずスエズ運河の所有権はエジプトには無いと云う事に為ってしまいました。
スエズ運河株式を売ったにも関わらず、エジプトは外国から借り入れた資金の返済が出来なかった。スエズ運河以外にも、近代化政策の為外国から多額の借金をしていたのでした。1876年 遂にエジプト政府が財政破綻すると、債権国(お金を貸している側の国のことを言います)であるイギリスとフランスが共同でエジプト財政を管理下に置きました。
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アフマド・オラービー・パシャ
ウラービー=パシャの革命
この要な状況の中で「エジプト人の為のエジプト」をスローガンに政治改革運動が起こって来ました。指導者はエジプト軍の将校ウラービー=パシャです。ムハンマド=アリー以来のエジプト総督達は、近代化には熱心でしたが立憲政治や議会政治は取り入れず専制政治を続けていました。しかし、近代的な教育を受けたエジプト人の中から立憲政治を目指す勢力が現れて来るのは当然でしょう。
「エジプト人の為のエジプト」と云う言葉の中は、英仏から財政権を取り戻そうと云うだけでは無く、アルバニア系のムハンマド=アリー朝の総督に対する批判も含まれています。
ウラービー=パシャは、1882年権力を掌握し自分自身は陸軍大臣と為って憲法制定などの改革に着手します。これを見てイギリスはフランスには相談せず単独でエジプトに軍隊を派遣し、圧倒的な軍事力でエジプト軍と市民の抵抗を鎮圧して占領してしまいました。
これ以後エジプトはイギリスの支配下に入り、ムハンマド=アリー朝の総督はイギリスの傀儡と為りました。イギリス軍はスエズ運河警備を名目に運河地帯に常駐しました。
改革運動の指導者ウラービー=パシャはイギリスに逮捕されセイロン島へ島流しと為りました。失敗に終わったウラービー=パシャの改革運動は、現在は「ウラービー=パシャの革命」と言われて居ますが、数年前までの教科書には「ウラービーの反乱」と書かれていました。イギリスから見れば反乱だったんでしょうね。誰の視点から見るかで同じ事件でも評価や呼び方が大きく変わる一例です。
ウラービー=パシャの改革と失敗は、同時代の日本でも大きな関心を持たれたようで、洋行する日本政府の高官がセイロン島のウラービー=パシャを訪ねる事がチョクチョクあった様です。伊藤博文の娘婿が訪問して居る様です。
又、農商務省大臣秘書官が東海散士と云うペンネームで書いた小説『佳人之奇遇』(1885)に、ウラービー=パシャが登場します。この小説は結構人気があった様ですから、ウラービー=パシャは明治期の日本人には割と知られていたかも知れません。エジプトの先例に学びながら、明治期の日本は国家建設をすすめたのです。
参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
ヨーロッパ史や中国史のように、人物伝や小説などで物語的な馴染みがあると、歴史書を読んでも理解しやすいのだが、いかんせんイスラム史は(特に近代)は取っ付き難い。この本もそうなのですが、それは、本の責任では無い。敬遠せずに確り読み込んで行く事が勉強だし、そこから徐々に面白さが判って来ると云うものです。
エジプトの自立 おわり 次のページへ 《オスマン・イラン・中央アジア》
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