2018年09月20日
一緒に学ぼう世界史のポイント 79 《ナポレオン 2》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 79 《ナポレオン 2》
ナポレオン 2
ナポレオンの大陸支配
総裁政府を倒したナポレオンは、新たに統領政府を組織します。三人の統領を置いてこれが政務に当たるのですが、ナポレオンは第一統領と云う地位に就く。要するに一番偉い。他の二人の統領はナポレオンの言い為りですから事実上の独裁者です。フランスの支配者と為ったナポレオンはどの様な政治を行ったか。
まずは外交 ナポレオンは、先ず二回目のイタリア遠征を行い勝利を収める。戦争に勝って呉れれば国民は喜びます。クーデタで権力を握ろうがナポレオンのリーダーシップは強力だし久々に頼れる政府が出現して国民は彼を支持する。
これは、第二回イタリア遠征でアルプスの峠を越えるナポレオンを描いたダヴィッドの絵です。非常にカッコ好く描かれている。なんか、ナポレオンは乗馬が得意みたいに見えますが実は苦手だったと云うから完全な想像図でしょうね。
ナポレオンの馬丁達は、彼の乗る馬を調教するのに非常に苦労したらしい。何しろ、乗馬が不得意だけれども見っとも無い処を見せることは出来無い。沢山いる馬のなかから、耳元で銃を撃っても全く動じ無い様な神経の図太い馬を選りすぐってナポレオンに渡したそうです。余談でした。
更に1802年 アミアン条約を結ぶ。これはイギリスとの和平条約です。この条約で第二回対仏大同盟は解体しました。長年の宿敵であるイギリスとの和平を実現して外交にも並々為らぬ能力のある処を示した訳です。フランスに久々に平和が訪れます。
内政でも成果を挙げます 1800年には政府の中央銀行であるフランス銀行を設立。通貨と経済の安定を図りフランス産業の発展の基礎を作る。1801年には宗教協約でフランス革命以来敵対していたローマ教皇と和解します。フランス人の殆どはローマ教会の信者ですから、これは多くの国民の信仰心を満足させた。
この様な成果と国民の人気を背景に、1802年にはナポレオンは終身統領と云う地位に就任する。俺は死ぬまでフランスの支配者と云う事です。
ナポレオンは独裁者ではありますがフランス革命の時にはジャコバン派を支持したこともある人物です。フランス革命の進歩的な理念や理想を理解している。その成果を守ることがフランスの発展には欠かせ無いとも考えています。
独裁者であることと「自由・平等」を守ると云う事は矛盾するのですが、ナポレオンの中ではこのふたつが平気で両立するのです。この辺がナポレオンの面白い処なんですね。だから、ナポレオンの、独裁的な政治手法を嫌悪する人も人も居れば「自由・平等」の実現者として期待する人も居ます。
革命の成果を守ると云う立場から、ナポレオンは1789年の革命以来のフランス政府が出した法令を集大成します。これがナポレオン法典1804年に制定されます。現在のフランスの法律も元を辿ればこれを基本にしていると云う位のものです。
後にナポレオンは言っている「余の名誉は幾度かの戦勝にあるのでは無く、余の法典にある」難しい言い方をすると、ナポレオンはこの法典でブルジョアジーの政治・経済の支配権を確定させたのです。
マタマタ、ナポレオンの言葉「余はフランス産業を創造した」」「創造した」は言い過ぎですが、フランス銀行の設立とナポレオン法典によってフランス産業発展の基礎を固めたのは間違い無い。
さて、ナポレオンの野心は留まる処がありません。1804年にはナポレオンは皇帝に為ります。皇帝としての呼び名はナポレオン1世。これ以後1814年までのフランスの政治体制を第一帝政と云います。
皇帝と云うのは世襲の地位ですから、幾ら何でもフランス革命の民主主義的な理念と矛盾します。だから、ナポレオンは即位前に国民投票を行う「俺が皇帝に為るのに賛成か、反対か?」と国民に問うている。結果は圧倒的賛成多数。形式的ですが革命以来の民主的伝統は辛うじて維持されているといえ無くもない。
ナポレオンの戴冠式
これは、ナポレオンの戴冠式を描いたダヴィッドの絵です。右に立っているのがナポレオン、その前に膝まづいているのがジョセフィーヌです。ナポレオンが皇帝に為る事によって彼女は皇后に為るのですね。
ナポレオンの後ろに座っているのがローマ教皇ピウス7世。カール大帝がローマ教皇からローマ帝国の冠を授けられた故事に倣ってローマから招いたのです。ナポレオンも、ローマ教皇から皇帝の冠を授けて貰う段取りだったのですが、式の直前に気が変わり自分の手で自分の頭に冠を載せたと云う。結構有名なエピソードですが、彼一流のパフォーマンスで初めからローマ教皇に冠を被せて貰う積りはなかったらしい。俺のこの地位は、誰の力でもなく俺自身の実力で勝ち取ったのだと云う事ですね。
ナポレオンの即位は、周辺諸国を刺激します。マタマタ、イギリスの主導で第三回対仏大同盟が結成される。オーストリア・ロシア・スウェーデンがこれに参加します。イギリスはアミアン条約を破棄し再びフランスと諸外国との戦争が再会された。
フランスの主敵はイギリスですから、先ず、ナポレオンはイギリス上陸作戦を実施する。1805年10月 33隻のフランス艦隊がスペインのカディス港から出撃しますが、直ぐにイギリス海軍と遭遇して海戦に為ります。これが有名なトラファルガーの海戦。イギリス艦隊は27隻で、艦船数で言えば劣勢でしたが圧倒的な勝利を収めます。フランス側は沈没3捕獲17逃亡13隻。これに対してイギリスの喪失船はゼロと云う結果でした。
因みに、ナポレオンはパリから指令を出しているだけで、作戦の直接の指揮は執っていません。海軍の指揮は陸とは全く別の世界ですからね。
イギリス艦隊の司令官はネルソン提督。この人は、戦闘中は常に甲板の上に出て自分の姿を部下の水兵たちに見せる。そう遣って味方の志気を高めるのです。姿を表せば当然敵から狙い撃ちされるから非常に危険です。実際、以前の戦いで右目と右腕を失っています。
トラファルガーの海戦の時も、部下達は危険だから甲板に立た無い様に願うのですが、何時ものスタイルを変えずに居た。その結果海戦では勝ったけれど自分自身は弾に当たって死んでしまった。こんな死に方をして人気が出無い筈がないです。ネルソンはイギリスの英雄に為る。現在、ロンドンにトラファルガー広場と云う公園があって、そこにはネルソン提督の像がフランスの方を向いて立って居るそうです。
それは兎も角、海軍が大敗したのでナポレオンはイギリス上陸作戦を諦めざるを得ない。何よりも、戦争で勝ち続ける事がナポレオンの人気と権力の根本ですから、何とかこの敗戦を次の大勝利によって帳消しにしなければならない。ナポレオンは自ら軍隊を率いてオーストリアに出撃します。海戦は苦手でも陸の戦いならナポレオンはお手の物です。
トラファルガーの敗戦の二ヶ月後の1805年12月 アウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍を破る。オーストリア・ロシア連合軍の兵力9万。フランスは7万4千と云う劣勢を撥ね退けての勝利でした。この戦いにはオーストリアとロシアの皇帝も直接参加していたので、ナポレオンも合わせて三人の皇帝が戦場で相まみえたと云う事で三帝会戦とも呼ばれて居ます。
これ以後、ナポレオンはヨーロッパ各地で勝利を収め続け、イギリス・スウェーデン・オスマン帝国以外の地域をほぼ勢力範囲に収めます。そして、フランスの利益に適うように国境線を引き直したり、属国を建設したりする。属国に出来無い様なオーストリアやロシアの様な大国は、同盟国としてフランスの影響下に置きました。所謂ナポレオン帝国が造られて行ったのです。
どの地域がどうなったか、大まかな所だけ見て置きましょう。1806年には神聖ローマ帝国を解体し、ドイツの小国を集めてライン同盟という組織を作りフランスの支配下に置く。
名目だけの存在でしたが千年続いた神聖ローマ帝国が無くなったと云う事は、中世の封建社会が終わる象徴的な出来事です。これによって、オーストリアのハプスブルク家は神聖ローマ皇帝の称号を失い只のオーストリア皇帝に為ります。
最後までナポレオンに抵抗していたプロイセンとロシアも、1807年のティルジット条約でフランスに屈服します。ナポレオンはプロイセン領土の半分を奪い、ここにワルシャワ大公国を建設しフランスの属国とします。他にもナポレオンは、自分の兄弟等の身内をオランダやイタリア・スペインの国王に任命したりして、ヨーロッパ大陸をほぼ支配下に収めました。
この間、1806年プロイセンに勝利し首都ベルリンに入城したナポレオンは、ここで非常に重要な命令を出していますので絶対に覚えて置いてください。大陸封鎖令別名ベルリン勅令といわれる法律です。ナポレオンの支配下及び同盟関係の諸国に対してイギリスとの貿易を禁止する法律です。
軍事的にイギリスを征服するのを諦めたナポレオンは、ヨーロッパ大陸との貿易からイギリスを閉め出すことで経済的にイギリスを追い詰めようとした訳です。これは、ナポレオンの戦争が最終的に何を目標にしていたかを示す大事な法律です。
イギリスの経済活動を妨害するだけが目的ではありませんよ。イギリスとの貿易を禁止して「代わりにフランスと取り引きしなさい」と云うのがナポレオンの意図ですからね。フランス産業の発展が究極の目的です。
ナポレオンは、こうしてフランス皇帝となりヨーロッパ全域を支配下に収めました。全てを手に入れたように見えるでしょ。処が人間の欲望にはキリがない。
ナポレオンはヨーロッパ最高の権力者に為るのですが、言ってみれば「成り上がり者」です。古い伝統と格式を持つヨーロッパ各国の貴族から見ればコルシカの田舎貴族に過ぎない。ナポレオンは伝統と格式を手に入れたいと思った。もう一つが後継者問題です。皇帝の地位を継がせる男子が欲しかった。ナポレオンとジョセフィーヌとの間には子供が出来ません。子供を産んで呉れる若い皇后が欲しいと考えた。
ナポレオンの2番目の妻マリー・ルイーズ
この二つの問題を一挙に解決する為に、1810年にナポレオンは、オーストリア皇帝の娘でハプスブルク家の皇女マリー=ルイーズと結婚します。マリー=ルイーズは18歳。ナポレオン40歳です。マア、完全な政略結婚ですね。しかしナポレオンには、ジョセフィーヌと云う列記とした妻が居ます。恋い焦がれて結婚した妻ですが、こう云う時にはナポレオンは実にドライです。ジョセフィーヌには因果を含めて円満に離婚しました。
マリー=ルイーズに取っては、ナポレオンは理解不可能な只恐ろしいだけの男だった様で、二人の間にどれだけの感情の繋がりがあったかは好く分かりません。しかし、彼女は結婚の翌年には、キッチリと男子を出産しました。この辺りがナポレオンの絶頂期です。
ナポレオンの歴史的評価
少し理屈っぽいですが、ここでナポレオンに対する歴史的な評価を整理して置きます。
先ず、ナポレオンの政治には二つの側面があると云う事。ひとつは、専制君主で軍事独裁者としての側面です。皇帝と云う特別な地位に就くことによってフランス革命の民主主義的な側面を否定しました。処が、一方でフランス革命の継承者としての側面も持つ。フランス革命から始まるフランスの政治経済の改革を推し進め革命の成果を確実にフランスに根付かせました。具体的には、中央集権化・フランス銀行設立・学校教育制度の整備・民法典の整備などの仕事です。
次に、ナポレオンが行ったヨーロッパ各地での戦争にはどんな意味があったか。フランス革命を守る為の革命戦争の継続と考える事が出来る。ナポレオンはフランス軍を解放軍と言って居ます。ナポレオンは服属した地域に、人民主権・自由・平等と云ったフランス革命の理念を広げて行きます。そして封建制度を打ち壊して行く。こう云うのを「革命の輸出」と云います。
又、時間を長くとって観ると、ナポレオンの戦争は世界各地の植民地と市場を巡るイギリスとフランスとの抗争の最後の段階と考える事が出来る。ルイ14世時代の17世紀末から18世紀全体を通じて、フランスとイギリスは断続的に戦争状態が続いています。ヨーロッパではスペイン継承戦争やオーストリア継承戦争に七年戦争と、常にイギリスとフランスは敵対する陣営として争っている。
アメリカ大陸やインドでも、対立して戦争をしています。アメリカ独立戦争がその好例です。1689年のファルツ継承戦争から1815年のナポレオンの最終的な没落までの、イギリスとフランスとの抗争を第二次英仏百年戦争と云う事もあります。
そういう意味では、ナポレオンの戦争はフランスの利益の為の戦争です。だから、初めは各国の民衆から歓迎されたナポレオンのフランス軍も次第に自国の利益の為に他国を抑圧する侵略軍としての側面がハッキリして来る。ヨーロッパ各地でフランスの支配に対する抵抗が起き始めます。それが、ナポレオンが没落して行く最大の理由です。
参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
ナポレオン言行録岩波文庫 青 435-1 cover ナポレオン本人の言葉だから一番信用出来る、という訳では無い。自己弁護や、虚飾も多いらしい。しかし、第一級の資料であることにかわりはありません。
反ナポレオン考―時代と人間朝日選書 cover 両角 良彦著。「反ナポレオン」という題名は、内容にそぐわないと思った。ナポレオンの周辺の人物から見たナポレオン像を描いている。
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