2018年09月20日
一緒に学ぼう世界史のポイント 78 《ナポレオン 1》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 78 《ナポレオン 1》
ナポレオン 1
ナポレオンの登場
統領政府とナポレオンの登場
ナポレオンの名前は誰でも知っていますが、どんな風にしてフランスの皇帝に為ったのか案外知らない人が多い。この人がどんな風に登場して来たか生い立ちを簡単に見て置きます。
ナポレオン=ボナパルトは1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれた。コルシカ島と言われて、場所が直ぐに思い浮かびますか。ここですね。イタリア半島の西に二つ大きな島が浮かんでいます。北側の小さい方がコルシカ島です。
今でこそフランスの領土に為って居ますが、以前はイタリアのピサやジェノバの領土だったこともある。ナポレオンが生まれる直前にジェノバ領からフランス領に為ったので、フランスの領土としての歴史は比較的新しい。
コルシカの人々は、フランス領に為ってからも独立運動を遣って居たくらいですから、ナポレオンの生きていた時代にはフランス人としての自覚は無い。ナポレオン本人もフランス人としての自覚は余りなかったと思います。そう云う人物が後にフランスの皇帝に為ってしまうから歴史は面白いです。
コルシカ島
ナポレオン、偶々コルシカ島がフランス領に為るので法律上フランス人に為ります。貧乏貴族が出世する近道は軍人に為る事でした。そこで、少年ナポレオンは首都パリに出て士官学校に入学する。
因みに、軍隊というのは二種類の人間で構成されています。武器を持って敵軍の正面に出て戦うのは「兵」その「兵」を指揮し作戦を立て命令をするのが「将」。将校とか士官とか色々な言い方がある。「兵」は命令されて動くだけだから体力さえあれば好く誰でも為れます。しかし将校は、戦術や用兵など知識や技能に経験を身に着けなければ為らない為の専門教育が必要です。将校を養成する教育機関が士官学校です。ナポレオンはここに入学する訳だ。
当時は、未だフランス革命勃発前です。アンシャン=レジームのフランスです。将校に為れるのは貴族だけ平民は兵士と決まっていた。詰まり士官学校に入学出来るのも貴族の子弟だけです。ナポレオンはコルシカ出身ではあるが、貴族だったのでこの士官学校に入れた訳です。
学校でのナポレオンは、暗くて目立た無い年だった。無口で友人も出来ない。どうも、パッとしなかった様です。無口だったのは、ナポレオンが傲慢な性格で他のクラスメートを馬鹿にしていたからとも、訛りが酷くてしゃべると皆に笑われたからだとも色々言われている。多分両方でしょうね。
成績も士官学校卒業時の席次が58人中42番と云うから全然優秀じゃ無い。学校の成績が社会に出てからの成功とアンマリ関係が無いという見本みたいな人で励まされるでしょ。
当時の士官学校には3つの科があった。騎兵科・歩兵科・砲兵科です。一番華やかで人気があるのが騎兵、次が歩兵、一番人気の無いのが砲兵です。砲兵科は出来て間も無い学科で、重たい大砲をゴロゴロと戦場まで引っ張って弾を撃つだけだから余り格好好く無い訳です。
ナポレオンが学んだのはこの砲兵科でした。後にナポレオンは大砲を上手に戦術に取り入れて勝利を重ねる事になります。裏街道からいきなり大逆転と云う感じです。
1784年 ナポレオンは士官学校を卒業し、フランス王国の将校としての履歴をスタートさせます。この時の年齢が16歳と云うから一寸今の常識から考えると驚くべき若さだね。貴族出身で士官学校出身と云うだけで16歳でも部隊を指揮する資格を与えられる訳で、アンシャン=レジーム下での貴族の特権と云うのを考えさせられますね。
ナポレオンが軍人と為って6年目の1789年にフランス革命が始まります。革命の進行に従ってフランスを捨てて国外に亡命する貴族たちは増えます。先ほども説明したように軍隊の将校は全て貴族階級ですから、亡命者の中には軍の将校もいる。又、革命に非協力的な指揮官は軍務を外されたり処刑される。将校が少なく為って来る訳だから革命政府に忠実で真面目に励む将校には出世のチャンスです。しかも、ジャコバン派独裁の時期には身分に関係無く能力本位で将校の抜擢も始まる。
ナポレオンはこのチャンスを逃さ無い。出世の為の努力を開始します。何をしたかというと、先ずはジャコバン派の独裁を支持する内容のパンフレットを自費出版する。これで、ジャコバン派に近づきロベスピエールの弟と知り合いに為って自分を売り込むのです。
更には、ツーロンと云う港町を占領していたイギリス軍と王党派の反乱を撃退すると云う功績を挙げ25歳で少将に昇進です。革命の混乱期で無ければ在り得無い様な出世です。少将と云うのはランクとしては上の方ですからね。序だから軍隊の階級を上から並べておこうか。大将、中将、少将、大佐、中佐、少佐、大尉、中尉、少尉、ここまでが一般的な将校の階級です。
トントン拍子に出世を続けるナポレオンですが、落とし穴が待っていた。テルミドールのクーデタです。ロベスピエールのグループが処刑されジャコバン派の独裁が終わってしまった。それだけで無く、ナポレオン自身もジャコバン派と云う事で逮捕されてしまいました。直ぐに釈放されますが、軍務を外されて左遷状態に置かれる。
この不遇の時に、ナポレオンは復活のチャンスを掴もうとコネを求めて有力者のサロンをアチコチ訪れる。所謂社交界に出入りする訳です。そこでナポレオンが一目惚れした相手がジョセフィーヌという女性です。彼女は、貴族出身の未亡人。ナポレオンより6歳年上。夫はジャコバン派独裁で処刑されたと云う身の上。死んだ夫との間に二人の子供がいる。しかも、ナポレオンと知り合った当時はバラスと云う愛人がいた。
ジョセフィーヌ
ナポレオンは、そんなことは一切気にせず彼女に夢中に為るのです。ジョセフィーヌの愛人バラスと云う人物は大物政治家で後に総裁政府で総裁に為るという実力者です。このバラスが、ナポレオンのツーロン反乱鎮圧の活躍を覚えていて彼にチャンスを与えるのです。
1795年10月 ヴァンデミエール反乱という事件が起きる。これは、王党派がパリの中心部で起こした武装蜂起で、街のど真ん中で起きた反乱だけに政府も鎮圧に手間取った。この時にバラスがナポレオンに鎮圧を命じる訳です。
ナポレオンは、バラスに大砲を使って好いかと尋ねた。都会の真ん中で大砲をぶっ放すなんて云う事は誰も思い着かなかったと云うか、そんなことをしたら無関係の市民に死傷者が出るかも知れないし被害の予想が着かないから誰も遣ろうとしなかった。結局、使用許可を貰い、ナポレオンは大砲を使って見事に反乱を鎮圧します。この功績で、ナポレオンは国内軍司令官に就任 見事に復活を遂げます、この時26歳。
1795年10月 総裁政府が成立します。ナポレオンがヴァンデミエール反乱を鎮圧した直後です。バラスが、この時に5人の総裁の一人と為った事は先ほど説明した通りです。翌年1796年には、ナポレオンはイタリア方面軍司令官に任命されます。第一回対仏大同盟との戦争は未だ続いていて、イタリア経由でフランスに向かって来るオーストリア軍を叩くのがナポレオンに与えられた任務です。ナポレオンの大活躍はここから始まります。
因みに、イタリア遠征に出発する直前に、ナポレオンはジョセフィーヌにプロポーズ。急いで結婚してから遠征に出かけた。イタリアに行ったらナカナカ会えないから、結婚によってジョセフィーヌを確り捕まえて置こうとしたんだね。ジョセフィーヌの方は、結構迷ったらしいが、バラスに勧められて求婚を受けた。この辺のバラスの神経は好く判りません。
さて、ナポレオン軍はイタリアで連戦連勝。ナポレオンの軍隊が滅茶苦茶強かったのは何故か。後で詳しく説明しますが、簡単にひとつだけ言って置きましょう。ナポレオンは、遠征軍の兵士に向かってこんな演説をしています。
「攻勢に出よう。武器も食糧も敵地にある。敵領の民衆を圧政から解放しよう!我々は革命軍なのだ」
ナポレオンは、イタリアの封建制度をブッ潰して、イタリアの民衆にフランスと同じような「自由」「平等」を与えてやろうと言っているのです。確認して置きますが、この当時のヨーロッパでフランスだけが革命によって封建制度や身分制度がなくなって居る。市民による政府が成立している。
しかし、イタリアも含めてそれ以外の地域では封建制度が続いていて、平民階級、詰まり農民や市民は貴族・領主によって政治的にも経済的にも抑圧されているのです。フランスと同じように、イタリアの平民も封建制度は嫌です。貴族や領主の支配をヒックリ返したいと思っている。だけど、イタリアの封建領主階級の力はマダマダ強いし更にそのバックにはオーストリア軍が控えている。自分達の力だけでは革命を起こすことは不可能に近い。
そこに、ナポレオン軍が遣って来てオーストリア軍と戦って呉れる。そして、フランス軍が占領した地域の封建制を無くして呉れるという。「敵領の民衆を圧政から解放しよう」と云うのはそう云う事です。ナポレオンは、フランス革命をイタリアでも遣ってやろうと云う訳です。
だから、イタリアの民衆は喜んでフランス軍を歓迎します。そういう意味ではイタリアは「敵地」ではない。逆にイタリアを押さえ着けているオーストリア軍はイタリア人からは憎まれている。地の利はフランスのナポレオンにあります。遠征地の住民の協力があるので兵士や馬の食糧も簡単に現地で調達出来る。「武器も食糧も敵地にある」はそのことを指しています。
物資を現地調達出来るから、部隊の荷物はオーストリア軍に比べて軽装で済む。荷物が軽いと云う事は移動速度が速いと云う事です。ナポレオン軍は、オーストリア軍の予想を超えたスピードで部隊を集結させて打撃を与える事が出来たのです。
話を元に戻しますが、最終的にナポレオンが率いるイタリア遠征軍に敗北したオーストリアは、フランスと和約を結び、これによって第一回対仏大同盟は崩壊しました。
フランスではナポレオン人気は急上昇。一寸したヒーローに為る。ナポレオン自身も自分の軍事的・政治的な才能に自信を持ち始める。フランスに戻ったナポレオンは、今度は自分から新しい軍事作戦を提案します。それがエジプト遠征です。
ナポレオン エジプト遠征
フランスの国境近くに迫って来る外国軍と戦争をするのなら判るのですが何故エジプトなのか。フランスとは全然関係無いじゃないですか。総裁政府の指導者たちも何でエジプト?と思ったようです。これに対してナポレオンは言う。
「フランスの敵は常にイギリスである。第一回対仏大同盟もイギリスの主導で結成された。イギリスに打撃を与えなければフランスの安定と発展は無い。そのイギリスは植民地インドとの交易で利益を挙げている。エジプトはイギリスとインドを繋ぐ中継地である。従って、エジプトをフランスの支配下に置くことで、イギリスに打撃を与えることが出来る」
現実には、フランスがエジプトを抑えてもイギリスがどれだけのダメージを受けるかハッキリしないのですが、兎に角ナポレオンは反対論を押し切ってエジプト遠征を認めさせてしまった、兵力は5万8千。
ナポレオンの主張はやっぱり屁理屈で、エジプト遠征は結局の処ナポレオンの名誉欲や功名心から計画された様な気がします。ナポレオンは、この頃既に自分自身を英雄だと信じて、古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王と自分を重ねて居た様です。
アレクサンドロスも東方遠征を行ってエジプトを征服しているでしょ、それを自分も遣りたかったのではないか。アレクサンドロスは東方遠征の時に学者を大勢引き連れて行くのですが、ナポレオンもそれに倣って考古学者など165人を連れて行きます。当時、ヨーロッパでは一寸したオリエントブームでエジプトに対する関心も高まって居た様です。
ナポレオンが連れて行った学者達が、エジプトでロゼッタ=ストーンを発見したのは有名な話。ロゼッタ=ストーンの碑文から古代エジプトの神聖文字が解読された話は以前にしましたね。
ピラミッドの戦い
フランス軍は、エジプトでもピラミッドの戦いと呼ばれる会戦で勝利を収めている。この戦いの前にナポレオンは兵士に演説している。「ピラミッドの上から四千年の歴史が諸君を見下ろしている」 要所要所で決めゼリフを吐いて、兵士の心を燃え立たせるのが上手ですね。
参考までに言っておくと、この時期のエジプトはオスマン帝国の領土です。エジプトでフランス軍と戦ったのはマムルークと呼ばれる将軍達でした。
さて、イギリスですが、陸軍の戦いではフランス軍に太刀打ち出来ませんが海軍は強い。イギリス海軍は、エジプトのアブキール湾に居たフランス海軍を攻撃してこれを撃滅させた。舟が無ければフランスに帰ることも出来ない、ナポレオンのフランス軍はエジプトに孤立することになります。更にイギリスは、オーストリア・ロシア・オスマン帝国などに呼び掛けて再び対仏大同盟を結成します。(第二回対仏大同盟)
この結果、再び諸外国の軍隊がフランス国境に迫り、イタリアではフランス軍がロシア軍に敗北します。危機の中で総裁政府と議会の対立は激しく為りフランスの政情は不安定になる。元々、総裁政府は強い指導力を持っていなくて頻繁に政変が起きていましたから、不安定な政情のなかで強力なリーダーシップを持った指導者を求める気運が高まって来ます。
エジプトで孤立しながらも戦い続けていたナポレオンの元にフランス国内の情勢が伝えられると、彼は、僅かな側近だけを引き連れてエジプトを脱出してフランスに向かいます。政府が、ナポレオンに帰還命令を出した訳でも何でも無い。ナポレオンの勝手な行動で明らかな軍紀違反です。
自分の指揮する部隊を、放り出して行くわけですから、責任ある軍人としてはあり得ない。ナポレオンは、軍人としてでは無く政治家として行動した。このチャンスに自分が権力を握ろうと決断したのです。
この時丁度都合の良いことに、ナポレオンの弟が議会の議長をして居た。1799年11月 パリに戻ったナポレオンは、弟の協力を得て合法的に権力を掌握しようとしますが上手く行かない。結局、軍の力を背景に総裁政府を倒して権力を握りました。この事件をブリュメール18日のクーデタという。これ以後1814年まで、ナポレオンがフランスの独裁者として君臨する事になります。
参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は
ナポレオンとジョゼフィーヌ中公文庫 ジョセフィーヌの視点からの、ナポレオンなど男達との人間模様。ナポレオンの熱烈な恋文が沢山読める。
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