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2018年09月14日

一緒に学ぼう世界史のポイント 77 《フランス革命 4》



 世界史講義録より


  一緒に学ぼう世界史のポイント 77 《フランス革命 4》
 


 フランス革命4

 



 ジャコバン派独裁

 1793年6月 ジャコバン派は武装したパリ市民の力を背景に、ジロンド派の主だった幹部を国民公会から追放しました。これ以降の約一年間ジャコバン派独裁と云う。

   9-20-7.jpg ロベスピエール

 政治の中心と為ったのはロベスピエール 6歳で母親を亡くし10歳の時には父親が蒸発。兄弟達の面倒を見る為に苦学して法律を学んび弁護士と為った苦労人です。元々正義感が強かったんだろう。弁護士として貧しい庶民の弁護を多く引き受けて有名に為る。愛読書はルソーで、三部会が開かれた時に議員に選ばれパリに出て政治活動を開始します。
 一言で言って滅茶苦茶真面目な男です。自分の理論を信じそれに従って自分の行動を律する事が出来る人物でしかも堅い。結構好い男ですが女性には見向きもしなかった。生涯独身というか女性との深い付き合いは死ぬまで無かったらしい。ロベスピエールが女性と関係したことがあるかどうかと云う研究まであるらしいが、結論は「無し」金銭にも潔癖だったそうです。彼はパリでは指物(さしもの)職人の家に下宿暮らしです。今で言えば、総理大臣の様な高い地位に為っても自分の屋敷などを持とうとしなかった。革命に全てを捧げた人物だったのです。

 このロベスピエールを中心にジャコバン派独裁が行われた。だから独裁を遣って居る側としては権力を握って甘い汁を吸って遣ろうと云う気はサラサラ無い。飽く迄もフランス革命と共和国を守る為の非常手段と考えていた。
 組織としては公安委員会と云うのが政府の中枢です。これは、国民公会に設置された委員会で、ロベスピエール達はこの公安委員会に権力を集中し革命を推進して行きます。ジャコバン派がこの間に行った主な政策は次のようなものです。

 



 ・封建的特権の無償廃止 1789年8月に、国民議会が封建的特権の廃止を宣言していますが、その時は「有償」今回は「無償」です。お金を払って権利を買い取ら無くても好い。更に、亡命貴族の土地を小分けして農民に売却した。しかも10年間支払を猶予したので、農民は土地を比較的容易に手に入れる事が出来ました。
 ・最高価格令 インフレを抑制する為に、政府が強制的に商品の最高価格を決定した。
 ・徴兵制の採用など軍政改革 義勇軍と正規軍を統合したり、軍隊内の体刑を廃止したりする。これによってフランス軍は、国境に迫る諸外国軍を打ち破る力を持つ軍隊に成長して行きます。
 ・革命暦の制定 グレゴリウス暦はキリスト教と結びついていると云う事で新しい暦を作った。季節に応じて月の呼び方も変えます。ブリュメールとかテルミドールとか、フランス革命期の事件の名前で出て来るのがこの革命暦の月の名前です。
 ・メートル法の採用 度量衡の統一と基準の客観化を行った。
 ・最高存在の祭典 革命のモラルを高める為に「最高存在」を祀る大イベントを実施した。最高存在と云うのは理性と考えて好いと思います。ロベスピエールは、キリスト教そのものを否定していた訳では無い様ですが、それに替わる崇拝の対象を求めたのです。この祭典は、これっ切りで後世には全然影響力を持ちません。
 ・ジャコバン憲法(93年憲法)の制定 男子普通選挙などを含む民主的内容の憲法ですが未実施に終わります。

 そして、ジャコバン派独裁の最大の特徴が「恐怖政治」です。この時期に反革命罪で非常に多くの人達が処刑されたので恐怖政治と云う。ジャコバン派独裁が始まった頃は、国内各地で反革命の反乱が起きて居たので、革命政府を守る為には厳しい処分で反対派を押さえ込む必要があった。又、最高価格令など下層市民に取っては有難い法律ですが、商工業者など上層・中層市民に取っては、値上げが出来無くて迷惑この上ない。だから、最高価格令を守らせる為には強引な手段が必要です。その為、充分な裁判も無いまま死刑が乱発されたのです。

 


 この時期に処刑された人数を見て置きましょう。パリに革命裁判所が設置された1793年4月から94年6月10日までの処刑が1251人・一月平均130人前後・一日に直すと4.5人。現在日本で一年間で死刑執行される数がこれ位ですか。しかもこの数字はパリだけですからね。
 94年6月11日からは裁判が簡略されて処刑が激増します。7月27日までの47日間に1376人・一日平均29人。昼間の8時間に死刑執行が行われるとすると一時間平均3.6人で大体15分毎に首が落ちている計算になる。当然無実の罪で処刑された者も多かった筈で、ロベスピエールに冷酷な悪魔のようなイメージを持っている人が居るのもこれが原因です。

   9-20-12.jpg ジョルジュ ジャック ダントンの処刑

 ジャコバン派独裁の末期になると、ロベスピエールは同じジャコバン派の政治家達も処刑し始めます。何故かと云うとジャコバン派の中にも考え方の違いが生まれて来るのです。下層民の支持を背景にもっと過激に革命を勧めようとする左派グループと、上層市民に近い立場から穏健な政策を求める右派グループです。
 ロベスピエールのグループは中間派で、自分達の路線を守る為に左派や右派共に政敵として処刑します。1794年3月には下層市民に人気のあった左派のエベールとそのグループを処刑。4月には右派のダントンとそのグループを処刑。
 ダントンはロベスピエールと並んで過つてはジャコバン派のリーダーの一人だったのですが、金銭スキャンダルが絶えず上層市民に近い立場を取って居た為に処刑されたのです。例の画家ダヴィッドが、矢張り処刑場に連行されるダントンのスケッチを残しています。傲然としてナカナカ迫力ある表情です。自分をスケッチするダヴィッドを見て、ダントンは「この下司野郎!」更に、ロベスピエールの下宿の前を通った時には、2階を見上げながら「ロベスピエール、次はお前の番だ」と叫んだと云います。最後まで個性的で激しい男でした。

 



 こう為ってくると国民公会の議員たちは、皆「次は俺が遣られるのではないか」と不安に為って来る。国民公会には、ジャコバン派以外に平原派と呼ばれる一団の議員たちがいた。彼等は、ジロンド派の追放とジャコバン派独裁を黙ってみていた事無かれ主義のグループです。その平原派が、恐怖政治の行き過ぎロベスピエールの独裁に不安を持ち反ロベスピエールで結束します。ジャコバン派の中でも「遣り過ぎた」ロベスピエールは孤立します。

   9-20-8.jpg 兵士に撃たれる

 1794年7月 遂に国民公会でロベスピエールの逮捕が決議され、ロベスピエールはパリ市庁舎に逃げ込む。武装したパリ市民を味方に付けて国民公会に反撃しようと考えたのです。市庁舎の一室で、パリ市民への指令書を書いていると、そこに国民公会から差し向けられた兵士が踏み込んで来た。
 ロベスピエールは机の中からピストルを掴み出し振り向いて反撃をしようとしますが、逆に兵士の撃った弾で顎を打ち砕かれてしまった。ロベスピエールの顎からボタボタボタと血が滴り落ちた。

   9-20-9.jpg ロベスピエール最後の命令書

 ロベスピエール最後の指令書 下の黒いシミが血痕、Roのサインはその右上に小さくある

 この時の血染めの命令書が現存します。これがそう。コピーですけど。下の黒いシミがロベスピエールの血痕です。署名の「Ro」の字まで書かれている。ロベスピエールの「RO」です。ここまで書いた処で撃たれたんだね。
 それは兎も角、ロベスピエールは逮捕されサン=ジュスト等と共に翌日には処刑された。ロベスピエールのグループとして処刑された人数は108人。例によって、ダヴィッドが処刑場に惹かれて行くロベスピエールをスケッチしている。銃で撃ち抜かれた顎をハンカチで縛って支えています。ハンカチが黒く描いてあるのは、血で赤く染まっている為でしょうね。
 ロベスピエールの逮捕と処刑で、ジャコバン派の独裁と恐怖政治は終わりました。この事件を「テルミドールの反動」と云う。テルミドールは革命暦で7月のこと。

    9-20-10.jpg テルミドールのクーデター 

 呆気なくジャコバン派独裁が終わってしまった背景として、次のことを頭に入れて置いてください。ジャコバン派独裁が始まった時は、外国軍の侵攻や内乱や経済危機があり、この危機を乗り切る為には独裁政治しか無いと云う意識が国民にはあったのです。でも、1794年に入ると戦況は好転し物価も安定して、危機は山場を越えて行く。ジャコバン派独裁の恐怖政治をもう我慢する必要が無くなったと国民は感じ始めていたのです。

 



 革命の終幕

    9-20-11.jpg

 多くの歴史学者は、1789年に始まったフランス革命は「テルミドールの反動」で終わると考えています。 確かに「テルミドールの反動」以降は、民衆が政治の前面に登場することは無くなります。武装した下層市民の政治運動は下火になる。運動の指導者が皆処刑されてしまったから当然といえば当然。
 ジャコバン派独裁でフランス革命の政治的試みは行き着く処まで行ってしまった訳で、今度はジロンド派が国民公会に戻って来る。再び上層市民が政治の主導権を取り戻します。
 1795年には新しい憲法が制定され、下層民を排除した制限選挙によって新しい政府が造られました。これが総裁政府。この政府は、富裕市民や土地所有農民の利益を代表している。財産を持っている人の為の政治をする訳です。

 

 
 5人の総裁が行政を担当する。独裁を避ける為に5人の総裁を置いたのですが、逆に指導力の弱い政府に為ってしまったことが総裁政府の弱点。又、恐怖政治が終わり政治的な緊張が緩む一方で、政府転覆の策謀が繰り返され政局は非常に不安定になる。
 一つは王党派の策謀。王党派と云うのは王による政治と貴族社会を復活させようとするグループです。総裁政府はジャコバン派のように過激では無いが、フランス革命の成果を引き継いでいますから王党派は許す事の出来ない敵です。
 又、バブーフと云う人物は下層市民の立場から政府転覆を企てた。事前に計画が漏れて反乱は失敗しますが、一種の共産主義社会を目指していた点で思想的に重要視されて居る様です。又バブーフは、極少数のメンバーでの武装蜂起を計画していた。ベルサイユ行進や8月10日事件のように、市民大衆の直接行動が政治を動かす時代はもう終わっていたのです。

 恐怖政治も困るが弱体な政府も不安です。総裁政府のもとで国民は強力な指導者を求め始めます。そこに登場するのがナポレオンです。


 参考図書紹介・・・・もう少し詳しく知りたい時は

 世界の歴史〈15〉フランス革命河出文庫 現在読める定番の概説書です。 アメリカとフランスの革命世界の歴史 cover 後半のフランス革命からナポレオンの記述は、従来の概説書に較べて事件の因果関係がスッキリと整理されて非常に参考になりました。


 フランス革命4 おわり  次のページへ 《ナポレオン1》

 


 



 



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