2018年09月14日
一緒に学ぼう世界史のポイント 68 《明中期以降・朝鮮》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 68 《明中期以降・朝鮮》
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明朝中期以降・朝鮮
北虜南倭
15世紀中頃から「北虜南倭」と言われる事態が明朝に大きな被害と軍事支出の増大による財政圧迫を招きます。北虜とは北から攻めて来るモンゴル系遊牧民族のことです。モンゴル高原に退去したモンゴル族は、チンギス=ハーン直系の勢力をタタール、傍系で新しく勢力を伸ばして来たグループをオイラートと呼ぶ様に為って居ます。
オイラート
15世紀中頃には、オイラートにエセン=ハンと云う有能なリーダーが出て勢力を伸ばした。エセン=ハンは、西のティムール帝国と東の明朝とを繋ぐ交易路を抑え、更に明と朝貢貿易を行って莫大な利益をえて居たのですが、明が貿易を制限し始めると貿易拡大を要求して攻め込んで来た
のは1449年のことです。
この時の皇帝が正統帝。止せば良いのに、宦官の口車に乗せられて自ら軍隊を率いて出撃したのですが、北京の北方の土木堡と云う場所でモンゴル側の捕虜に為ってしまった。これを土木の変と言います。エセン=ハンは中国との貿易拡大が目的だったので、明を滅ぼすと云う事はありませんでしたが、皇帝が捕虜に為るとは大失態でした。
正統帝
エセン=ハンの死後オイラートは衰退しますが、16世紀後半に為るとタタールがモンゴル高原を統一する。リーダーがアルタン=ハンです。アルタン=ハンも、中国との貿易を求めて中国北部に侵入を繰り返した。1542年の侵入では男女20万人を殺し家畜200万を奪い莫大な衣糧金銭を掠め取ったと記録されている。毎年の様に、こう云う被害が出る訳で明朝側も国防に必死です。
北方遊牧民の侵入を防ぐ為に国防費は増加します。現在残っている万里の長城は、この時代に建設されたものです。
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南倭は主に中国南岸地方で活動した日本の海賊。これは、前期倭寇(14世紀)と後期倭寇(16世紀)に別れます。
倭寇は日本では足利幕府の時代です。足利幕府は三代将軍義満の時までは非常に不安定な政権でした。南北朝の政治的混乱が続き、地方は事実上の無政府状態で、小領主が好き勝手な事をやって居ました。幕府は地方の隅々まで統制する力は無かった。
こういう中で、五島列島などの貧しい漁民たちが倭寇に為った。又、明は海禁政策をとっていて民間人に海外貿易を許可していなかったので、中国貿易を求める商人達が海賊行為をしたとも云う。これが前期倭寇です。だからこの時期の倭寇は、足利幕府が安定し明との間に勘合船貿易が始まると収まりました。
応仁の乱後、足利幕府の統制が乱れて来ると、再び倭寇が活動を始めます。これが後期倭寇。中国南岸の港に遣って来て貿易が思うように出来ないと海賊に変身して略奪を行う。沿岸地方だけで無く、河川をさかのぼって都市を攻略して略奪をするのです。海上で、他の船を襲うのでは無いですよ。
「倭人の至る所、人民一空す」と言われて、人間まで浚って行く。後期倭寇の被害に明は苦しむのですが、この時期の倭寇の構成員は殆どが中国人で、日本人は一割から三割だったと言います。但し、我々が考えるような国境や国籍は当時の人達には関係無い訳で、例えば後期倭寇の大親分で王直と云う中国人が居るのですが、彼の本拠地は五島列島だった。当人達は、海の世界に暮らす者同士仲間意識はあっても、日本人だ中国人だと云う意識は無かったかもしれない。
張居正
張居正
北慮南倭の対策で、国防費が増加し国家財政は大赤字に為る。永楽帝以来、明の皇帝は凡人か放蕩児が続いて宦官の横暴が罷り通っています。この状態を一時立て直したのが張居正。10歳で即位した万暦帝(位1572〜1620)の後見人として政治を担当した大臣です。
万暦帝
非常に剛胆な性格で、正しいと思ったことは反対があってもドンドン実施した。又、滅茶苦茶だった綱紀を粛正した。税金はビシビシ取り立て浪費を戒め官僚組織を引き締めた。この結果、税の滞納率20%、年間100万両以上の赤字だったものが1576年には390万両の黒字に為ったと言う。
又、一条鞭法と云う新しい徴税方法がこの時期全国に広がった。様々な徴税項目があり非常に煩雑だった租税と力役を夫々銀納化した制度です。徴税事務が簡素化され、里長クラスの農民の負担が軽くなった。又、タタールとの間にも和平を実現しました。
張居正が政権を担当している時期にこんなことがあった。彼の父親が死んだのです。父が亡くなれば当然喪に服して仕事を休むことに為る。中国は儒教の本場です。官僚は儒教道徳のお手本ですから、親が死んだら一年や二年は田舎に帰って喪に服し仕事から離れるのが常識でした。
処が張居正は、皇帝に頼んで「父の喪に服さず、正常の勤務を続けよ」と命令を自分に出させる。そして、政務を続けたのです。儒教道徳から見れば飛んでもない行動です。それ位頑張って明朝の政治を引き締めた人物でした。
張居正が約10年間ワンマン宰相として政治をしている間は、張居正を批判出来る人は誰も居な渇た。実績もあげていたしね。しかし死んだ後は、特に父親の喪に服さ無かったことなどが批判されて、彼の残された家族は弾圧されました。又、張居正が生きていた間は、真面目にして居た万暦帝も、急に政務に対して熱意を失って堕落した生活を送る様に為りました。
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明末期の政治
張居正が建て直した明の財政でしたが、その後急速に悪化します。軍事費負担が増大する。
1592年から98年まで、豊臣秀吉が朝鮮を侵略します。日本では、文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれています。
壬辰・丁酉の倭乱
秀吉が朝鮮に戦争を仕掛けた理由は 色々と在る様ですが、どうもこの時期の秀吉は誇大妄想に取り付かれて居た様で、中国を征服しようと真剣に考えたらしい。それで、中国への道筋にある朝鮮に協力を命じた。朝鮮は明朝の冊封国の立場ですから秀吉の命令など聞く筈が無い。そこで、秀吉は朝鮮を懲らしめると云う名目で、諸大名に命じて朝鮮侵略戦争を開始した。
日本の軍隊は、戦国時代を経験して居ますから戦争慣れしていて強かった。又、鉄砲を沢山持っていて朝鮮軍よりも武器で優れていた。朝鮮の正規軍は、当初日本軍に連戦連敗して明に救援を求めた。朝鮮国は明の冊封体制に組み込まれていて、形式上朝鮮国王は明国皇帝に対して臣下の礼を執って居る。
朝鮮国の上に立つ明としては、助けを求められたらこれに応え無ければ面目がありません。明の大軍が朝鮮半島に遠征し、ここで日本軍と戦争をしたのです。結局、秀吉が死んで日本軍は撤退するのですが、明はこの戦争で10万の戦死者と1000万両の出費をした。
女真族の後金国
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更に、同時期に南方では少数民族であるミャオ族の反乱、北の国境の町寧夏ではモンゴル人将軍ボバイの乱など、戦争が相次ぎます。
又、中国東北部に居た女真族にも動きが起きる。彼等は明に服属していたのですが、日本軍の侵入で明軍が朝鮮半島に張り付いている隙に、部族を統一して急速に力を着けて来ます。1616年には女真族は後金国を建国して明朝と対立します。
明の皇帝は、財政赤字を埋める為に、正規の政府機関を使わず、私的に宦官を地方に派遣して、色々な名目の新税を徴収した。宦官達は、かなり強引な方法で税金を集めたので、各地で混乱や騒動が起こりました。
更に官僚の中にも派閥対立が生まれて来る。宦官が政治に関わる現状に批判的で、清廉潔白な政治を実現し様とする官僚達が東林党と云うグループを作った。一方で、宦官と仲良くして出世しようと云う現実的な官僚達も居て、このグループを非東林党と云う。東林党の人達の志は立派だったのですが、宦官達に弾圧されたり非東林党との派閥争いに巻き込まれて、結果的に明の政治は更に乱れて行った。
一方、農村や都市には、宦官達がやって来て、正規の税以外に色々取り立てるので、各地で徴税に反対する運動が起きる。都市での商工業者の抵抗を民変、農村での抵抗を抗糧闘争と云う。小作料支払いを拒否する抗租闘争も活発に為ります。中央政界だけで無く、地方社会も騒然とした雰囲気に包まれて来るのです。
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朝鮮半島
一時、モンゴル帝国に服属していた高麗は、中国に明朝が成立すると明の冊封国と為りました。冊封と云うのは中国の王朝と周辺国との関係で、冊封国は中国に対して臣下の礼を執り、出兵の要請に応じたり朝貢する等の義務を負う。その代わり、中国の保護を受ける事が出来るというものです。
李成桂
高麗は倭寇の侵入で衰退し、倭寇撃退に活躍した将軍李成桂が高麗を倒して新しい王朝を建てた。これが朝鮮(1392〜1910)です。李氏の王朝なので李朝と呼んだり地名と区別する為に李氏朝鮮とも呼びます。首都は漢城。現在のソウルです。
政治は中央集権的。中国を真似て科挙も行う。只、政治の中枢は両班(ヤンパン)と云う貴族階級が握って居た。外交的には明の冊封国と為ります。後に明が滅ぶと清の冊封を請ける。儒学の中でも朱子学が奨励されて国教的な扱いを受ける。朱子学的な倫理・行動が何よりも重んぜられる国に為ります。
李氏朝鮮成立前後の倭寇の被害は可成り激しいものがある。明の北虜南倭の処でも少し話しましたが、朝鮮ではどんな風だったのか紹介して置こう。
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1397年に慶尚南道晋州を襲った倭寇は、騎馬700歩兵2000と云う規模。海賊と云う様なものでは無い。軍隊そのものです。九州辺りの守護大名クラスの連中が遣って居るのかも知れない。
朝鮮と足利幕府には外交関係があって、朝鮮から通信使と云う使節が何度か日本に遣ってきます。プリントに載せてあるのは1429年に来日した朝鮮通信使・朴瑞生の帰国報告です。
「倭賊嘗て我が国を侵略し我が人民を虜し、以て奴婢と為し或いは遠国に転売し永く還らざらしむ。其の父兄子弟、痛心切歯するも、未だ讐に報いることを得ざる者、幾何人か。臣等の行くや、船を泊する処毎に、被虜の人争いて逃げ来たらんと欲すれども、其の主の枷鎖堅囚するを以て未だ果たせず。誠に愍れむべきなり。日本は人多く食少なく、多く奴婢を売り、或いは人の子弟を竊みて之を売る。滔々として皆是なり。(『世宗実録11、12乙亥』より)」
(日本に行ってみたら、倭寇に浚われ奴隷にされた朝鮮人が沢山いて驚いて居るのです。通信使をみて助けを求めて居るんだけれど、皆鎖に繋がれて逃げることも出来ない)とある。人身売買で生計を立てている日本人が沢山居たのですね。
余談に為りますが、この時代のもう少し後の戦国時代には、戦国大名同士で敵の領地から人を浚って来て奴隷として売ると云う事を日常的に遣って居ます。奴隷は海外にも輸出されていて、南蛮貿易でポルトガル商人が日本で買い着ける重要商品の一つでした。秀吉の朝鮮侵略でも多くの朝鮮人を奴隷として連れて来ていますね。
世宗
李氏朝鮮の王様で、重要な人が世宗(位1418〜50)セジョンと発音する。世宗は「訓民正音」を制定した。ハングルのことです。それまで、朝鮮半島では文字は漢字だけです。民族の言語を表す文字は無かったのです。ハングルは非常に合理的に作られた文字で、発音する時の舌の形で子音を表していたりする。
只、朝鮮では中国文化の影響力は圧倒的で、訓民正音制定後も公式文書は漢文でした。ハングルが一般に広まるのは19世紀の末です。ハングルと云うのは「偉大な文字」と云う意味で、こう呼ばれる様に為るのは朝鮮が日本の植民地に為って以降です。民族の誇りを守る為に着いた名前ですね。
ハングル
15世紀以降の朝鮮は、両班(ヤンパン)の党派闘争が続く様に為ります。朝鮮の政治を見ていると、政治闘争が朱子学の倫理と絡んで展開するので非常に判り難い。党派党争があってもダイナミックな動きは余りありません。
16世紀末には豊臣秀吉の侵略を受けた。壬辰・丁酉の倭乱です。劣勢に立たされた朝鮮は明軍の救援を求めましたが、大活躍した朝鮮人将軍も居ます。水軍を率いた李舜臣(イスンシン)です。亀甲船と云う船で日本海軍に連勝した。
亀甲船は船の上を亀の甲羅みたいに板で覆っている。これは日本兵の斬り込みを防ぐ為です。そして、側面の隙間から大砲を撃って攻撃した。海を渡って兵士に糧食を補給し無ければ為らない日本側は、李舜臣率いる亀甲船の水軍に大いに苦しめられたのでした。
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