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2018年09月14日

一緒に学ぼう世界史のポイント 69 《清》



 世界史講義録


  一緒に学ぼう世界史のポイント 69 《清》
  

 

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 清の成立

     9-16-12.jpg ヌルハチ
 
 明の末期に中国東北地方で女真族が勢力を回復して来る。女真族は、12世紀から13世紀に掛けて中国北部に金を云う国を建てたこともありましたが、モンゴルに滅ぼされて以来、元や明に服属して居た。しかし、明が朝鮮に侵入した秀吉の日本軍に勢力を注いで居る隙に、再び力を着けて来る訳です。
 女真族の諸部族を統一したのがヌルハチ(1559〜1626)。彼は、1616年、明から自立して後金国を建国した。後を継いだのが、息子のホンタイジ(位1626〜43)。

     9-16-13.jpg ホンタイジ

 

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 彼は、モンゴル高原を勢力下に置いた。この時に、モンゴル有力氏族に代々伝えられていた元朝玉璽 詰まり元朝皇帝の印章を手に入れます。これ以来、ホンタイジは女真族のハーンであると同時に、モンゴル人の大ハーンの地位を兼ねる事になった。
 又、後金国の本拠地中国東北地方には女真族の何倍もの漢民族が住んで居ました。だから、ホンタイジは女真族・モンゴル族・漢族を支配する事になった。1636年には、国名をと改めます。ホンタイジ自身も改めて皇帝に即位する。中国風の国号を採用することで、多くの民族を支配する中華帝国の支配者と為る事を宣言したのです。この後、ホンタイジは中国本土への侵入を企てて、万里の長城を境として明との戦いが続きます。

 

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 清の軍制が八旗。女真族を八つの集団に編成してそこから兵士を出させる制度で、清朝の正規軍と為った。それぞれシンボルの旗があるので八旗と云う。ホンタイジ時代にはモンゴル人や漢民族にも八旗を編成させ、蒙古八旗や漢軍八旗が出来ます。八旗は、丁度同時代の徳川幕府の旗本の様なものです。
 建国初期には大活躍するが、特権的地位に安住して後にはスッカリ軍隊として使いものに為らなくなった処もソックリです。これ以外にも、後に緑営と云う軍制度が作られます。これは、明の衛所制を引き継いだもので主に地方の治安維持を担当した。

 女真族の間には文殊菩薩信仰があって、文殊の音マンジュを取って、女真族を満州族と云う言い方があるのですが、ホンタイジの時代にこの表現が定着する様です。又、中国東北地方を満州と云う地名で呼ぶ様にもなる。これ以後、満州族と云う表現を使いますから注意してください。

 

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 明の滅亡

 宦官の横暴や党派闘争による政治の乱れ、増税などで明の国内では反乱が続発する様に為る。その代表が李自成の乱です。1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団が沢山生まれるのですが、李自成の反乱軍もその一つでした。流賊は都市を攻略して略奪する。明の正規軍が出て来ると、サッと退却して今度は全然別の地方に現れて都市の略奪を繰り返す。馬で移動して行動範囲が広いので、流賊と呼ばれました。
 李自成の反乱軍は、最初の頃は略奪集団と変わら無いのですが、集団が大きく為ると儒学者のブレーンが着いて、李自成に新しい王朝を建てる様に勧める様に為る。李自成もその気に為った。略奪ばかり遣って居ると王朝建設には逆効果。無暗な殺人や略奪は控えて、貧民に施したり評判を挙げようとコマーシャルソングを作ったりもする。

 殺牛羊 備酒漿 開了城門迎闖王 闖王来時不納糧

(訳)牛と羊を殺せ(さあ、ごちそうだ)お酒の用意をしよう 城門を開いて闖王(李自成)を迎えよう
闖王が来たら税金を取られないぞ (『中国の大盗賊』高島俊男、講談社現代新書)


 こう云う歌を、配下の者に歌わせて流行させたと言います。段々、民衆にも人気が出て来る。明朝が、全力で李自成軍を鎮圧しようとすれば多分出来た。処が、明朝は李自成軍鎮圧に全兵力を投入出来なかった。理由は、北の清軍に備えて国境を防衛するのに必死だったからです。明の精鋭部隊は万里の長城の最東端の山海関に貼り着いて離れることが出来なかった。
 この隙に勢力を増した李自成軍は、1644年 40万の大軍で北京を占領してしまった。明朝最後の皇帝崇禎帝は宮殿の裏山に登って首を吊って死んでしまった。呆気ない明の滅亡でした。李自成は、明に変わって新しい王朝を建国し皇帝に為ります。未だ混乱の中ですが、明の行政機構を掌握して即位式の準備も始めた。

 

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 山海関を守って居た明軍の司令官が呉三桂と云う将軍でした。清軍と戦っていたら北京からニュースが来て明が滅んだと云う。呉三桂はビックリします。彼は明に仕える将軍ですから身の振り方に困ってしまう。引き続き李自成からの手紙も来た。明は滅んだが、李自成の新王朝の将軍として引き続き山海関を守れと。
 呉三桂は、成り上がり者で流賊出身の李自成に仕える気には為れなかった。そこで、何と清側に寝返ってしまったのです。清朝の下での高位高官を交換条件にしたのでしょう。山海関を開いて清軍を中国本土に導き入れた。清軍は呉三桂を先導役にして北京に向かって進撃します。
 李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破されてしまった。適わないと悟った李自成は、慌ただしく皇帝の即位式だけ済まして北京を脱出。代わりに、清軍が入城して北京の新しい支配者と為りました。李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日。僅か、一月半の李自成の天下でした。この後、李自成は西安に逃れ、翌年、更に落ち延びる途中、山の中で地元の武装勢力に殺されてしまった。

 明から清への王朝交替と云うのは、単なる皇帝家の交替では無い。清は満州族の国ですから漢民族が異民族の支配を受けることに為った訳です。だから、この事件のキーパーソンである呉三桂の行動と云うのは色々論議を呼んだ。何故、彼が李自成では無くて清に味方したのか。色々な話があります。
 俗に言われているのが「女性問題」説。呉三桂将軍には陳円円と云う滅茶苦茶に美しい愛人が居た。彼女は北京の呉三桂邸に住んで居て、山海関を守っている呉三桂とは離ればなれな訳です。李自成が北京を占領した時に、呉三桂が一番気にしたのが陳円円の安否。部下を北京に派遣して様子を探らせたら、李自成は評判の美女陳円円を既に自分の宮殿に連れ込んで居た。怒り狂って呉三桂は清側に着いたと云うのです。講談などで面白可笑しく話された作り話でしょうね。

    9-17-5.jpg 順治帝

 この前年にホンタイジは死んで6歳の息子が清の皇帝に為った。順治帝と云う。実権を握っているのは摂政のドルゴン ホンタイジの弟です。

    9-17-6.jpg ドルゴン

 ドルゴンの指揮の下で清軍は各地の抵抗勢力を平定して中国全土を支配しました。但し、当時の満州族の人口は60万兵力は15万。これだけの軍事力で中国全土を支配するのは物理的に無理があったので、清朝は投降して来た明の漢民族の将軍達を積極的に利用します。呉三桂がその代表です。統一後は、漢民族の将軍達を藩王として中国南部地方の支配を任せました。呉三桂は雲南地方の藩王と為りました。

 処で、北京入城前後の清軍と行動を共にした日本人が居ます。1644年4月に越前三国を出港した後、漂流して満州に漂着した日本船がある。乗組員は満州人に助けられ、彼等と一緒に11月に北京に入っている。その日本の漂流民が清朝の印象を書き残しています。

 「御法度、万事の作法は、殊の他明らかで正しくみえる。上下共に慈悲深く正直である。嘘を云う事は一切無い。金銀がそこらにちらかしてあっても盗み取る者はない、と云う。これに比べて北京の方が風紀が悪い」満州族が持っている素朴さ、朴訥さを誉めていますね。


 清の全盛期

 順治帝を継いだのが康煕帝(位1661〜1722)その後続く雍正帝(位1722〜35)と三代が清朝の最盛期。中国の長い歴史の中でも平和で繁栄した時代です。

    9-16-12.jpg 康煕帝

 まずは康煕帝の話から。康煕帝が即位した時には、未だ清朝の中国支配は不安定な面があった。1673〜81年に三藩の乱が起きる。呉三桂等、藩王に封ぜられて居た漢民族の将軍の反乱です。呉三桂の他に二名の藩王が反乱したのでこの名前がある。

    9-17-3.jpg 三藩之乱

 清朝の支配が安定するに従って、大きな領土を持ち半ば独立国の様な藩王の存在は邪魔に為って来た。そこで清朝は呉三桂等の領土や権限を取り挙げようとしたのが反乱の原因です。呉三桂らは「満州族の支配に反対する。滅んだ明朝を復活させる為の戦いだ」と宣伝して自分の反乱を正当化したけれど、清が中国を支配したのは彼の寝返りの所為だから、今さらそんな大義名分を言っても世論は支持しなかった。
 反乱軍は、中国西南部を制圧して一時は清朝に脅威を与えましたが結局鎮圧されました。反乱が終わってみれば、清朝の支配はより強固に為って居た。
 1683年には鄭成功の台湾政権を滅ぼして、台湾を中国の領土に編入しました。

    9-17-4.jpg 鄭成功 台南


 

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 実は清朝が北京に入城した時、中国南部には明朝の皇族を擁立した地方政権が幾つか出来ます。清の中国支配に反対しますが、どの政権もそれ程大きな勢力には為らず直ぐに清朝に滅ぼされて行きます。その中で最後まで明朝の復活を唱えて清朝に反抗し続けたのが鄭成功です。
 この人の父親は鄭芝龍と言って、密貿易に従事して日本にも来ていた。平戸の日本人女性との間に産まれたのが鄭成功。明が滅ぶと海上から沿岸各地を攻撃して清に抵抗した。
 清朝は鄭成功勢力を孤立させる為に、1661年遷界令を出して、沿岸住民を強制的に内陸部に移住させました。こんな対策を執ると云う事は、如何に鄭成功に手を焼いていたかと云う事です。

 因みに、鄭成功は徳川幕府に何度も使者を送って援軍を要請しています。幕府は、清朝側が優勢なのを見て援軍を送ら無いのですが、明朝に忠節を尽くして清に抵抗を続ける鄭成功は、母親が日本人だと云う事もあって日本では有名に為る。近松門左衛門の『国姓爺合戦』と云う人形浄瑠璃があるのですが鄭成功が主人公です。
 遷界令が出ると鄭成功は拠点を台湾に移します。当時台湾にはオランダ人がゼーランディア城と云う要塞を築いていた。鄭成功は2万5千の兵力でゼーランディアを攻略してオランダ人を追い払い、ここに独自の政権を作った。鄭成功の台湾政権です。
 翌年、鄭成功自身は死んでしまうのですが、その後20年間、台湾政権は大陸の清朝に攻撃を加え続けていたのです。清朝は、初めは海軍力が無かったのでナカナカ台湾を攻略出来なかったのです。この台湾政権を滅ぼして台湾島を併合したのが、1683年 康煕帝の時だった訳です。

 

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 これで、中国国内に清朝に抵抗する勢力は無くなりました。対外的には1689年 ロシアとの間にネルチンスク条約を結ぶ。対等な条約で国境線を確定しました。更に、中央アジアに大きな勢力を持っていた遊牧国家ジュンガルと戦い外モンゴリア地方を領土に加えた。
 康煕帝は、自分でこれ等の反乱鎮圧などを指導しています。指導力は抜群にあった。それだけで無く理想の皇帝に為ろうと常に努力していたことで有名です。早起きで、早朝の4時か5時頃には政務を取り始める。午前中に政務を終えて午後からは勉強です。

    9-17-7.jpg

 儒学だけで無くイエズス会の宣教師から、天文学や数学なども学んだ。この肖像画は、普段着を着て書斎で読書をしている処です。後ろにズラッと並んでいるのが中国の書物です。勉強中の肖像画と云うのも康煕帝らしい。
 康煕帝が勉強を必死にしたのは、彼が好奇心旺盛だったこともありますが、中国人達に、満州族の皇帝だからとバカにされ軽く見られ無い様にという意識もあったようです。彼の姿をイエズス会の宣教師ブーヴェが次のように描いています。

 「康煕帝は孔子の著書を大半、暗記されて居られますし、シナ人が聖書と仰いでいる原典もあらかた暗唱されております。…皇帝はシナの古代大家の教説に対する尊敬を示され様として親しく序文を執筆されて、注釈書の巻頭に掲げられ、御名をもってこの書を印刷せしめられたのであります」(ブーヴェ『康煕伝』より)

 この本は、ブーヴェがルイ14世に献上したものです。ルイ14世に理想の君主像として康煕帝をお手本にして欲しいと思ったのでした。努力の甲斐あって、彼は理想的皇帝と評価された訳です。中国歴代皇帝の中でも、指折りの名君と云う評価です。漢の武帝や唐の太宗と並んでベスト3に入れる人もいます。

    9-17-8.png 清朝第5代皇帝「雍正帝」

 康煕帝を継いだのが息子の雍正帝。康煕帝の四番目の子供で、余り目立たない人だった。康煕帝の跡継ぎ問題はゴタゴタがあって、康煕帝臨終の時に次期皇帝に指名したのが雍正帝だったと云うのですが、この辺の事情は謎に包まれている。兎も角即位した雍正帝は、後継者問題で今後混乱が無い様に「皇帝密建の法」と云うものを定めた。

 

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 これは「早く皇太子を決めてしまうと他の皇子達が陰謀などを巡らすので、皇帝は後継者を決めても公表せずに紙に書いて秘密の箱に入れて置く。皇帝が死んで初めて箱が開かれ次の皇帝が発表される」 と云うもの。
 だから、皇帝は息子達の日頃の行いを見て、一度決めた皇太子の名前を書き換えることも出来る。誰にも発表しないのだから、書き換えが政治的な混乱や陰謀を生む事も無いです。長男が後を継ぐと云う原則も無いから優秀な息子を指名出来る。だから、清朝の皇帝はこの後も比較的優秀な者が続きます。
 雍正帝は父親の康煕帝のような華やかさは無い人でしたが、実に真面目に皇帝としての職務を勤め、清朝の支配体制を引き締めた。雍正帝の仕事振りを見ていると、皇帝と云うのも楽じゃないなと思うよ。自分のプライベートタイムは殆どない。

 清朝の地方長官たちは、行政組織を通さずに手紙を直接皇帝に送る事が出来ました。雍正帝は地方情勢全般について皇帝に手紙で報告する様にさせた。毎日、全国から手紙がドンドン届く。何処が日照りで農作物が不作だとか、洪水が起きて何万人が被災したとか、米の価格が上がったとか下がったとか。
 雍正帝は、この地方からの報告を全部読んで、その全てに返事を書くのです。こうしなさい、ああしなさい、と指示事項まで付け加えて。これは、凄い労力ですよ。こんな事を即位してから死ぬまで毎日続けた。地方の役人達も、きちんと報告を送ら無いとサボっていると思われますから、真面目に働かざるを得無い訳です。

 

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 何処まで本当か判りませんがこんな話もある。或る時、大臣が四人集まって麻雀をした。雍正帝は官僚には賭事を禁じていたのですがヤッパリ辞められない。徹夜で、ジャラジャラやっていたら、牌が一枚無くなった。幾ら探しても、出て来ないので、大臣たちはそこでお開きにしました。
 翌日、大臣のひとりが雍正帝の前に出て、一通り政務の話を終わった後、雍正帝が尋ねた。「昨晩、お前は何をしていた」大臣は、皇帝に嘘を着くことが出来ず、正直に賭け麻雀をしていたと告白した。そうしたら、雍正帝は袂から麻雀パイを一枚取り出し、それを大臣に渡して「以後、気をつけよ」と言った。見てみると、それは無くなった牌だったと云う。怖いですね。大臣の家に仕えている召使いの誰かが皇帝のスパイなのです。この手の話はかなりあって官僚達がピリピリしながら政治をしている雰囲気が伝わって来ます。

 雍正帝時代の政治的出来事を幾つか挙げて置きます。

 ・軍機処の設置 雍正帝時代に、軍事機密を扱う機関として設置されたのが軍機処です。やがて内閣に代わって軍事・行政の最高機関に為りました。軍機処の長官を軍機大臣という。後には総理大臣の様な役割をする様になって行きます。因みに清は、明の政治機構を受け継いで皇帝独裁政治です。だから、軍機大臣は飽く迄も皇帝の補佐役です。
 ・文字の獄 思想統制です。康煕帝も行っていますが、雍正帝が特に有名。清朝の皇帝を批判する様な文章は一切許さ無い。科挙の試験問題に「維民所止」と云う一節があった。これを見て雍正帝は出題した学者を処刑した。何故か「維」と「止」の上に夫々「なべぶた」と「一」を着けると「雍」「正」に為る。詰まり、この一節は雍正帝の頭を切り落とし更に二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いていると云う訳です。明らかにイチャモンですが、当時は立派に反逆罪に為った。清朝は満州族の王朝なので、こう云う弾圧は厳しかった。漢民族の儒学者に舐められてはいかんと考えて居た様です。
 ・地丁銀の全国実施 地丁銀は税制です。明の一条鞭法を更に簡素化したもの。成年男子に掛かる丁銀と云う税金を、土地に掛かる税に組み入れて一本化した。その結果、税の銀納化が一段と進んだ。
 ・キャフタ条約(1727) モンゴル北部で未確定だったロシアとの国境線を確定。

 

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 即位した時に既に45歳だった雍正帝は、清の政治を引き締め在位14年で亡くなる。後を継いだのが乾隆帝です。乾隆帝は、雍正帝が確り固めた土台の上で対外関係に力を注いだ。各地に遠征しますが、重要なのはチベットと東トルキスタンを領土に加えた事です。
 この時代に、中国の領土は史上最大に為る。現在の中華人民共和国の領域の原型が作られた。当時の方が現在よりも広いですが。ヨーロッパとの貿易は盛んに行われていますが、乾隆帝は貿易の管理と治安の維持を目的として貿易港を広州のみに限定しました。これは、自由に貿易を行いたいイギリスを刺激して後々外交問題に為っていくので注意して置いてください。

 

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 清 おわり  次のページへ 《清の政治・明清の社会》

 

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