2018年09月14日
一緒に学ぼう世界史のポイント 67 《明帝国》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 67 《明帝国》
明帝国
価格:91,270円 |
明の成立
16世紀以後に繁栄したアジアの王朝をずっとみて来ました。最後は中国の明と清です。
明(1368〜1644)。建国者は朱元璋。皇帝としての呼び名が洪武帝(位1368〜98)貧しい農家の四男坊です。
流行病で親も死に口減らしの為にお寺の小坊主に出されます。やがて元朝末期に為り各地に反乱が起こり、政情は不安定。お寺でも食べられ無くなって放浪の乞食坊主に為る。三年間ほど各地を放浪している。未だ十代の朱元璋は、このままの生活では一生うだつが上がらないと思って、一か八か紅巾軍に参加することにした。
紅巾軍は、白蓮教と云う宗教結社から興った元朝末期の反乱軍の一つです。紅巾軍は沢山の部隊が各地で活動していた。朱元璋は、その紅巾軍の一部隊に「俺も仲間に入れて呉れ」と志願するのです。
処が「怪しい坊主だ、敵方のスパイではないか」と疑われてスンナリ参加させて呉れない。押し問答している処に部隊長が遣って来て朱元璋の顔をジロリと見た。一言「よし、入れてやれ」 隊長は朱元璋の顔を一目見て、見所があると思ったようです。
実は、朱元璋は非常に変わった顔をして居たらしい。資料集をみてください。朱元璋の二つの肖像画がある。皇帝に為ってから描かせたものです。ひとつは、堂々として好い男。こちらは、ゴツゴツシた顔はアバタだらけで、目は吊り上がりとても同じ人とは思え無い。多分、こちらのカッコ好くない方が本当の顔に近いと思う。隊長は、人並み外れた人相に、何かをやる男かも知れないと感じたんだろう。
その後、朱元璋は部隊の中で大活躍してドンドン反乱軍の中で地位を上げて行きます。暗殺と云う手段もつかってとうとう紅巾軍のリーダーに為った。この頃元朝は、北京を中心に中国北部は支配していますが、反乱勢力を鎮圧する力は無くて、中国南部には色々な反乱勢力が夫々支配地域を作って争っていた。
朱元璋は南京を本拠地にしていて、やがて対立する勢力を倒して中国の統一に成功した。これが明朝です。元朝のモンゴル人は、中国を放棄してモンゴル高原に退去します。
価格:89,640円 |
中国歴代王朝の創始者は、大体が名門出身です。何の身分も無い只の農民が王朝を開いたのは前漢の劉邦とこの朱元璋だけです。無一文の身分から身を起こし、立身出世する歴史上の人物は普通は人気があるものです。例えば、日本では豊臣秀吉。中国でも劉邦は人気がある。処が、この朱元璋は全然人気が無い。
何故かというと非常に残虐で猜疑心が強い 皇帝に為ってから異常なまでに人を沢山殺している。それも、自分が皇帝になる前に反乱軍で苦労を共にした部下達をドンドン殺すのです。
例えば、胡惟庸(こいよう)の獄(1380)李善長の獄(1390)藍玉(らんぎょく)の獄(1393)と云う事件がある。夫々、若い頃から朱元璋に仕えていて大臣や将軍に為った者達が謀反の罪で処刑された事件です。事件そのものが朱元璋によるデッチ上げらしいのですが、夫々の事件で処刑された人数が凄い。胡惟庸の獄が1万5千人・李善長の獄も1万5千人・藍玉の獄が2万人。合計すれば5万人ですよ。
一族郎党に関係者、一寸ででも疑われた者は皆殺されてしまった。皇帝の昔の乞食坊主時代を知っている者は皆殺されたと云う事です。乞食坊主だったことは、相当朱元璋のコンプレックスに為って居たらしい。役人が作成文書に「僧」「禿」とか云う文字があったら、飛んでも無いことに為った。
杭州府学という官立学校の教授の文章に「光天の下、天は聖人を生ず」と云う一節があって、この先生は死刑に為ったそうです。光と云う文字が坊主を連想させたらしい。
馬皇后
朱元璋の奥さんに馬皇后という人がいた。反乱軍時代に二人は結婚して、互いに皇帝、皇后に為ってからも馬皇后は以前と同じように、夫の食事を作ったり身の回りの世話をしていた。この人にこんな話がある。
馬皇后は51歳で病死するのですが、死ぬ前から長く病んでいた。処が、医者にも診て貰わないし薬も全然飲もうとしない。朱元璋が心配して差し向ける医者も全て追い返してしまう。心配した侍女が「どうして医者に診て貰わないのですか」と尋ねたら、こう答えた。「私はもう歳だし、どんな名医に診て貰っても助から無いことは自分が一番好くわかって居る。もし診察を受けて私が死んだら、夫は責任を追及して医者を殺すでしょう。だから、私は誰にも診てもらわ無いのです」
馬皇后は、夫の残虐な行いを窘める事が出来る唯一の人でした。こんな人柄だから朱元璋が人気が無い反面で皆から敬愛された様です。
話を戻します。朱元璋は全国を統一した後も、本拠地を変えず現在の南京を首都としました。当時の呼び名は金陵。統一王朝で、首都を中国南部にしたのは明がはじめてです。
ロードバイク 自転車 シマノ16段変速【STIレバー】クラリス搭載モデル 超軽量アルミフレーム 前後クイックハブ 700C 16B410 ホワイト/ブラックから選択可 価格:45,800円 |
朱元璋=洪武帝の政策をみて行きます
洪武帝の政治の仕組み
・先ず皇帝独裁を強化します 具体的にいうと、中書省を廃止して六部と軍を皇帝直属にしました。唐の時代と比較してください。唐代は皇帝の下に中書省・門下省・尚書省とあって、その下に六部がありましたが、明代には最後に残っていた中書省も無くした。皇帝の権限が強化されたと云う事です。皇帝の権限を制約する機関は存在しません。こう云う統治機構を中国史では皇帝独裁と云う。
・一世一元の制を始めた 洪武帝の時代の年号は洪武。洪武何年と云う。同一皇帝の時代は改元しない。これを一世一元の制という。日本では明治時代からこれを取り入れました。
・兵制は衛所制 兵士を出す家を軍戸として一般人の民戸と区別して戸籍を作る。そして、軍戸から軍を編成する制度を衛所制と云う。言葉だけで結構です。
・村落行政 村落行政に関しては、元朝時代に放任だったのを引き締める為に隣組制度を作る。これを里甲制という。110戸を里という単位に編成してその中から裕福な農民が輪番で里長として行政の末端を担わされます。細かいことは、お上を煩わせずに自分たちで解決しろと云う事です。
里長に任された仕事で一番大変なのが、戸籍と租税台帳の作成。台帳のことを賦役黄冊(ふえきこうさつ)と云う。更に、税の取り立ても里長の責任。決められた税額より少ないと里長は自腹を切ら無ければならなかったから大変だった。それ以外に、治安維持などの仕事もありました。
・全国的な土地台帳も作られた 魚鱗図冊という。これは、土地の形が魚の鱗みたいに描かれている所から付いた名前です。資料集をみたら、なるほどと云うネーミングですね。
魚鱗図冊
価格:64,980円 |
明の時代は、元代に蔑(ないがし)ろになって居た伝統的中国的秩序を回復しようと云う意識が相当あったみたいです。里甲制もその一つですが、更に朱元璋は『六諭』というものを発布している。これは、法律と云うよりは道徳の教科書ですね。親には孝行しろ・目上の者を尊敬しろ・村の仲間は仲良くしろと云う様な儒教的な道徳を六つ並べたものです。これを、月に何回か村々の老人たちに皆の前で読ませた。
皇帝が直接、こんな形で、民衆にお説教をすると云うのは、それまでの時代には無かったことでした。これを明治時代に日本が真似た。教育勅語がそれです。500年後の日本が朱元璋の政治から影響されていると云うのは興味深い。
法律では唐の律令を意識して、大明律令と云うのを編纂します。これも中国的秩序回復の一環。
永楽帝
永楽帝
価格:45,980円 |
1398年明朝初代皇帝朱元璋=洪武帝が死に、第二代皇帝に即位したのが建文帝(位1398〜1402)。この人は、朱元璋の孫にあたります。皇太子だった長男が早死にしたので、その息子が即位した。未だ、16歳でした。
朱元璋には、死んだ長男以外にも息子が何人か居た。朱元璋は皇太子以外の息子たちを国境防衛の軍司令官として各地に駐屯させて居た。現在の北京に軍司令官として駐屯して居たのが朱元璋の四男の燕王(えんおう) ここは、モンゴル人の勢力と接する最前線基地だった。
元は明に滅ぼされたのでは無く、モンゴル高原で存続して居るのです。この時代のモンゴル人の政権を北元(ほくげん)と言います。後にタタールと呼ぶようになるが同じ国を指しています。モンゴル人たちは何時また中国に侵入して来るかわからない。国境防衛の一番重要な場所が北京だった訳で、そこの司令官を任されている燕王はそれだけの能力があったのでしょう。彼の率いる軍隊も強かった。中にはモンゴル系の兵士も多く居た様です。
さて、建文帝からみると強大な軍事力を持つ実力者燕王は不気味な存在です。自分の地位を脅かすかもしれない。そこで、建文帝は燕王の権限を奪おうと計画する。両者の緊張が高まって遂に燕王は建文帝に対して反乱を起こした。これを「難の変(せいなんのへん)」1399〜1402)と云う。帝位を巡る一族の争いですね。
建文帝、幾ら若いと行っても首都を抑える皇帝です。官僚・軍隊の殆ど全てが皇帝側なので、燕王が有能な指導者で強力な軍団を率いて居ても簡単には勝て無い。結局4年越しの戦争に為りますが、最後は燕王軍が皇帝の本拠地南京を一気に突く作戦で勝利した。建文帝は混乱の中で死んだとされています。勝った燕王は、皇帝に為った。これが永楽帝(位1402〜24)です。
価格:79,704円 |
永楽帝の政策を見て行きます
永楽帝は、初めは官僚達に人気が無い。官僚達は永楽帝に殺された建文帝に仕えて居た訳で、彼等から見れば永楽帝は反逆者そのものです。だから、永楽帝に取っては官僚達との関係はシックり来なかったし、南京の町そのものが居心地が悪かった。
そこで、首都を元々の自分の本拠地である北京に遷した。これ以来、北京が中国の首都と為ります。首都を遷したもう一つの理由は、北方の遊牧民族の来襲に備えるには南京よりも北京の方が都合が好いと云う事もありました。
当時の北京は人口の三分の一がモンゴル人だったと言います。元代以来定住したモンゴル人がかなりいたんだね。現在北京の横町のことを胡同(フートン)と云うのですが、これはモンゴル語が訛ったものです。
・内閣の設置 朱元璋=洪武帝の時から六部を皇帝直属にして皇帝の独裁政治が進んだと云いました。しかし、実際には、皇帝が一人でできる仕事には限界があるので、皇帝の補佐役・秘書役が必要に為る。それが内閣です。中身は違いますが、用語だけは現在の日本に引き継がれていますね。
・儒学の奨励、大規模な編纂事業 反乱によって帝位に就いた永楽帝は官僚、学者に人気が余りなかった。注意して置きますが、儒学を収めた者が学者ですよ。そして、儒学をマスターし無ければ科挙の試験に合格しませんから官僚も学者です。
人気がないのは矢張りやり難い。首都を北京に遷しても官僚を動かさなければ帝国を治めることは出来ないですから。そこで、学者の人気取りの為に儒学を奨励した。更に、大規模な編纂事業をした。国家事業として大百科事典をつくるのです。百科事典をつくると云うのは大仕事で、沢山の学者を必要とします。学者先生は、国家事業に携われて大事にされて給料も貰えるわけだ。人気取りにはいいですね。
永楽帝時代に編纂された本が『永楽大典』『四書大全』『五経大全』儒学関係の百科事典だと考えておけばよいです。
永楽大典
ただ、こう云う学者優遇をしますが、永楽帝は官僚や学者を信頼し切れなかったようで、宦官を使って政治を行う事が多かった。宦官を秘密警察にして官僚の動向をスパイさせたりする。宦官と云うのは皇帝個人の使用人です。身分は低いし学問も無い。男でも無ければ女でも無い。だから、政治の表面に出て来る事は本来あっては為らない事なのですが、これ以来明の政治は、宦官の横暴による混乱が屡々起こります。
鄭和の南海遠征
・遠征事業 鄭和の南海遠征 1405年以来七回に渉って、南シナ海やインド洋の国々に大艦隊を派遣します。これを鄭和の南海遠征という。
この遠征はスケールが大きい。第一回の時は62隻の大船団で行く。総員2万7千人。一番大きな船は、長さ137メートル幅56メートル。マストは9本あった。コロンブスのサンタ・マリア号が23メートルだから、その6倍ある。驚異的な大きさだ。
再現された鄭和の船
遠征の目的は、明帝国の偉大さを諸国に知らしめて、朝貢させようと云う事だったらしい。もう一つ、裏の目的として建文帝の捜索があったと云われています。靖難の変で敗れた建文帝は南京で死んだと言われていたのですが実は死体が確認されていない。だから、何処かに落ち延びて生きているのではないかと云う噂が常にあった。
そこに、ヴェトナム方面で建文帝が活動していると云う情報が入った。生きているなら草の根を分けてでも探し出して殺せ、と云う密命が遠征隊に与えられていたのではないか。この辺は憶測に過ぎないのですが。
価格:108,000円 |
艦隊の指揮官に任命されたのが鄭和。この人は宦官です。永楽帝が宦官を使った一例です。
鄭和は面白い生い立ちで、彼の家はモンゴル時代に中央アジア方面から雲南省に移住して来た様です。雲南省はラオス、ビルマと国境を接する中国南部の辺境です。ここが、明朝の支配下に入った時、鄭和は明軍に捕らえられて南京に連行され去勢されてしまった。12歳の時です。
そして、即位する前の永楽帝・燕王に宦官として仕えることに為った。靖難の変の時には燕王を助けて活躍したと云う。即位後も永楽帝に宦官として仕えていた。
鄭和の像
鄭和は大男で、身長180センチ腰回り100センチあったと云うから、プロレスラーみたいな体格です。性格も剛胆だったので、永楽帝は彼を武将として使っていた。
興味深いのは、鄭和がイスラム教徒だったことです。鄭和の元々の姓は馬と云う。馬と云う姓はイスラム教徒に多い姓です。ムハンマドのムの音を漢字表記したものらしい。鄭和のひいおじいさんの名前が馬拝顔(バヤン) バヤンと云う名は漢民族では無い。またおじいさんは馬哈只(ハッジ)と呼ばれていた。ハッジと云うのは、メッカに巡礼したことのある人に対する尊称です。
だから、鄭和はイスラム教徒のネットワークや、出身民族の横の繋がりで色々な情報網を持っていた可能性がある。そこで、南海遠征の司令官に任命されたのだと思う。インド洋を航海する時に、星で緯度を測定するのですが、アラビア式測定器「カマール」と云うものを使っている。又、高度の単位として「イスバ」「ザム」と云うアラビア語を使ったと云う。鄭和の背景を想像させますね。
鄭和の艦隊は、アフリカ東岸に迄出かけています。第七回遠征ではメッカにも行っている。スケール大きいですね。
価格:59,400円 |
・モンゴル遠征 永楽帝は、モンゴル遠征を五回行っている。モンゴル人を服属させることは出来なかったですが、漢民族皇帝自らモンゴル方面に遠征するのは前漢の劉邦以来です。そう云う意味では気宇壮大な皇帝だね。五回目の遠征が65歳の時で、帰る途中に死んでしまった。戦争で即位して戦争で死んだ皇帝でした。
明帝国 おわり 次のページへ 《明中期以降・朝鮮》
価格:67,800円 |
【ポイント3倍】 ミヤタ(MIYATA) ロードバイク イタルスポーツ ITAL SPORT AYIT487 (OSKF) 【2018年モデル】【完全組立済自転車】 価格:110,592円 |
価格:59,400円 |
楽しいサイクリング動画
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/8095812
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック