2018年09月14日
一緒に学ぼう世界史のポイント 66 《サファヴィー朝・ムガル帝国》
世界史講義録より
一緒に学ぼう世界史のポイント 66 《サファヴィー朝・ムガル帝国》
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サファヴィー朝・ムガル帝国
サファヴィー朝
イスマイール1世
オスマン帝国とほぼ同時期に、イランに栄えていた王朝がサファヴィー朝(1501〜1736)です。ティムール帝国が崩壊した後のイランに建国します。建国者はイスマイール1世。この人は名門の出身で、第四代正統カリフのアリーの息子フサインと、ササン朝最後の君主ヤズデギルド3世の娘シャハル=バーヌーの血をひくと云う。本当かどうかは怪しいですが、とにかくイスラム教創始者とペルシア王家ですから、イスラム教徒のペルシア人にとってこれ以上の高貴な血筋はない。
更に、イスマイール1世の家は、サファヴィー神秘主義教団と云うイスラムの宗派の教祖さんをやっていてかなりの信者を集めていた。イスマイール1世は、名門としての人気と教団の指導者としての影響力を利用してサファヴィー朝建国に成功した訳です。
サファヴィー朝の地図
サファヴィー朝の特色
イスラムの中でもシーア派を国教とします。伝統的にイラン人はシーア派が多いですし、西の大国オスマン朝がスンナ派ですからこれと対抗すると云う意味もある。皇帝の称号にはシャーと云う呼称を使った。これはイランの伝統的な王号です。イスラム教国ではあるけれどイランの民族国家と云う意識もあったと云う事です。
アッバース1世
最盛期の皇帝がアッバース1世(位1588〜1629)。オスマン朝からイランの一部とアゼルバイジャン地方を奪還して領土を拡大した。更に、ホルムズ海峡に要塞を築いていたポルトガル人を追放する。新たに首都イスファハーンを造営する。アッバース1世の死後サファヴィー朝は衰退して行きます。イランの話はこれでお仕舞。
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内陸アジア(ティムール帝国衰退後)
ティムール帝国衰退後の、中央アジアはどう為って居たのか
ウズベク人 カスピ海、アラル海の北にカザフ草原という所がある。ここでは15世紀以降、キプチャク=ハン国に属していたトルコ人とトルコ化したモンゴル人の集団が一つに為ってウズベク人と云う民族が出来ていた。彼等が、ティムール帝国崩壊後に東トルキスタン地方に南下して来る。アラル海に注ぐシル川とアム川流域のオアシス地帯です。
ここに、ウズベク人が建国したのがブハラ=ハン国・ヒヴァ=ハン国・コーカンド=ハン国の併せて三ハン国と云う。19世紀後半にロシアに併合されるまで続きました。現在、ウズベキスタンと云う国に為って居ますね。
三ハン国
カザーフ人 キプチャク=ハン国に属していた遊牧部族が、ウズベク人が南下した後のカザフ草原で色々な遊牧集団を吸収して出来た民族です。トルコ系で16世紀頃には中央アジアで大きな勢力に成長しますが、18世紀にはロシアの支配下に入った。
ウイグル人 唐の時代からモンゴル高原にいたトルコ系の民族です。元々は遊牧生活でしたが、この時期には東トルキスタンのオアシスに定住して交易に従事している。東トルキスタンと云うのはパミール高原の東側の中央アジア。トルコ系のウイグル人が定住してからトルキスタンという地名が生まれたのです。14世紀以降にイスラム化して行きました。政治的には大きな勢力に服属を続けた。チャガタイ=ハン国やモンゴル系遊牧国家ジュンガルに中国の清朝などの支配下に入ります。
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ムガル帝国の発展
オスマン朝やサファヴィー朝と同時期にインドでもイスラムの大国が出来ます。これが、ムガル帝国(1526〜1858)です。建国者はバーブル(位1526〜30)。この人はティムール帝国の王族の血を引く人で、元々中央アジアの都市サマルカンド本拠地にしてフェルガナ地方を支配していた。処が、ウズベク人の南下で本拠地を追われてしまった。
一族を率いて各地を転戦して何とかアフガニスタンのカーブルに根拠地を移しサマルカンド奪還を目指した。ウズベク人の勢力と何度か戦うのですが結局失敗。
到頭中央アジアで国を再建するのを諦めて、180度方向転換してインドに侵入した。1526年、デリーを本拠地にしていたロディー朝をパーニパットの戦いで破る。これ以後、本拠地をデリーに移してインドの王朝として発展します。これが、ムガル帝国の始まりです。
ムガルという国名ですが、モンゴルが訛ったものです。民族的にはトルコ化していますが、バーブルはティムールの子孫で、ティムールはチンギス=ハンの血を引いてる事に為って居るからね。ティムール帝国更にはモンゴル帝国の復活を夢見ていたのです。
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インドに建国したバーブルですが、本心はサマルカンドで建国したかった。涼しい中央アジアが大好き。インドは実は好きでは無い。食事のデザートにマスクメロンが出て来ると、サマルカンドを恋しがって涙を流したと云う。マスクメロンは中央アジアのオアシスで作られるからです。武人としても政治家としても有能だったバーブルは、文学の才能もあって、彼の「バーブル詩集」はトルコ文学の傑作とされている。「バーブル詩集」の冒頭です。
「わが心よりほかに頼るべき友なし わが魂よりほかに信ずべき朋なし」
バーブルの跡をを継いだのが、息子のフマーユーン。実は、フマーユーンが大病に罹って心配したバーブルは息子のベッドの廻りをクルクル回りながら、自分が身代わりになるからどうか息子の命を助けて呉れと神に祈ったと云う。フマーユーンの病気が回復した直後、本当にバーブルは死んでしまった。48歳でした。
ムガル帝国は未だインド全域を支配しているわけでは無く、北インドにも敵対勢力が沢山あった。フマーユーンは他の勢力に負けて一時イランのサファヴィー朝に亡命します。その後、サファヴィー朝の兵力を借りながら勢力を盛り返し再びデリーを奪還しますが、宮廷の図書館の階段から落ちて呆気なく死んでしまった。
アクバル
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代わって即位したのが、未だ13歳だったアクバル(1556〜1605)。この後50年間位にあってムガル帝国を大帝国に発展させた重要な皇帝です。成人してからのアクバルは、軍事、政治ともに才能を発揮して、未だ不安定だったムガル帝国をインドの大帝国に発展させた。領土としては、現在のアフガニスタンから北インドに掛けて統一します。首都はアグラ。
アクバル達ムガル帝国の支配者一族はトルコ系民族であって、インド人では無い。しかも宗教はイスラム教です。インド人の大多数の宗教はヒンドゥー教です。
だから、ムガル帝国がインドを確り統治するには、インド人達に受け入れられる必要がある。アクバルは、インド人に対して融和的支配をします。具体的には、ヒンドゥー教徒へのジズヤを廃止した。ジズヤと云うのは人頭税。イスラム教の支配下にある非イスラム教徒が支払わ無ければならないものでした。これを廃止すると云う事は伝統的なイスラムから外れる事なのですが、それを敢えてする。
アクバルは最終的には、イスラムでもヒンドゥーでもない新しい宗教を造って、インドを統合しようと考えていた様です。柔軟な発想の持ち主だったのですね。
もう一つは、積極的に北部インドの有力部族であるラージプート族の諸侯と婚姻関係を結んだ。ラージプート族と云うのは、非常に好戦的でムガル帝国としても手を焼いた相手だったのです。でもこれを内側に取り込む。
この様な政策で、インド人の反発を招か無い様にしてムガル帝国の最盛期を現出した。只、インド全体を支配しているのではありませんから注意してください。インド南部にはヴィジャヤナガル王国が繁栄しています。
タージ=マハル
五代目の皇帝がシャー=ジャハーン(位1628〜58)。この人で覚えることは一つだけ。タージ=マハルの建設です。非常に美しいこの建物、皆さんも一度はみたことがあるでしょう。ドームの曲線とまわりの尖塔とのバランス、壁の白さと青空の対比。どれをとっても素晴らしい。
タージ=マハルは、皇帝シャー=ジャハーンが愛妻ムムターズの死を悲しんで彼女を祭る為に造営した廟です。ムムターズは17歳でシャー=ジャハーンと結婚して36歳で産褥死している。18年間の結婚生活の間に、何と14人の子供を産んだという。何時も妊娠している勘定ですね。
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ムガルの皇帝達は、チンマリ玉座に座っていることは余り無い。頻繁に一族や有力諸侯の反乱が起きたり、国境で戦闘が行われますから皇帝自ら軍隊を指揮してアチコチを転戦する。ムガルの一族はも共とは遊牧民族ですから各地を転戦する時には家族を引き連れて行った。
ムムターズは大きいお腹をしてシャー=ジャハーンに付き従って旅から旅の生活をして居たのですね。だから、シャー=ジャハーンの愛もヒトシオだったのだろう。
タージ=マハルの直ぐ後ろにはジャムナ川と云う川が流れている。伝説では、シャー=ジャハーンは川の対岸に黒い石でタージ=マハルと同じ形の自分の廟を建てて、川に橋を架けて二人の廟を繋ごうと考えていたと云う。ロマンチックですね。
アウラングゼーブ
だけれども、シャー=ジャハーンは晩年帝位を息子に奪われてアグラの宮殿に監禁されてしまった。死ぬまでの8年間は監禁された部屋の窓からタージ=マハルを眺めて泣いて暮らしていたと言います。
父親を監禁して帝位に就いたのがアウラングゼーブ(位1658〜1707)。ムガル帝国が繁栄していた最後の時代の皇帝。アウラングゼーブは南インドのデカン高原を平定してムガル帝国の領域を最大にした。
一方で、アウラングゼーブは非常に敬虔なイスラム教徒で、インド人に妥協してイスラムの教えを曲げることを嫌いました。その為、アクバル以来廃止されていたヒンドゥー教徒への人頭税(ジズヤ)を復活した。又、ヒンドゥー教徒やシク教徒を弾圧した。
これは、当然インド人の反発を招く。非イスラム教徒の離反や反乱が相次ぐようになり、アウラングゼーブは反乱鎮圧の為転戦に継ぐ転戦です。アウラングゼーブの様子を伝えるイギリス外交官の報告書があります。
「ムガル軍のキャンプは不潔このうえない泥土の中にあり、兵士たちの給料は一年以上滞っている。宮廷人は腐敗の極みにあり、何一つするにしても賄賂を要求する。だが老皇帝一人だけは、なおかなりの威厳を持ち純白の衣裳で前線を回る。多くの兵が皇帝を見ようと群れる。だが皇帝は彼らのほうを見ずただ手中の本のみに目をこらす。その本はコーランだった。」(1699、イギリス使節報告)
コーランを頼りに一人でムガル帝国を支えているアウラングゼーブの孤高の姿を伝えている。アウラングゼーブは軍人としては有能だったので、彼が生きていた間はムガル帝国は何とか過つての栄光を保ちますが、アウラングゼーブの死後、各地の勢力がムガル帝国から自立して行ってムガル帝国は急速に衰退する。デリー周辺を領土に持つだけの一地方政権に為って行きました。
代わって、勢力を拡大して来た政権が、パンジャブ地方のシク教国。ラージプート諸侯国やマラータ同盟など。シク教と云うのはヒンドゥー教とイスラム教を融合した宗教で、シク教国は彼等の国です。マラータ同盟はマラータ族諸侯の連合政権。
又、やがてインドを支配することに為るイギリスが、マドラス・ボンベイ・カルカッタに商館を築いたのが時期的にはアウラングゼーブの時代に重なります。ほぼ同時期にフランスもシャンデルナゴル、ポンディシェリに商館をひらいていましたね。
サファヴィー朝・ムガル帝国 おわり 次のページへ《明帝国》
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