2018年09月06日
一緒に学ぼう世界史のポイント 58 《イギリスの革命》
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イギリスの革命
ステュアート朝の成立
イギリスのエリザベス1世は1603年独身のまま死去しました。独身でしたが、彼女の部屋に出入りするお気に入りの臣下は何人かいたので、ヴァージン・クィーンの仇名通りの実体だったかどうかは定かではありません。しかし、子供がいなかったのはれっきとした事実。
問題になるのは跡継ぎです。王が死んで後継者がいない場合どうなるのか。ヨーロッパではこう云う場合、議会などが次の王を選考する。この時も、イギリス議会はエリザベス1世と家系的に繋がりの或る候補者を何人かピックアップして、最終的にスコットランド王に白羽の矢を立てた。
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今まで、イギリス&イギリスと言って来ましたが、正確にはイングランド。現在のイギリスを思い浮かべると間違えます。現在のイギリスは大ブリテン島にアイルランド島の東北部を併せたものですが、これをイギリスと呼んでいるのは日本だけで、正確には「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」略してユナイテッド・キングダムと云う。U.K.です。
連合王国と云うのは、複数の王国がくっ付いて出来たと云う事で、イングランド・スコットランド、ウェールズ、北アイルランドが一つに為って出来ている。これら四つの地方が一つの国に為っても、未だに各地方では独立心が旺盛です。スコットランド出身の人に「アア、イギリス人ですね」なんて言ったら、相手は多分怒る。「イングランド人なんかと一緒にするな」ってね。
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サッカーのワールドカップでも、イングランド・スコットランド・ウェールズ等、別のナショナルチームで出場します。ラグビーには五カ国対抗戦と云う伝統の試合があるのですが、この五カ国と云うのが、イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドに後一つがフランスです。
日本人は国と云う時には、非常にカッチリした組織を連想し勝ちですが、ヨーロッパ人に取っては国と云うものは、輪郭の曖昧なフニャフニャしたものかもしれませんね。
ジェームズ1世
エリザベス1世時代のイングランドは、現在の大ブリテン島の南半分しかありませんでした。ちっちゃい国です。北はスコットランドと云う別の国。ここの王様をイングランド王に迎えようと云うのです。スコットランド王はイギリス議会からの誘いを承諾してイギリス王に為った。これがジェームズ1世です。彼から始まる王朝をステュアート朝という。
ジェームズ1世はイギリス王に為りますが、スコットランド王を辞める訳では無い。一人で二つの国の王位を兼ねるのです。この辺の感覚は我々には理解し難いですが、ここからヨーロッパ人の国というものに対する感覚を感じ取って貰ったらと思います。
ジェームズ1世はイギリス王に為る為に、スコットランドから旅をして南に向かいます。国境には、イギリス議会の代表達が新しい王を出迎えに来ていた。イギリスに入ったジェームズ1世は議会代表達と一緒にロンドンに向かって旅を続けた。
この旅の途中で一つの事件が起こります。一行がスリを捕まえたのです。犯罪者ですね。当然、このスリはイギリスの法に照らして処罰しなければなら無いのですが、ここでジェームズ1世が口出しをして「そのスリは死刑にしろ」と言った。議会の一行は驚いた。スリの様な軽犯罪では裁判に掛けても死刑にする様なものでは無い。だけれども、王の命令だから仕方がありません。スリは死刑にされてしまった。
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この時に、議会代表のイギリス人達は将来に不安を感じたのです。「この王様は、議会の言うことを聞いて呉れるだろうか。議会や国民の権利を無視して我儘勝手をするのではないか」と云う事です。
ロンドンで即位したジェームズ1世は、王権神授説を信奉して予想通りイギリス議会を軽視した政治を行った。彼の言葉です「聖書の中で王は神と呼ばれており、かくして彼等の権力は神の権力にも例えられる・・・(王は)臣下全員に対し、あらゆる裁き手であり、しかも神以外の何ものにも責任を負わない」王は何をしても好いんだと云う事です。
又、ジェームズ1世はイギリス国教会を国民に強制しようとしてピューリタンを圧迫しました。商工業者やジェントリにはピューリタンが多く、彼等は議会にも進出していたので、王と議会の関係はなおさら悪くなりました。
チャールズ1世
ジェームズ1世が死んで、後を継ぐのが息子のチャールズ1世(位1625〜49)。チャールズ1世も父親譲りの思想の持ち主で議会に対して強圧的な態度に出ます。しかも、ピューリタンに対して激しい弾圧をしました。ピューリタンの説教を禁止して、反対する者を鞭打ち耳削ぎ鼻削ぎの刑にした。かなりエゲツナイやり方です。又、宿代を払わずに兵士を民家に宿泊させるなど、国民の権利を無視するような行為が続いた。
そこで、議会は王に対して議会と国民の権利を尊重するように要請書を提出した。これが「権利の請願」(1628)です。具体的には、議会の承認 無しに課税をしない、法律を無視して勝手に国民を逮捕しないことを王に確認させた。
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しかし、チャールズ1世も絶対主義の王様ですから、議会の要請をハイそうですかと受け入れたくは無い。翌年王は議会を解散して以後11年間は議会無しで専制政治を行った。
この間に、王がイギリス国教会を強制しようとしてスコットランドで反乱が起きた。チャールズ1世は自ら軍隊を率いて反乱鎮圧に出掛けたのですが、反乱軍の勢いが激しくて引き返して来た。その後も、チャールズ1世は戦費が足りなくて苦戦。到頭スコットランド軍は国境線を超えて攻め込んで来て、王は賠償金を支払って降伏する事に為った。
ピューリタン革命
ピューリタン革命
処が、この賠償金を支払うには増税しなければならない。新たな課税をするには議会を開かなければならない。と云う訳で、チャールズ1世は議会を開きますが、途端に議会はそれまでの王の専制政治を批判して王と対立した。その結果、王と議会は夫々軍隊を組織して戦争に為ったのです。内乱ですね。これが、ピューリタン革命(1642〜49)。議会の多数派がピューリタンだったのでこう呼ばれます。
王を支持する貴族たちのグループを王党派、議会のグループを議会派と云う。王党派は、皆戦争のプロだから軍事的には圧倒的に強かった。議会派は、ジェントリや商工業者が中心ですから戦争のやり方なんか判らない。兵士も義勇兵や地方の民兵中心で皆素人です。
クロムウェル
軍事的には押されっパナシの議会派を勝利に導いたのがクロムウェルと云う人物です。出身階層はジェントリで宗教はピューリタンの典型的な議会派ですね。彼は、鉄騎隊と云う部隊を組織して、王党派軍を目覚ましい勢いで破って注目されます。この鉄騎隊がそれまでの他の部隊と違うのは、敬虔なピューリタンの信者を選りすぐって兵士に採用したことです。戦闘前夜にはクロムウェルを中心にして跪いて神に祈りを捧げたりする。宗教的な団結力のある部隊でした。
しかも、クロムウェルは兵士達にきちんと給料を払った。給料の遅配や欠配が当たり前だった時代ですからこれは画期的です。兵士たちも遣る気が出ますね。そして、兵士に能力があれば身分が低くても抜擢して隊長に任命した。靴屋や馬飼い出身の隊長がいたと云う。当時のヨーロッパは完全な身分制社会ですから、能力本位の人材抜擢は非常に珍しいことだった。部隊に規律と信頼、そして遣る気を与えた事が、鉄騎隊の強さになりました。
鉄騎隊の活躍
鉄騎隊の活躍で、やがて議会派の軍隊全てが鉄騎隊をモデルにした新型軍に改革され、クロムウェルは事実上その司令官に為った。新型軍は1645年にネイズビーの戦いで王党派軍に勝利しました。その後、行き詰まったチャールズ1世はスコットランドに逃げ込みますが、スコットランド軍に捕まってイギリス議会に引き渡された。
この頃には議会派は三つのグループに分かれていた。長老派・独立派・水平派です。長老派は穏健なグループで国王に対して妥協的。革命に対して余り熱心では無い。王と妥協せずキッチリ革命を遣り切ろうというのが独立派。ジェントリが多くピューリタン革命の中心勢力で、クロムウェルもこの派です。水平派は最も過激なグループで人民主権を主張した。人民が一番偉い、王なんか無くしてしまえと主張した。貧しい農民出身の兵士に影響力があった。
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チャールズ1世を処刑した絵
王を捕らえた後、クロムウェルは王に妥協的な長老派を追放して、王を処刑してしまった。国王の罪名は「暴君・反逆者・殺戮者」
これは王を処刑した時の絵です。広場に処刑台が設けられてその廻りを議会派の兵士達が取り巻いて警備しています。王党派が王を奪還しに来るのを防ぐ為ですね。処刑台の上には覆面を着けた男たちがいる。これは首切り役人。恨まれ無い様に顔を隠しているのです。
ひとりは血の付いた斧を持っている。今、チャールズ1世の首を切り落とした処なのです。台の上に首のない死体が小さく描かれています。好く見ると首の切り口からピューッと血が吹き出ています。もう一人の覆面男が首を持った腕を伸ばして、これがチャールズの首だと集まった観衆に示している処です。手前左側に大きく描かれてこちらをみて居るのが、この国王処刑の仕掛け人のクロムウェルです。
処刑の図
国王処刑の瞬間に居合わせた人物が、その時の模様を書き残している。それによると、チャールズ1世の首を切ったその瞬間「オゥー」という何とも言え無い暗いドヨメキが起きたそうです「アア、本当に王様を殺してしまった。成りゆき上仕方なかったとはいえ、飛んでもないことをしてしまったナア」と云う意味のどよめき。悪い王様を遣っ付けた、万歳!という雰囲気では無かったそうです。
この後、王のいない政治体制が10年ほど続きます。イギリス史上唯一の共和政の時代です。政治を取り仕切ったのはクロムウェル。彼は水平派の勢力も弾圧し、独立派のリーダーとして事実上イギリスの独裁者に為りました。共和政時期のクロムウェルの政策をみておきます。
先ずアイルランド征服(1649)。イギリスは王党派の地盤となっていたアイルランドに軍隊を送りこの島を占領します。征服されたアイルランドの人口は半減したと云うから凄まじい。クロムウェルはアイルランド人の土地を徹底的に没収した。この結果、耕地の三分の二はイギリス軍将校と戦費を出資していたロンドン商人のものに為った。
アイルランドの農民は小作人ととして徹底的に搾取され飢餓スレスレの生活を送る様に為ります。これ以後、アイルランドは20世紀に為るまでイギリスの植民地と為るのです。
第一次英蘭戦争
次に航海法(1651)の制定。イギリスの海外貿易上最大のライバルのオランダに打撃を与えイギリスの産業を保護する為の法律。オランダの貿易船がイギリスとその植民地に入港出来無い様にした。この法律が原因でオランダとの間に戦争も起きている。第一次英蘭戦争(1652〜54)です。何回かの海戦が行われて、勝敗は尽きませんでしたが講和条約はイギリスに有利に結ばれました。
第四次英蘭戦争
クロムウェルは1653年、護国卿という地位に就いた。護国卿になったクロムウェルは紫のマントを羽織って皆の前に出てきたという。紫と云うのは、ヨーロッパでは皇帝や王のシンボルカラーです。ちなみに中国では皇帝の色は黄色ですよ。
だから紫の色を着ていたと云うのは、護国卿という地位が限り無く王に近いものだったと云う事です。日本で言えば、豊臣秀吉が為った関白や太閤みたいな雰囲気でしょうか。クロムウェルは王に為りたかったけれど、軍隊に反対されたので護国卿で我慢したと云う説や、反対に、王に為る積りは無かったけれど、イギリス国民は王様がいないと不安がってしょうが無いので、王のような格好をして国民の要望に応えたと云う説もあるようです。
イギリスは、主要先進国中未だに王室が残る珍しい国です。その理由を考えて行くと、この護国卿というのは面白いテーマですね。
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クロムウェルは1658年に死去します。死ぬまで護国卿として独裁政治を続けましたが、晩年にはその政治に対して不満を持つ勢力も出て来ていました。兎に角、クロムウェルの政治は厳格で暗かった。彼は熱心なピューリタンだったから、酒や賭事は禁止されていて庶民にとっては楽しみの少ない時代だったと思います。
クロムウェルの時代には皆我慢していたけれど、クロムウェル死後、息子のリチャードが護国卿の地位を継ぐと不満が爆発した。リチャードは父親ほど政治的な手腕が無かったので、政治運営に行き詰まり翌年には政権を放り出してしまった。
王政復古と名誉革命
チャールズ2世
誰が、政権を担当するのか混乱する中で、議会が王政を復活させると云う結論を出した。ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子のチャールズ2世が王としてイギリスに招かれます。
チャールズ2世は父親1世が処刑された後はフランスなどヨーロッパ各地を転々として零落(おちぶ)れた生活をしていました。チャールズ2世が即位したのが一六六〇年。これを王政復古と言います。ステュアート朝が復活しました。
チャールズ2世は即位する時に、ピューリタン革命中の人々の言動を罪に問わ無い事とピューリタンの信仰も認める事を約束します。革命中の政策も一部は認めるのです。航海法等はこの後も実施されて居ます。王政が復活したからと言って全てが革命前に戻った訳では無いと云う事です。
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チャールズ2世にしてみれば、議会に逆らって父親のように処刑されては堪らんと考えていた筈です。だから最初は大人しくしている。処が、段々絶対主義的な王様に為りたく為って来た。同時期にフランスではルイ14世と云う絶対主義の典型的な王がそれこそ思う存分権力を振るっているのをみて、俺だってと思い始めた。
チャールズ2世はカトリックの信者を官僚に任命して、自分の手足として動かそうとしました。イギリス国王はイギリス国教会の首長と云う立場があるのですが、チャールズ2世は隠れカトリック信者だったので、カトリックの官僚を使って専制政治を行おうとしたのです。
これに対して、議会は1673年に「審査法」と云う法律を作った。これは、イギリス国教会信者以外は官職に就けないという法律。カトリック信者を官僚にしない為のものですね。更に、1679年人身保護法を制定して、王による不当逮捕と投獄を禁じた。この様にして、議会と国王の対立は徐々に高まって来た。
ジェームズ2世
やがて、チャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世が即位した。このジェームズ2世も政治的には絶対主義を行おうとした。しかも、ジェームズ2世はカトリックであることを公言していた。イギリス国教会の首長として相応しくない。しかも、絶対主義の信奉者です。
これで、議会と上手く行くわけが無い。処が、議会は我慢をする。何故かというと、即位したのが52歳。この時に息子がいなかった。年齢的に言ってこれから王子が生まれる可能性は先ず無い。だから、もう少し我慢すれば王は死んで、跡取りがいないからその時は適当な血縁の者をヨーロッパの何処かから呼んだら好いと考えたんだ。
処が、そのジェームズ2世に息子が誕生した。これで話は変わって来る。大体、ステュアート朝のここまでの四人の王は皆同じタイプ。議会とイギリスの伝統を無視して専制的な政治を行おうとする王ばかりです。この息子も未だ赤ちゃんだけど、大人に為ったら父親や祖父と同じような王に為るに違い無い。こう考えたら、議会ももう我慢が出来なくなった。
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議会は、ジェームズ2世を追放して新しい王を呼ぶ相談を始めた。これを知ったジェームズ2世はビビッた。下手に議会に抵抗して父親のチャールズ1世の様に革命で命を落としては堪りませんからね。夜の闇に紛れてロンドンを流れるテムズ川に船を漕ぎ出し川を下って亡命してしまった。
王の方から勝手に逃げて行って呉れたので、議会は一滴の血を流すことも無く革命に成功した。これを名誉革命と言います(1688)。流血が無かったことが名誉なのです。だから、国王を処刑してしまったピューリタン革命は名誉では無い。現在のイギリス人でも余り思い出したく無い歴史的事件のようです。
ウィレムと妻のメアリ
ジェームズ2世に代わってイギリスの王として招かれたのは、オランダ総督のウィレムとその妻のメアリ。メアリはジェームズ2世の娘です。二人はイギリス王として招かれるに当たってイギリス議会の要請を受け入れて、議会の権利や伝統的な国民の権利等を守ることを宣言します。これを「権利の章典」(1689)と 。成文憲法の イギリスで、国民の権利を定めた法律として現在でも重要です。
ウィレムとメアリ夫妻は、イギリス王としてはウィリアム3世・メアリ2世と呼ばれます。二人は同時に王に為って居ますから注意して置いてください。こう云うのを共同統治と云う。ヨーロッパでは時々こう云う形式があります。名誉革命以後は、イギリスの王は政治上の主導権を余り発揮せず、基本的には議会にお任せすると云う政治形式になっていきます。
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ジョージ1世
1714年にステュアート朝は断絶し、ドイツのハノーヴァーから遠縁の貴族がイギリス王として招かれました。これが、ハノーヴァー朝のジョージ1世。この人は生まれも育ちもドイツ。要するにイギリス王位が転がり込んで来たけれど根っからのドイツ人です。
イギリスに来ては見たものの英語は殆ど分からないし、故郷のドイツが恋しくて仕方が無い。政治向きのことは大臣に任せて、自分はドイツに帰って殆どイギリスでは暮らさ無い。大臣は王様に任された責任があるので一所懸命政治に励まざるを得ない。こうして、イギリスでは責任内閣制と云うのが発展し始めました。
イギリス王の特徴として有名な「君臨すれども統治せず」ですね。統治しないのですから失敗はありません。だから、政治的な事件があっても王自身は傷つかずその地位は安泰です。現在までイギリス王室が存続している理由の一つでしょう。
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17世紀末の段階で、イギリスと他のヨーロッパ諸国を比較すると、こう云う事になる。
・フランスはこの時絶対主義の全盛期です。
・ドイツやロシアなどは絶対主義以前の段階で、王が何とか貴族・諸侯の力を抑えたいと悪戦苦闘している。
・そして、イギリスはもう絶対主義の時代が終わってしまっている。これは、王の権力をコントロールする程に議会が力を着けて来たと云う事。誰が議会なのか。海外貿易や産業を支配している市民階級です。イギリスはオランダと並んでいち早く市民階級が権力を握るようになった国だということが出来ます。
イギリスの革命 おわり 次のページへ 《フランスの絶対主義》
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