2018年08月21日
一緒に学ぼう世界史のポイント 38 《モンゴル帝国の発展》
一緒に学ぼう世界史のポイント 38 《モンゴル帝国の発展》
モンゴル帝国の発展
モンゴル帝国の発展
モンゴル帝国の最大領域
チンギス=ハーンの死後大ハーンの位を継いだのがオゴタイ=ハーン(位1229〜41)です。彼の時代に金を征服し(1234)などモンゴル帝国は一層の発展をしています。
国家建設が進むに従って統治機構を整える必要が出て来ます。金国を征服することによって大規模な農耕地域を支配することに為る。前回も出て来ました契丹族の耶律楚材などを登用して中国人を支配する機構を整えて行った。契丹族も非農耕民でありながら中国を支配した経験がある言わばモンゴル人の先輩格ですからね。
又、オゴタイの時代にモンゴル高原北部に要約首都を建設しました。これがカラコルムしかし、首都を造ってはみたものの、オゴタイは壁に囲まれた宮殿に住むのが窮屈で仕方が無い。宮殿の横っちょの草原で相変わらずテント暮らしをして居たそうです。外交上の式典として必要な時だけ宮殿に出向いたと云う。
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チンギス=ハーンの子供達について触れて置きます。オゴタイが第二代大ハーンに為った経緯(いきさつ)に付いてです。
チンギス=ハーンには四人の男児が居た。上から順番にジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイです。必ず長男が相続する中国の様なキッチリした相続制度はモンゴル人には無かった。只、末子相続が一般的だったらしい。何故かと云うと、農耕民族の様に土地を相続すると云う事は無いので、子供は大きく為ったら或る程度の馬や羊を親から分けて貰って一人立ちをして行きます。
上の子からドンドン独立して行くので最後に末っ子が残る。で、親が死んだ時残った家畜の群を末っ子がそのまま相続するのです。このパターンをハーン位継承に当て嵌めればトゥルイが大ハーンに為るのですが、それに関してはハッキリした決まりが無かった。そこで、遊牧民のリーダーとして相応しい者を有力族長会議であるクリルタイで決定する事に為ります。
オゴタイ=ハーン
長男のジュチは、暗黙の内に初めから跡継ぎとしては除外されていました。何故かというと彼の出生には因縁があった。未だ弱小勢力だった頃、チンギス=ハーンは対立部族に襲われて新婚早々の妻を略奪されたことがある。一年後に彼は復讐を果たし奪われた妻を取り返すのですが、その時妻は妊娠して居るの。そして生まれたのがジュチ。
チンギス=ハーン自身、そのことでジュチを差別したりはしないんですよ。他の息子と同じように扱っています。でも、この話は公然の秘密だった。誰も口には出さ無いけれど皆が知っていたのです。だから、ジュチの相続は有り得なかった。因みにジュチと云うのは「客人」と云う意味だそうです。出生を考えると意味深長な名前ですね。
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次男のチャガタイは、大勢の前でジュチの出生のことを口に出すような軽々しい処があって人望が無い。残る三男と四男、オゴタイとトゥルイが本命だったのですが、チャガタイがオゴタイと組んでオゴタイ即位と為りました。
生前、チンギス=ハーンはジュチに西方へ遠征させる積りで「西の方何処までもモンゴルの馬蹄で蹂躙出来る全ての土地をお前に遣ろう」と約束していた。処が遠征実行前にチンギス=ハーンもジュチも死んでしまった。そこで、オゴタイはジュチの息子バトゥに対して遠征を命じた。 これが「バトゥの西征」1236年から大遠征軍がロシア平原に出発した。バトゥを総大将にするモンゴル軍は向かう処敵無し。ロシア平原を制圧してそのままポーランドに侵入した。
ワールシュタットの戦い
行き成り東方から遣って来た騎馬軍団に慌てたのがヨーロッパの諸侯館です。ドイツ、ポーランドの諸侯連合軍一万がバトゥ軍別動隊三万から四万を迎え撃った。結果はモンゴル軍の圧勝。これをリーグニッツの戦い、又は、ワールシュタットの戦いと言います。ワールシュタットと云うのは、この戦いの後で付いた地名で「死体の森」と云う意味だそうです。
モンゴルが圧勝した理由は、前回話した機動力と、もう一つは集団戦法にヨーロッパ諸侯軍が対応出来なかった為です。
モンゴル騎馬軍団は整然とした隊列を組んで集団で攻めて来る。これに対して、ヨーロッパの軍隊は名誉と武勲を重んじる騎士の集まりだから集団戦をしません。平家物語の頃の武士と同じで、戦う前に「ヤアヤア、我こそは何処そこの領主、何とか伯である。イザ、尋常に勝負せよ!」とか言って、一騎打ちして勝敗を決める。これが基本です。その積りで騎士達が構えていると、碌に鎧甲も付けずネズミみたいに小さい馬に跨った連中が集団で突っ込んで来る。これでは一溜りもありませんね。
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この後もモンゴル軍が進撃を続けていれば、ヨーロッパもモンゴル帝国の一部に為ったかも知れないのですがここで事件が起こる。オゴタイ=ハーンの急死です。次の大ハーンを決める為のクリルタイに参加せよと云う連絡がモンゴル高原より来るんですね。
バトゥは兵を返します。只彼はモンゴル高原まで帰らず、ロシア平原に留まって此処を自分の本拠地にします。これがキプチャク=ハーン国と呼ばれ、モンゴル帝国の一部と為ります。
オゴタイ=ハーンの跡を継いだのはその子のグユクですが、彼の即位には反対が多く正式に大ハーンに為るまでに何年も掛かって居ます。又、即位して間も無く死んでしまった。オゴタイの死からグユクの死まではモンゴル帝国の混乱期です。グユクは受験的には覚える必要なしです。
グユクの死後、又もや大ハーン位を巡って一族の間で争いが起きる。第四代大ハーンに為ったのはモンケ(位1251〜59)。彼は、チンギス=ハーンの末子トゥルイの子です。オゴタイ家からトゥルイ家に大ハーン位が移ったのには一族の長老バトゥの後押しがあった。チャガタイ家、オゴタイ家のチームに対して、ジュチ家とトゥルイ家は仲が良かった訳だ。
モンゴル帝国最大領域
第四代モンケ=ハーンの時代に為って、モンゴル帝国は再び征服戦争を開始しました。モンケは二人の弟、フビライとフラグに夫々東と西の遠征を行わせた。
フラグの西アジア遠征はイスラムのアッバース朝を滅ぼしました。アッバース朝は500年も続いたイスラム教の中心的王朝でした。だから、これは西アジアのイスラム世界にとっては物凄い大事件だったのです。フラグの遠征軍の一部はエジプトまで侵入しますが、ここで又、モンケ=ハーンが死んでフラグには帰還命令が出ます。
フラグもバトゥと同じ様にモンゴル高原まで帰らずイランに留まる。ここに出来るのがイル=ハン国です。西アジア全体を勢力範囲に置きました。
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一方、もう一人の弟フビライはチベットの雲南にあった吐蕃や大理と云う国を征服し、西南方面から中国の南宋を攻略します。この対南宋戦にモンゴルは大軍を投入して各方面から作戦を展開して居た。モンケ=ハーン自身も出陣して南宋戦を指揮して居て病死したのでした。
モンケの出陣中、カラコルムに留守番として残っていたのが、フビライ、フラグ達の更に下の弟のアリクブケと云う人なのですが、彼がモンケの死後大ハーンに為る最有力者だった。即位の為のクリルタイを召集します。フラグもこれに呼ばれる。フラグの場合は余りにもカラコルムから遠く離れているので、モンゴル高原に帰って政争に巻き込まれるより西アジアに自分の国を作ると云う選択をしたのです。
しかし、フビライは対南宋戦で指揮下にある大軍を背景にして、強引に大ハーンに就こうとした。彼は、アリクブケのクリルタイに参加せず、自分の支持者だけでクリルタイを開き大ハーンに為ってしまった>(1260)アリクブケは、フビライに対抗してカラコルムで別にクリルタイを開き大ハーンに為ります。しかし、彼は政治的にも軍事的にもフビライの敵では無く、4年後にはフビライに降伏しました。
こんな風にしてフビライが正式な第五代目の大ハーン(位1260〜94)に為ったのです。
ここまでの流れを見て来ると、モンゴル帝国はモンゴル人の支配地域が拡がると云う意味では、ドンドン発展しています。しかし、一方で内部ではチンギス=ハーンの一族の結束は段々緩く為り、或いは対立する様にも為って来ていると云う事が言えます。整理してみましょう。
・チンギス=ハーンの長男ジュチ家はバトゥが南ロシア平原にキプチャク=ハン国を建設。
・次男チャガタイ家は中央アジア(トルキスタン)を中心にチャガタイ=ハン国と呼ばれる支配地域を形成しています。
・三男オゴタイ家は西北モンゴリアにオゴタイ=ハン国を形成。
・四男トゥルイ家は、フラグが西アジアにイル=ハン国を建設。
・そして、フビライが大ハーンとして四つのハン国を束ねると同時にモンゴル高原から中国北部やチベット方面を直接支配している。モンゴル帝国はこの段階でチンギス=ハーンの孫達が夫々持っている所領の緩やかな結合体です。
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フビライの即位に反対して、オゴタイの孫に当たるハイドゥが反乱(1266〜1301)を起こしていますが、これはモンゴル帝国分裂の象徴的出来事として受験的には覚えて置くこと。只、実際には大きな戦闘は一度しか無かったと云います。
フビライは実はチンギス=ハーンの一族の中では変わり者とされていた。彼の何処が変わっているかと云うと中国ビイキなのです。代々、モンゴルの王侯達は中国文化には関心が薄く、イラン文化に代表される西方の文化に興味を持つのが普通だった。処が、フビライは長い間南宋攻略をしていたので、自然と中国人と接触する機会も多かった。それで、中国ビイキに為った様です。
そこで、大ハーンに為るとモンゴル帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムから中国北部の大都に移した。大都は今の北京です。更に、国号を元とします。中国風でしょ。1279年には南宋を滅ぼして東アジア全域を支配下に入れました。
日本、ビルマ、ヴェトナム、ジャワなど更に遠方に遠征軍を送り出す、これらは皆失敗に終わっています。何故、こんな遠征を行ったかと言うと、モンゴルがそれまでに作り上げた陸のネットワークに海のネットワークを結びつけようとする試みだったと云う説もあります。フビライ以後、元は中国の王朝と為りました。
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モンゴル帝国と東西交流
西はロシア、シリアから東は中国までユーラシア大陸の大部分を支配して、モンゴル帝国は歴史上空前絶後の領土を持つ様になった。全部一つの国なんだから戦争は無くなる。これを「タタールの平和」と云う。タタールとはモンゴルのことです。
モンゴル帝国は東西交易路の安全を確保する為に駅伝制を整備します。駅伝のことをモンゴルではジャムチと言う。資料集にありますがモンゴル政府発行の通行許可証が牌子(はいず)です。これを持っていれば街道沿いにある宿駅で宿泊したり馬を交換したりと便宜を受けながら旅をすることが出来た。これが駅伝制です。
駅伝を利用出来なくても、易路の安全はモンゴルによって守られていますから、商人は安全に遠隔交易をする事が出来ました。ムスリム商人と呼ばれるイスラム教徒の商人達が特に活躍します。
安全な交通路を通ってヨーロッパからの外交使節もモンゴル高原に遣ってきました。ローマ教皇インノケンティウス4世から派遣されたのがプラノ=カルピニ。ローマ教皇と云うのは西ヨーロッパのキリスト教会の最高指導者です。
フランス王ルイ9世もルブルクと云う人物を派遣した。彼等の使命はイスラム教徒の勢力と対抗する為にモンゴルと同盟を結ぶことでした。カルピニはグユク=ハーン、ルブルクはモンケ=ハーンの時代です。モンゴル側は同盟を結ぶ気持ちなど全然ないので適当にアシラッテいます。
ルブルクもカルピニもジャムチを利用してカラコルムまで行っています。ルブルクはフランスから出発して取り敢えずロシアまで行く。するとそこはもう遊牧の世界で、テントを張った人達が遊牧している。カルピニは、彼等にキプチャクの大ハーンの所に案内して貰い、そこで通行許可証や牌子を貰っている。その後はトラブルも無くカラコルムまで行きました。
面白いのは、彼は旅の途中のオアシスの町やカラコルムで結構ヨーロッパ人に会っているのです。モンゴルの遠征で捕虜と為って連れて来られたのかどうか事情は判りませんが、旅行記などを残さない職人や女達がかなりユーラシア大陸を大移動して居るのが判ります。
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また、モンゴルの宮廷にはキリスト教徒がいました。古代ローマ帝国時代に異端とされたネストリウス派キリスト教が西アジアから中央アジアに掛けて拡がって居て、モンゴル王族の女性達にも信者がいました。ハーンの妻の中にもいる。
モンゴル人は宗教に関しては余り気にしない。日本人と同じような感性なんでしょうね。邪魔になら無い限り自由に布教もさせて居た様です。フビライの時代に、ローマ教皇からモンテ=コルヴィノと云う宣教師が派遣されるのですが、彼は大都で三十年間も布教しています。
モンゴル時代の旅行者で一番有名なのはマルコ=ポーロですね。イタリアのヴェネツィア商人です。父親が遠隔貿易商人で、16歳で父と叔父に連れられて旅に出る。中国に着いてフビライ=ハーンに会った時には20歳に為って居ました。若くて賢かったのでフビライに気に入られて、元の役人として中国各地で17年間働きます。
最後にイタリアに帰国する時は、イル=ハン国に嫁入りするモンゴルのお姫様を中国から、南シナ海、インド洋を廻って船で送り届ける役目を仰せつかっている。イタリアに帰ってから、戦争で捕虜に為って牢屋に入れられてしまうんですが、牢の中の暇潰しに同室の囚人ルスチケロに自分の体験を話すんですね。アンマリ、面白い話なのでルスチケロはこれを書き留めて本にした。これが『東方見聞録』です。『世界の記述』とも言います。
これが、ヨーロッパで広く読まれてアジアに関する関心が高まるんですね。特に「黄金の国ジパング」ジパングでは金がザクザク採れるので宮殿は柱も屋根も金で出来ている、何て書いてある。これが、後にコロンブスが大航海を計画する切っ掛けの一つに為ったのは有名な話。
何故、日本がジパングなのかと云うと、日本と云う字は中国語読みすると「リーベン」と云う発音に為る。「リー」と云う音は舌をグッと巻き上げて上顎の奥の方にクッツケテ出します。「ジー」と云う音に限り無く近い。「本」の「ん」も中国語では「ng」音。それで、マルコ=ポーロはジパングと聞いたんでしょうね。これが英語のジャパンの語源に為ります。
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ジパングの話ですが、黄金の国だなんて全然嘘な訳で、マルコ=ポーロの本の中には明らかな間違いも結構あるのですが、権力中枢にいた者しか知り得ない情報もある。研究すればする程実に不思議な本なのです。研究者にはマルコ=ポーロは中国まで行っていない、と云う人もあれば、マルコ=ポーロは実在せず、複数の旅行者の情報をマルコ=ポーロと云う名前に託して作り上げたのが『世界の記述』だと云う人もいます。
フビライ
元朝の中国支配
フビライ=ハーンから始まる元は中国の王朝と のですが、モンゴル人はどの に中国を支配したのか。
「モンゴル人第一主義」と 。一番上の身分がモンゴル人、二番目が色目人(しきもくじん)、三番目が漢人、最後が南人と 序列が作られる。
支配者はモンゴル人ですが、人口は圧倒的に少ないし定住農耕民を統治する行政的な技術や経験が少ないですから、行政技術者として主に西方出身のイラン人などを官僚として使いました。彼等のことを色目人と云うのです。色目人とは雑多な人達と云う意味です。目の色が青いからではありませんよ。マルコ=ポーロなどはまさしく色目人です。
漢人とはこの時代の特殊な使い方で、旧金朝支配下の漢民族の女真族、契丹族、高麗人を呼ぶ言い方です。最下位の南人は旧南宋治下の漢民族のことです。
モンゴルは中国の伝統的な官僚登用試験である科挙を廃止します。儒学的教養に価値を認め無い訳ですね。中国の経済に寄生して吸い取れるものは吸い取ろうと云う事です。
マルコ=ポーロの『世界の記述』を見ていくと、マルコは中国各地を旅するのですが、中国人とは殆ど接触していない。中国語を話している形跡が余りない。同じ色目人同士でペルシア語位を話して、日常の用は足りていたのではないかと言います。
彼等が中国を支配していながら中国人や中国文化に無関心だった具体例ですね。税金さえ取ることがで切ればそれで好かったのです。元の税収の中心は塩の専売税です。更に交鈔(こうしょう)と云う紙幣を大量発行して中国経済の上前を刎ねる。「モンゴルの平和」によって安全を確保されて中国に遣って来る商人からの税収も多かった。
「五日目にザイトン(泉州)と云う非常に立派な大都市に着く。ここは海港で、インドの船は皆高価な商品、貴重な宝石類、大きい立派な真珠を満載してここへ入港する。又、マンジ(中国)の諸地方の商人達もこの港に集まって来る……。サテ、大汗(フビライ)はこの都会と港から実に莫大な税収を得ているが、これはインドから来る船は全て10パーセント、即ち彼 らが持って来る全ての商品、宝石、真珠の価格の10分の1を納めることに為って居るからである。
……こうして、税と船賃とで商人は載んで来たものの半分は差し出さねば為らぬことに為る。しかも残りの半分でも大変な利益があがるので、もっと沢山商品を持ってもう一度来ようと考える。これをみても大汗がこの都会から取り建てている税収がどんなに莫大なものであるか容易に信じられる筈である。」(マルコ・ポーロ「世界の記述」より)
モンゴルと云うと陸の大帝国と云うイメージが強いですが、インド洋から南シナ海でも安定した海のネットワークが出来ていたことに注意して置いてください。
元の時代、科挙が中止になったので、受験勉強をしていたエリート達の中には生活の為に小説や芝居の台本を書く者が出て来ました。それまでエリートは庶民の楽しみ、芝居・小説の類は馬鹿にして居たから、中国史上前代未聞のことが起こった訳だ。知識人が小説を書くので質の高い作品が生まれた。
この時代の芝居を元曲(げんきょく)又は雑劇と言います。有名作品としては『西廂記(せいしょうき)』『琵琶記(びわき)』。前者は若い男女の恋愛『琵琶記』は夫婦の愛を描いたもので、内容的には女性の観客をターゲットにしているのではないかと思う。劇は元の宮廷でも演じられたようです。面白いものは誰が見ても面白いのです。小説では、『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』の原型が成立します。盛り場での講談が段々とまとめ上げられていったようです。
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文字です。契丹族、女真族、タングート族と中国周辺の新興民族は漢字に対抗して独自の文字を開発して来ましたが、フビライもチベット人パスパに命じてモンゴル語を書き写す文字を制定しました。これが、パスパ文字。文字の歴史で出題されます。
学問分野では西方からイスラム科学が導入された。フビライの時代に、郭守敬(かくしゅけい)と云う人がいる。彼は運河の建設とか水利工事もやっているんですが、天文学者として有名です。イスラム暦を元にして「授時暦」と云う暦を作った。これは江戸時代の「貞享暦」のもとになった。
月の裏側には彼の名を付けた「郭守敬」と云うクレーターがある。火星と木星の間にある小惑星帯の小惑星2012号は、別名「郭守敬」雑学でした。要するに中国が誇る歴史的天文学者って云う事。
元の征服事業
元と言えば、元寇。日本とも大いに関わりがある。鎌倉時代に二回攻めて来た訳ですが、一回目が1274年の文永の役、二回目が1281年の弘安の役です。何故、この時期だったのか。フビライの目的は何だったのか。
朝鮮半島にあった高麗国がモンゴルに服属するのが1259年。高麗政府は江華島と云う島に逃げ込んで抵抗を続けていたのですが、最終的にモンゴルの属国に為る。高麗王はモンゴルのお姫様を妃に迎えて王室にモンゴルの血が入り込むようにさえ為るのです。
処が政府がモンゴルに降伏しても、軍隊は納得せずに半島の南西海岸を転々としながらモンゴル軍に抵抗を続けました。この高麗軍を三別抄(さんべつしょう)軍と言います。三別抄軍は海上の島々を根拠地にしたので、モンゴル自慢の騎馬隊も苦戦した。
この三別抄軍が最後に潰されたのが1273年。要約モンゴルは朝鮮半島を平定出来た訳で、その翌年に第一回目の日本遠征の文永の役となります。
フビライは1271年と1273年に趙良弼(ちょうりょうひつ)と云う女真族出身の政治家を外交使節として日本に派遣していますが、趙良弼は鎌倉幕府の回答を貰えないまま帰国している。幕府の対応は外交としては実に無礼なもので、完全にモンゴルを無視する態度でした。フビライはそれに怒って日本遠征をしたのかと云うとそれは違う。
当時元は南宋攻略の真っ最中です。日本兵を動員すれば、東シナ海経路で南宋を攻めることが出来るでしょ。日本を含んだ対南宋包囲網形成と云うのが第一回遠征の目的だった。しかし、この遠征は失敗に終わりました。
その後1279年に南宋は滅ぼされます。その二年後に第二回日本遠征です。この時の目的はなんだったか。南宋を滅ぼした後、元は旧南宋軍の処理に困ったらしい。南宋は元との戦争で大軍を抱えていました。南宋が滅んでもその兵士達は大勢残って居る訳で、彼等に仕事を与える為の日本遠征だったようです。
だから、ハッキリ言ってフビライにとって第二回遠征は成功すれば非常に嬉しいけれど、負けて大軍が海の藻屑となっても厄介払いが出来てそれはそれで悪くない、そんなものだったのではないかと思います。第二回の遠征軍の兵士達は船のなかに鋤とか鍬とか農具を持ち込んでいるのです。彼等は日本を征服した後は、そのまま故郷には帰らず日本に住み着いて農業をする積りでいるのね。日本人の女を妻にして。
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この二回目の遠征も失敗するのですが、二回も続けて失敗した原因はなんでしょうか。神風が吹いた、と一般には言われています。だけれど当時の京都の公家の日記などを見てもそんな様子は無い。少なくとも大暴風が吹いたのではない。失敗の原因は元軍の構成にあるようです。
元寇を防ぐために戦った竹崎季長(たけさきすえなが)という武士が自分の活躍を描かせた『蒙古襲来絵詞』という絵巻物があります。モンゴル軍の貴重な絵画資料なのですが、攻めて来るモンゴル兵は歩兵ですね。迎え撃っている鎌倉武士が騎兵です。モンゴルは騎馬軍団だからこそ強かったのに、これでは逆ですよね。モンゴル軍が騎兵ではないのは船に乗って来たから当たり前なのかもしれないけれど、理由はそれだけでしょうか。
我々は、元寇と云うので、何となくモンゴル人が攻めて来た様に思っていますが、一体モンゴル人の人口はどれ位なのかな。チンギス=ハーンの時に70万くらいというから、フビライの時代に増えているとして100万人として置こう。これが、西はロシア、シリアから東は朝鮮半島に至るまでインドとインドシナ半島を覗く全ユーラシア大陸を支配している。と云う事は世界中に彼等は拡がって居る訳で、日本遠征に純粋モンゴル人がどれだけ参加していたか。
司令官クラスは、モンゴル人も多くいたと思いますが、一般兵士の殆どはモンゴル人では無いと思った方が実体に近い。そもそも、モンゴル軍と云うのはモンゴル帝国が拡大するに従って、雑多な民族の混成軍になっている。
例えば『蒙古襲来絵詞』のなかに顔の黒いモンゴル兵が何人か出て来ます。これ、明らかに意識的に黒く描いていますね。顔つきはモンゴロイドですね。なぜ、黒いのか。中国では宋の時代、犯罪者は顔に入墨を入れられていました。そして、刑罰代わりに強制的に兵士にされていた。黒い顔に描かれているのは多分彼等です。だから、金朝か南宋の出身と見て間違いない。
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第一回遠征軍の主力は高麗人です。高麗の三別抄軍はその前の年までモンゴル軍と戦っていたわけで、遠征軍の中身がとてもしっくりいって居るとは思えない。しかも、海軍の経験の無いモンゴル人が司令官です。第二回になると旧南宋の軍人も大勢混じる。彼等は、遠征軍とはいいながら棄民に近いから、士気が高かったとは思えないのです。モンゴルに服属したばかりの諸民族の混成軍が朝鮮半島、中国大陸別々のところから出発して対馬沖で合流する。陸上生活と違って船ですから、各軍団の司令官同士の意志疎通や連絡もうまくいかなかった。
一言でいえば、元寇のモンゴル軍は烏合の衆、と云う事です。しかも、水軍に不慣れであったし、遠征軍の乗った船が第二回では4400隻と云うのですが、その多くは突貫工事で高麗の船大工に造らせたものです。急造の粗悪船が多かった。だから、記録にも残ら無い様な、一寸した風でも船が大きい被害を受けたり、司令官達が混乱したりしたのではないか。
フビライは1287年にはビルマ遠征とヴェトナム遠征、1292年にはジャワ遠征を行っていますが、全て失敗しています。拡大し続けてきたモンゴルの勢いが、人的にも経済的にも限界に近づいていたのかも知れません。
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元の滅亡
元は14世紀中頃から、宮廷内での内紛が激しくなる。又、チベット仏教に対する信仰が深くなって、大規模な寺院の造営が相次ぎ財政を圧迫しました。財政難を乗り切る為に交鈔を濫発したので、中国経済は混乱して各地で反乱が続発します。
特にマニ教と仏教を混合したような白蓮教という宗教が、一般民衆に浸透していて、この白蓮教を中心にした反乱が大きかった。これを紅巾(こうきん)の乱といいます。赤色の頭巾を巻いていたのでこう呼ばれた。
元ははじめは各地で起こる反乱を鎮圧しているのですが、そのうち面倒くさくなる。中国人から搾り取るために支配しているのに、反乱鎮圧に明け暮れていたのでは、中国支配のうまみがない。1368年、モンゴル人たちは中国を放棄してモンゴル高原へ退去しました。元は滅んだのでは無く去って行った。
代わって漢民族の王朝である明が成立するのですが、その後も元は北元とかタタールとか呼ばれてモンゴル高原に存在し続けていくのです。
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元以外の諸ハーン国はどうだったか。オゴタイ=ハン国は14世紀はじめにはチャガタイ=ハン国に併合されて消滅。そのチャガタイ=ハン国は東西に分裂、特に西部ではイスラム化と定住化がすすんで行きます。政治的にも解体して行き、ティムールによって滅ぼされた。ティムールについては後で触れます。
キプチャク=ハン国は、イスラム化して14世紀前半には最盛期を迎えますが、15世紀末には領内にスラブ人国家モスクワ大公国が独立、又配下の部族が夫々にハン国を形成し自立して行き16世紀には消滅した。
イル=ハン国は13世紀末に即位したガザン=ハンの時にイスラムに改宗し、大臣ラシード=アッディーンが行政・財政で国家運営を支えました。ラシード=アッディーンは歴史家としても有名でモンゴルの歴史を軸にして『集史』と云う世界史の本を書いています。これは覚えておくこと。イル=ハン国は14世紀半ばにはフラグの血統が絶えて分裂した。
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諸ハーン国では、モンゴル人の数は圧倒的に少数でした。それが広い地域を統治する為には土着勢力と協力しなければうまくいかない。婚姻関係も結ぶし、その土地の宗教を、具体的にはイスラム教ですが、信じた方が上手くいく。こうして何世代か経つうちに、どんどんモンゴルの王族も土着勢力の中に吸収され、なし崩し的にモンゴル帝国は衰退して行った。
モンゴル帝国の発展 おわり 次のページ 《イスラム教の成立》
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