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2018年08月21日

一緒に学ぼう世界史のポイント 38 《モンゴル帝国の成立》


 一緒に学ぼう世界史のポイント 38 《モンゴル帝国の成立》


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 モンゴル帝国の成立


 モンゴル帝国の成立
 
 契丹族の遼帝国が金の攻撃によって滅んだ12世紀以降、モンゴル高原には遊牧民の部族が分立して抗争を繰り返して居ました。その沢山ある部族の一つにモンゴル族があった。モンゴル人とかモンゴル高原とか、現在使っている言葉ですが、この時にはそんな意味では使われていないですから注意してください。モンゴル族が遊牧ゥ部族を統一して有名に為ってから後で着けられた民族名であり地名です。
 当時のモンゴル部族そのものは沢山ある部族の一つに過ぎません。又、特に有力な部族でも無い。当時のモンゴル人の様子を南宋の人が書き残しているので見てみましょう。

 

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 「金は三年毎に兵を遣わして北に向かって討伐をする。これを《減丁》と云う。今でも中原(黄河下流地方)の人はこのことを好く覚えている。20年前には山東や河北の家では皆モンゴル人を買って奴碑としたものだった。彼等は皆金軍が捕えて来たものである」 趙珙「蒙韃備録」1221年
 
 金の奴隷狩りの対象に為って居たのですね。この弱小モンゴル部族を統一するのがテムジンです。やがて彼は他のゥ部族も統一して分裂していたモンゴル高原の諸勢力をまとめ上げた。1206年、クリルタイで大ハーンの地位に就きチンギス=ハーンと名乗ることになった。クリルタイと云うのは遊牧ゥ部族の族長会議です。ハーンと云うのは王の称号。チンギスと云う言葉の意味は判って居ません。

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 ここにモンゴル高原の写真があります。現在でも遊牧生活をしている人達がいる。これはその写真です。実に雄大な風景ですね。草原が何処までも拡がっている。こんな所にゴロンとヒックリ返ってみたいですが、実際行った人によると、この草原の草は非常に硬くてチクチクする、ヒックリ返れるようなもんでは無いそうです。
 マア、そんなことはどうでも好いんですが、馬が群れているこの横に白いテントがあります。これがゲルと云うモンゴル人の住居。チンギス=ハーンの時代も同じような光景だったと思います。遊牧生活と云うのは「遊」と云う字が入っているので、牧草を求めてアチコチを彷徨って居る様なイメージがありますね。でも、実際は遊牧する場所は、夏営地冬営地と集団毎に決まっていて、季節毎にテントを持って同じ場所を行ったり来たりするのが基本です。

  

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 モンゴル高原と言っても、この写真の様な何処までも緑の草原が続いている場所ばかりでは無い。岩がゴロゴロしている場所もあれば砂漠に近い場所もある。だから、誰もが少しでも条件の良い場所で遊牧がしたいと思う。しかし、幾つもの集団が条件の良い場所に殺到したら牧草は直ぐに食べ尽くされてしまいますから、どうしても良い場所は取り合いになる。
 遊牧社会全体を統率する強大な権力者がいる時代は、争いに為らない様に集団毎に牧草地を割り振って行きますが、そうで無い時代には、諸集団は常に争い合っています。テムジンの少年時代はまさにそういう時代でした。戦国時代と言って好いです。

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 テムジンの父親イェスゲイはモンゴル族の有力貴族の一人でした。モンゴル族そのものが当時はまとまっていない中で、イェスゲイは配下の集団を増やしてモンゴルの族長の地位を目指していました。強く為ればそれだけ良い牧草地を他の集団から奪うことが出来ますからね。又強いリーダーの元には多くの遊牧集団が集まって来ます。強い奴に付いて居れば自分の安全も生活もそれなりに保証されると云う訳です。

 処が、テムジンの父親は敵対するタタール族の者に毒殺されてしまった。テムジンが僅か9歳の時のことです。9歳の子供に集団を束ねることなど出来る筈はありませんから、イェスゲイの元に集まっていた遊牧民達はテムジン一家を見捨てて次々に去って行く。
 それでもテムジンは七人兄弟の長男だったので、9歳にして小さい弟達と母親を率いる家長として行動することに為るのですが、瞬く間にテムジン一家は牧草地から追い遣られ、遊牧民でありながら遊牧で生活出来無い様に為ります。
 彼等は狩猟採集生活をしながら何とか生きて行く。河に入って魚を捕まえたりもしたらしい。「それが、なんだ!」と思わないでくださいね。遊牧民と云うのは誇り高いの。馬に跨り草原を疾駆するのが彼等の本来の生活。地べたに這いツクバッテ、河で魚を捕るなんて云うのは最低の人間以下の暮らし、そう云う感覚なのです。

  

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 また、或る時は猟をして鹿を仕留めるんですが、獲物の分け合いで兄弟喧嘩に為る。何とテムジンは弟二人をその時に殺しています。食べ物の奪い合いで兄弟を殺すような生活って想像できますか。しかし、そういうギリギリの生活を生き抜く中で、テムジンは実行力、決断力、冷静さ、悪く言ったら残酷ささえ身に着けて行く。
 成長した後は、父親の昔の同盟者などを味方に付けながら徐々に力を蓄え、モンゴル族を統一し、次には他のモンゴル高原の遊牧諸部族を配下に従えて、チンギス=ハーンと為ったのです。この時の年齢が40代か50代。どうもハッキリしないのですが、もう既に若いと言える年齢では無い。当時の感覚では老人に近いでしょう。これ以後、彼の支配下に入った遊牧諸部族は全てモンゴルと呼ばれる様に為ります。

     mo8-7.jpg チンギス・ハーン

 遼の滅亡後、百年振りにモンゴル高原を統一したチンギス=ハーンは、この後は物凄い勢いで征服活動を勧めて支配地域を拡大します。遊牧民のエネルギーと云うのは一つにまとまると強烈です。当時のモンゴル人に取って、最も欲しかった地域は東西交易路です。貿易路を押さえれば遠隔商人達から莫大な税金を捕ることが出来るからね。
 チンギス=ハーンが最初に征服したのが西遼です。遼が滅びる時に、王族の一人耶律大石が中央アジアに逃れて建国した国でしたね。先ずはこの西遼を滅ぼした(1218年、正確には1211年に西遼を乗っ取ったナイマン部を滅ぼした)
 1220年にはイランから中央アジアに掛けて領土を持って居たホラズム王国を滅ぼした。これはイスラム教の国です。この間に東の金に対しても攻撃を加えています。

  

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 更に1227年、モンゴルからの援軍要請を断った西夏を滅ぼしますが、この時にチンギス=ハーンは亡く為りました。彼の死体はモンゴル高原のケルレン川の流域に埋葬されたらしいですが、副葬品の盗掘を恐れて何も記念物を作ら無かったのです。それ処か埋葬した後騎馬軍団がその上を何度も往復して墓の痕跡を完全に消してしまった。だから、今もチンギス=ハーンの墓所は不明です。もし発見されたら大ニュースですね。

 彼が滅ぼして領土に加えた国は全て東西交易路上にある国です。チンギス=ハーンの業績を一言で言えば、交易路を完全に支配下に置き大遊牧国家の建設に成功した、と云う事ですね。この段階でモンゴル帝国と呼んで差し支えないと思います。

 モンゴルの強さ

 チンギス=ハーンの死後もモンゴルの発展は続くのですが、何故モンゴル軍が戦争に強かったのか見て置こう。

 チンギス=ハーンは「千戸制」と云う軍団組織を作り上げた。資料を見てみよう。

  

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 「人類始まって以来現在に至るまでモンゴル軍の様なものは過つて存在し無かった。彼等は困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である。それは賃金や封土や収入や昇進めあてでは無い。……出征に際してはその目的の為に必要な全てのものを点検する。……点呼の時には装備の検閲を受け、少しでも欠けたものがあると責任者は処罰される。……軍隊の召集や点呼の制度が完備しているので徴兵薄や徴兵担当官を置く必要が無い。全ての兵士は10人の組に分けられ、その1人が長と為って他の9人を指揮する。10人の十戸長から1人の百戸長を選び100人がその指揮下に入る。1000人で千戸10000人で万戸を作り、万戸の長をテュメンと云う」 ジュワイ二ー「世界征服者の歴史1」より

 この様に組織化された軍団がチンギス=ハーンの意のままに動いたのです。この千戸制は軍制だけで無く日常の行政組織でもありました。

  

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 千戸制のシステムによって集められた兵士達は全て軽騎兵です。機動力が抜群だった。機動力、判りますね。簡単に言ったらスピードが速いと云う事。
 モンゴル兵は一人で五・六頭の馬を連れて従軍する。騎馬軍団が遠征に出かけるでしょ。ずうっと同じ馬に乗り続ければ馬だって疲れて潰れてしまう。そうすると、兵士はその馬を乗り捨てて予備の馬に乗り換える。こんな風にして次々と馬を乗り換えて行軍しますから、敵の不意を突く速さで戦場に到着して攻撃をすることが出来た。
 ホラズム王国を攻めた時などは、モンゴル軍から包囲攻撃された都市が、別の都市にモンゴルが侵略して来たぞ防備を固めろ!と危険を知らせます。知らせを受けた都市が防備を固めようと準備をしていると、もう地平線の向こうからモンゴル軍が迫って来るのね。軍備を調える余裕さえ与え無い。

 乗り捨てられた馬達はどう為るかと云うと、馬には鳩や犬と同じように帰巣本能と云うのがある。放って置けば勝手に故郷に帰るのです。遠征を終わって兵士が家族の元に戻ってみると馬の方が先に帰っているという寸法です。
 機動力を高める為には余分な装備は持たず、荷物を出来るだけ軽くした方が好い。又、遠征途中で馬に食べさせる牧草が無くては大変です。だから、チンギス=ハーンに限らずモンゴルの皇帝達は遠征計画が決定すると、遠征実施一年以上前から遠征予定進路上での遊牧を禁止します。モンゴル帝国のどの家族もその土地で遊牧は出来ない。そうやって遠征軍の為に牧草を一杯生やして置くのです。

  

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 兵士の装備は次のようなものです。革製鎧・兜、太刀・短刀・矢、馬(5〜6頭)、手斧、やすり・キリ、釣り針・糸、引き綱、鉄鍋、革袋(水入り)、防寒毛皮マント、テント・敷物、干し肉・チーズ・・・兵士達が日用品を自分で補修しながら遠征している感じが伝わって来ますね。

 モンゴル兵の強さの理由を続けましょう。千戸制、機動力の他に挙げるとすれば、モンゴル人の純朴さ、素直さと云うのがあると思う。今でも、モンゴル共和国で遊牧生活をしている人達と云うのは日本人がとっくに忘れてしまった人の良さみたいなものを持っているんだって。感動する位素朴な人達らしい。
 チンギス=ハーン時代は猶更(なおさら)でしょう。素朴で素直と言うことは、兵士としては多分一番の適性ですよ。「前進」と命令されれば何があっても何処までも前進する。「殺せ」と命令されればトコトン殺し捲る。しかも、こう云う兵士達がチンギス=ハーンに忠誠心を持つのですから、これに太刀打ち出来る軍隊はそうそう無い。上の資料で「困苦に耐え、快楽を喜び、命令に忠実である」と云う事です。

 未だ、チンギス=ハーンが大勢力を築く前、モンゴル高原の統一を目指していた頃ですが、或る戦いでチンギス=ハーンの首に敵の矢が刺さってバッタリ倒れた。戦いが終わっても彼は昏倒したまま目が覚め無い。やがて、吹雪に為って雪が降って来ます。矢が急所に刺さっているだけに動かすに動かせ無い。
 そこに一人の武将が、自分の服を脱いでチンギス=ハーンの身体に指し掛けて一昼夜動か無い。一日経って、チンギス=ハーンは無事に目覚めるのですが、自分の周りにだけ雪が積もっていない。未だその武将は身じろぎもせずに立って居たという。こんな風に忠義を尽くす武将が山程居るのがモンゴル軍です。

  

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 更に初期のモンゴル軍は抵抗した都市を徹底的に破壊して、その住民を殺し捲った。恐怖の軍隊です。又、その残虐さを強調する事で宣伝効果を狙った様です。ホラズム攻略では或る都市を降伏させるとその住民全てを奴隷にして次に攻略する都市まで引き連れて行く。そして、その奴隷達を攻撃の第一陣として使う。又は、攻撃の為の土木工事に死ぬまで働かせた。
 抵抗すれば後ろからモンゴル軍に殺されるので、前進して仲間に対して攻撃を仕掛けなければなら無い。退くも地獄進むも地獄です。残虐さと云うのは、敵の抵抗を引き起こすもののようですが、モンゴル軍の様に徹底的にアッケラカンと残虐だと抵抗する気も無くなるものなのかも知れません。

 チンギス=ハーンが晩年に将軍達を集めて宴会をやった。チンギス=ハーンは将軍達に尋ねました。「人生最大の幸せは何か」
 将軍達は「草原で家族に囲まれてノンビリ遊牧をすることです」と答える。「それは違う」チンギス=ハーンは言った。「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ」
 最後が凄いね。悲しむ顔を見ることだって。成功したから英雄だけれど、飛んでも無い人ですよ。身近に居たら絶対に知り合いに為りたく無いね。

  

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 モンゴル族が対立する部族のナイマンを滅ぼした時にナイマン王の金印を見つけたチンギス=ハーンは、それが何だか判らない。この金印を文書に押すだけで王の命令が全国に行き渡るのだ、と教えられて非常に感心したと云う話がある。
 又、金国の北部を占領した時、中国の農民を皆殺しにして農地を全て牧草地にすれば沢山の馬が飼えると喜んだ。それを聞いて耶律楚材と云う遼の王族出身でモンゴルに仕えていた男が、農民と云うのは生かして置けば一年に一度タップリと税金が取れるのですよとチンギス=ハーンに進言します。フーンと思ったチンギス=ハーン、一年様子を見ていたら確かに収穫時にドっと税が入って納得したと云う。

 ヒョットするとモンゴル人を馬鹿にする為に中国人が作った話かも知れませんが、それでも当時のモンゴル人の雰囲気を伝えていると思う。要するに、初期のモンゴル人の政治的経験は遊牧社会にしか通用しないものだった。領土を拡大するに伴って色々な統治技術が必要に為って来る。だから、民族人種に関係無く有能な人材をドンドン政府の中枢部に組み込んで行きます。耶律楚材もその一人です。

 又、チンギス=ハーン時代のモンゴルの人口は十万戸、七十万人程度だそうです。征服地が増えるに従って、モンゴルの千戸制に組み込まれる人々も増えます。近代的な民族意識は未だ無い時代ですから、新たに組織された人々や政府中央で活躍する人々にそれ等を全て含み込んでモンゴルと呼ばれる巨大な集団が形成されて行ったのです。


 モンゴル帝国の成立 おわり  次のページへ 《モンゴル帝国の発展》

  

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