2018年08月10日
一緒に学ぼう世界史のポイント 37 《南宋・宋代の社会と文化》
一緒に学ぼう世界史のポイント 37 《南宋・宋代の社会と文化》
南宋・宋代の社会と文化
南宋
靖康の変で徽宗・欽宗親子が金軍によって北方に連れ去られた後、徽宗の息子の一人高宗が南方に逃れて建国したのが南宋(1127〜1279)です。首都は臨安今の杭州です。臨安と云うのは臨時の皇帝の居場所と云う意味で、何時かは金から中国北部を奪還しようと云う意図が込められて居ます。
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岳飛将軍
建国早々の南宋では金に対してどういう政策を執るかと云う事が課題に為る。そして和平派と主戦派が対立しました。和平派の代表政治家が秦檜(しんかい)です。この人は靖康の変の時に徽宗達と一緒に捕虜として連行されて暫く金国の元で暮らした経験がある。だから、新興国家金の勢い・質実さ・強さを充分見て居る訳です。
その秦檜に言わせれば、金と戦って領土を奪還する何て言うのは、話としては景気が好いけれど全く不可能。そんな事をしては南宋まで滅びる事に為る。南北で金と南宋は棲み分けをして友好関係を築くのが現実的な選択と云う。
秦檜の云う事は、それ為りに説得力はあるのですが一つ大きな問題があった。それは秦檜自身の問題でした。金の捕虜に為って居た秦檜が何故南宋に帰って来る事を許されたのかと云う疑惑が持たれていたのです。要するに秦檜は対南宋和平工作の為に金から送り込まれたエージェントではないかと云う事です。更に、秦檜の和平の主張が幾ら理に適っていても、国の半分を奪った相手と仲良くしようと云うのは如何にも弱腰で情け無い。
岳飛廟
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これに対して、飽く迄も戦って領土を奪還しようと云う主戦派の主張は勇ましいから人気がありました。この主戦派の代表者が岳飛(がくひ)です。岳飛は叩き上げの軍人です。未だ三十代の若い将軍で金との国境地帯の防衛に大活躍しました。彼の軍は規律が厳しく守られたことで有名でした。
皇帝高宗はと云うと秦檜の和平派を採用します。岳飛は飽く迄もそれに反対します。人望もあり軍隊を握っている岳飛が反対を唱え続けることは、高宗・秦檜に取っては邪魔です。そこで秦檜は岳飛を都に呼びだして毒殺してしまった。これ以後秦檜は権力を握り続けるのですが、殺された岳飛はやがて民族の英雄として祭り上げられる様に為りました。
秦檜とその妻の二人の座像
資料集の写真を見てください。杭州に岳飛廟と云うのがあって、今でも参詣する人が絶えません。で、この岳飛廟の一角に、これ、二人の座像があります。後ろ手に縛られて膝まづかされて居るのすがこれは秦檜とその妻です。二人の像は頭とか肩がテカテカと黒光りをしているでしょ。岳飛を殺した秦檜は超悪役にされてしまって居て、岳飛廟を訪れた人達はこの像に唾を吐き掛けて行くのです。
テレビで見たことがあるんですが、大声で秦檜像に向かって怒鳴り着けているのね。それから、ペッ、ペッと唾を吐いていた。凄い剣幕でしたよ。現在の話ですよ。岳飛が殺されてから800年が経っているのにですよ。何だかビックリしましたね。
1142年に南宋は金と盟約を結びます。両国の関係は「金君南宋臣」で、南宋は多額の歳貢を金に送る事に為りました。しかし、華北を金に取られながらも南宋は経済的には繁栄します。金は南宋を滅ぼすことは出来なかったし南宋も華北を奪還することが出来ず、両国は大体淮河(わいが)と云う河を国境として住み分けることに為ったのです。やがて、この両国を滅ぼしてアジアを大統一するのがモンゴルです。金は1234年、南宋は1278年、モンゴルによって滅ぼされます。
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宋代の社会と文化
北宋、南宋をヒッ包めて社会の特徴と文化を見て行きます。
・官僚 宋代は貴族が無く為りますから皇帝の権力を押さえる者がいない。皇帝一人だけが強大な権力を握ります。皇帝の元で実際に民衆に対して権力を振るうのが官僚です。そう云う意味では官僚が支配者と言って好い。官僚は戸籍上は「官戸」とされて税制上の特権を持ちます。そう云う意味では特権階層ですが、その特権は「家」に与えられたものでは無くて科挙に合格した個人に与えられるものです。ここが貴族と違う処。
彼等は科挙に合格して居る訳ですから、一流の知識人・学者・読書人でもある。学問があると云う事は人々から尊敬されます。地域社会のリーダーとして信望を集める様な存在です。そう云う意味で彼等は「士大夫(したいふ)」と呼ばれます。又、学問を修める為には、家に経済的余裕が無くてはなら無い訳で、士大夫と呼ばれる人達は殆ど地主出身です。宋代には地主を形勢戸と言いましたね。
宋代の支配社会層は、官僚としては官戸と呼ばれる特権者であり、地域社会では士大夫と呼ばれる知的リーダー、経済的には形勢戸と云う地主、この三つ面を持った階層として理解します。
これに対して被支配者階層は自作農と「佃戸(でんこ)」と呼ばれる小作人です。魏晋南北朝から唐までの時代と違うのは、この支配者と被支配者の関係が固定的では無かったことです。地主であっても何代も官僚を出さ無ければ没落することはあり得るし、小作農であっても優秀な子供が出て科挙に受かれば一気に資産家に成り上がる事が出来る。
中国社会は一族の繋がりが強いので、一族の中に飛び抜けて頭の良い子がいたら皆して勉学資金を出しあって好い先生の所に就けて科挙を目指させる。だから支配者階層に入る人達は何十年か経つとかなり入れ替わる。貴族階級として支配者が固定化し無い訳です。
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・農工業 宋の時代は農業生産量の増大が著しい。特に江南や長江の下流域を中心に開発が進みます。「江浙(こうせつ)熟すれば天下足る」とは当時の諺です。長江下流地方が豊作為らば他の地方が凶作であろうとも国中が飢えに困ることは無い、そう云う意味です。天下の台所と云う事ですね。
この時期には占城稲(せんじょうとう)チャンパ米とも言いますが、これがベトナム方面から齎(もたら)されました。この品種は干害に強く中国南部の稲作地帯に急速に広がります。特に成長が早かったので一年二毛作、二年三毛作等も広まり食糧の増産が可能に為った。
茶の栽培も行われる様に為ります。飲茶の風習は唐代から広まるのですが、茶はあっても無くても好い嗜好品ですから、本格的に栽培される様に為ったと云う事は、食料生産に余裕が生まれて来た事の結果でもある訳です。
・手工業では陶磁器。青磁や白磁がこの時代の代表的な陶磁器です。資料集の写真を見てください。中国の人達は磁器のこの透明感が好きな様です。指でピンと弾いてチーンと音が響く感じ、判りますよね。春秋戦国時代の玉器を磁器で再現したいのではないかと云う気がします。
日本人は、茶道の茶碗の様な如何にも土くれを捏(こ)ねましたと云う陶器が好きですね。備前焼の様に素材の土がそのままのものね。備前焼と180度逆の感性が青磁や白磁と思います。日本人の趣味はきっと中国人には理解し難い田舎臭い感じがするのではないかな。青磁や白磁は西アジアから東アジア全体に輸出されています。この青磁を朝鮮半島の高麗で再現しようとしたのが高麗青磁です。
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・商業 唐代には商業活動に対しては政府の制限がありました。例えば長安には東西に市が建てられていましたが、それ以外の所で店舗を構えて商売は出来なかった。又、営業時間も正午から日没までに制限されて居ました。
宋代に入るとこの様な制限は無く為ります。何処に店を構えても好いし営業時間も無制限。地方にも市が立てられる様に為って、これが商業都市へと発展して来ます。これが草市(そうし)と呼ばれるものです。田舎の市と云うニュアンスの言葉です。
唐末五代の戦乱期に部隊が駐屯した場所にも商業都市が発展して来る。これを鎮(ちん)と云う。現在の中国の地名で何々市・何々鎮と呼ばれる所は宋代以降に発展した比較的新しい都市だと思って間違いありません。この草市の市と云う言葉が日本語に入って来ているのです。
「清明上河図」
教科書、資料集にも載っていますが「清明上河図」と云う絵がありますね。宋の都開封の賑わいを描いている。肉屋、酒屋、本屋など商店が並んで居るだけで無く、劇場があったり講釈師がいたり、ラクダを連れた西方からの遠隔商人らしい人が居たりとナカナカ賑わって居るでしょ。
同業組合も発達する。「行(こう)」と云うのが商人の組合「作(さく)」が手工業者の組合です。行と云う言葉は日本語では「銀行」と云う単語に使われています。
商工業の繁栄は当然貨幣経済を進展させました。宋の時代は銅銭が大量に鋳造された。銅銭と云うのは金貨や銀貨と違って小銭です。銅銭が大量に作られると云う事は多くの庶民が必要としたと云う事ですね。
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宋代の銅銭を特に宋銭と言いますが、この宋銭はアジア全域から大量に出土します。日本も平安時代の終り頃、平清盛が熱心に日宋貿易をしますが、この時大量に宋銭を輸入しています。
日本では皇朝十二銭と云う銅銭を発行して居たのですが、やがて独自の貨幣発行を辞めてしまう。その日本で流通したのが宋銭です。貧しい国で自国の貨幣の信用が無くてドルが幅を利かせている様なものですね。今でも、地方の旧家の土蔵の中から宋銭がザックリ詰まった古い壺が見つかったりする。古銭屋に言っても一番安いんじゃないかな。マア、それだけ宋代の経済活動が活発だった証拠です。
「会子」
小銭が銅銭とすれば、デッカイ金額は紙幣ですね。紙幣が初めて登場するのが宋の時代です。北宋時代の紙幣を「交子」南宋時代は「会子」と言います。これらは民間で使われていた手形が発達して出来た物です。
・文化 学問の中心は相変わらず儒学ですが、新しい展開があります。儒学と云うのは処世訓の寄せ集め的な面が強いのですが、宋代に為って理論が体系化されます。これは仏教に対抗する為でした。仏教の様に儒学もそれ為りの世界観・宇宙観を持つ様になった。これを「宋学」と言います。
宋学を大成したのが朱熹(しゅき)朱子とも言います(1130〜1200)朱子は宇宙は原理と運動の二つから成り立つと考える。原理のことを「理」運動のことを「気」と言います。この理論を「理気二元論」と云う。
サテ、人間の本性は「理」か、はたまた「気」か。朱子は「性即理」詰まり人間の本姓は理だと云う。「理気二元論」ですから「気」もある訳で、本性が「理」なら「気」は何か。朱子は心が「気」だと云う。この心が運動して人間を悪い方向に導く。だから、常に人間は動か無い物体を研究して、本性である「理」を確認しなければなら無い。その為に儒学と云う学問を学び続けなければなら無い。物を究めて知識を確実にして修養を積む、この事を「格物致知(かくぶつちち)」と云う。
ヤヤコシイですね。取り敢えず「理気二元論」「性即理」この二つの単語を朱子と結び着けて暗記すれば受験的には大丈夫でしょう。
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朱子にはもう一つ「大義名分論」と云う議論があります。朱子は南宋の人ですから、中国の正統政権は金では無く南宋であると主張したい。客観的に見れば両政権が中国に並立しているのであって、どちらかが正しい間違っていると云う事は無いのですが、中国に幾つかの王朝が並立した場合は、一つだけ正統政権で後は変則的な政権だと考える。これを大義名分論と云う。
日本では江戸時代に朱子学が儒学の正統とされます。水戸藩二代目藩主、かの有名な水戸黄門さんですが、この人が朱子学の大義名分論の立場で「大日本史」と云う歴史書を編纂させる。処が、大義名分論で日本史を書いて行くとどうも天皇が正統政権で徳川氏は政権の簒奪者に為ってしまう。変だなと思いながらも水戸藩は天皇が権力を持つべきだと云う歴史観を持ち続けます。御三家と云う立場とこの歴史観は相当矛盾しますよね。だから幕末の水戸藩は党派闘争が激しく為って大混乱します。一寸話が逸れましたね。
宋学の学者でもう一人覚えて置くのが陸九淵(りくきゅうえん)この人は朱子の「性即理」に対して「心即理」を唱えた。朱子が人間の「理」を曇らせると考えた心こそが「理」だと考えたのです。多分、現代風に言えば「心即理」は人間の主体性を重視する考えだと思います。陸九淵の思想は、明の時代の大学者王陽明に引き継がれて行きます。更には日本の吉田松陰に。この考えの学者は皆行動的です。
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歴史学では北宋の司馬光が重要。旧法党のリーダーで王安石のライバルだった男です。この人は『資治通鑑(しちつがん)』と云う歴史書を書きます。編年体と云う書法で書かれていることが特徴。
司馬遷の『史記』以来、中国の歴史書は紀伝体で書かれていましたね。紀伝体は基本的には人物中心なので時間の経過に沿ってどんな事件が起きて居たのかが判り難い。『資治通鑑』の編年体は時間系列で事件を順番に記述した。事件の流れが判り易く為ったのです。しかも、只の年表では無くて読んで面白い様に叙述に工夫が凝(こ)らされている。これ以後、編年体は紀伝体と並ぶ歴史書の形式に為りました。『資治通鑑』は戦国時代から五代十国時代までを描いた大著です。
散文学では「唐宋八大家」の欧陽脩(おうようしゅう)蘇軾(そしょく)蘇轍(そてつ)王安石位を覚える。それにしても王安石は一流の文章家でもあった訳で、司馬光と言い王安石と言い大政治家は同時に大文化人なのですね。
韻文では「詞」が大流行する。唐代の韻文は「詩」でした。「唐詩」と云う。宋では「宋詞」と言います。詞と詩の違い判りますか。現代日本でもこの二つの言葉は使い分けていますよね。皆さんも自然に使い分けているよ。どう違うんですか。国語の教科書に載るのは詩、音楽の教科書に載るのは詞。メロディが付いて歌われるのが詞、メロディが着か無いのが詩です。
唄を歌うのは何時の時代でも庶民の楽しみの一つです。宋の詞と云うのは、庶民が歌った流行歌と考えたら判り易いと思います。唐詩は貴族の社交道具です。宋代は、都市の賑わいと言い詞の流行と言い、庶民が経済や文化の担い手として登場して来る時代なのです。
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絵画
徽宗
北宋末期の皇帝徽宗は政治家としてはダメですが芸術の才能は抜群で、宮殿内に画院と云う工房を作って絵を作らせます。この流派を「院体画」もしくは「北画」と言います。資料集には徽宗自身が描いた「桃鳩図」が載っているね。緻密で艶(あで)やかな画風です。徽宗は皇帝に生まれ無くても芸術家とし名を残したかも知れませんね。
「桃鳩図」
文人画 南画
院体画とは別に「文人画」若しくは「南画」と呼ばれる絵画もあります。画家では米芾( ふつ)牧谿(もっけい)らが有名。渋い墨絵ですね。禅僧の描く絵が大抵この派です。
最後に宋代の三代発明と言われる物を紹介して終わりにしましょう。
羅針盤
木版印刷・火薬・羅針盤、この三つ。全てが宋の時代に発明されたかどうかはハッキリしないのですが宋の時代には実用化されていた。やがて、これ等はヨーロッパに伝わる。火薬はヨーロッパで鉄砲に為り、羅針盤はコロンブス達の大航海時代に大きな力を与えることに為ります。羅針盤を頼りにアジアやアメリカ大陸に遣って来たヨーロッパ人は鉄砲を使って征服をし始める。本家の中国人がそんなことをしなかった事を考えると、文化の違いと云うものを考えてしまいますね。
木版印刷
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