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2018年08月02日

一緒に学ぼう 世界史のポイント 3 《古代エジプト》1


 世界史講義録より参照


 




 世界史のポイント 3 《古代エジプト》1


 エジプト文明 1


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 「エジプトはナイルの賜物」


 エジプトでは前5000年頃に農耕が始まります。前2700年頃には統一王朝が成立します。エジプトは周囲を砂漠に囲まれているのでメソポタミアの様な目まぐるしい民族の侵入や王朝の興亡は余りなく独特の文化を築きます。
 エジプトが文明を持てたのは、何と言ってもナイル川のお陰。ナイル川が毎年もたらす肥沃な土壌と水がエジプトの豊かな農業を可能にしました。毎年ナイル川の洪水で上流から栄養分をタップリ含んだ土が流れて来る。だから何もしなくても地力が維持出来るのです。後は洪水が引いて行く時に水の管理さえ確り出来れば好い。
    
 前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉は有名です「エジプトはナイルの賜物」


 エジプトの空中写真を見るとナイル川の縁だけが緑に為っているのが好く分かるでしょう。流域から少し外れるとずっと砂漠が広がっています。エジプト文明を作った人々はハム系と云う言語系統です。現在のエジプト人はハム系の流れも汲んでいますがアラブ人と混じり合っていて彼等自身もアラブ人だと自覚している。


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 エジプトの文化


 エジプトの暦は太陽暦で、1年365日です。ナイル川はティグリス・ユーフラテスの様に不定期な大洪水は起こりません。1000キロ以上上流のエチオピアの高原に降ったモンスーンの雨でナイル川は増水するので、毎年決まった時期に同じ様なペースで水嵩が増して行きます。エジプト人は、何時ナイル川が増水するか、それが最大の関心事。それに併せて農耕の準備をする訳です。
 神官達は、天体を観察しながらナイル増水の時を調べました。7月の半ば明け方の東の地平線ギリギリにシリウスが一際輝く時がある。丁度その時からナイルが増水する事が解って来た。翌年同じ場所にシリウスが輝くまでが365日。そして、又その時に増水が始まるのです。

  
 こうして出来た暦が太陽暦です。だから、正確に云うと太陽暦じゃ無くて洪水暦かシリウス暦なんだけどね。でも、この暦が古代ローマ帝国からヨーロッパに伝わり今では世界的に使われている暦です。
 1日を24時間にしたのもエジプトです。エジプトは10進法で、初めは昼と夜を夫々10に分けて20だったのが、昼と夜の境界の時間を夫々に付け加えて24に為ったそうです。洪水の水が引いた後、農民達はその上で農耕を始めるのですが、土地の境界線が増水の後は泥に埋もれて全然判らなく為ってしまうでしょ。そこで、エジプトでは測地術も発展します。


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 文字は独特の絵文字を発達させます。鳥とか獅子とか秤とか、絵の形が字に為ってるね。これは一番格式の高い字で神聖文字と言います。これ以外に神官文字、民衆文字と云う字体がありました。この神聖文字の解読にまつわる話をして置きます。

 18世紀末、フランスのナポレオンがエジプト遠征をします。只、遠征するだけでは無くて165人の学者を引き連れて行くのです。強烈にエジプト世界に対して憧れを持って居たんだね。で、ナポレオンはエジプトで戦争をする傍(かたわ)ら、各地に部隊と学者を派遣して発掘しまくる。
 そして、出て来たのが世紀の大発見「ロゼッタストーン」です。この高さ1メートル程の碑文には国王を称える布告が、神聖文字、民衆文字、そしてギリシア文字で刻まれていたんですね。
 こう云う記念碑は、違う言語をしゃべる人でも分かる様に同一内容を複数文字で書くんだ。ギリシア文字はアルファベットだから読めるのです。だから、ロゼッタストーンの発見によって神聖文字解読の大きな手がかりが与えられたのです。


 




 処がその後20年間解読出来ない。皆、神聖文字の絵の形に惑わされて、これを表意文字と考えたからです。例えば、鷹の形の字があれば「飛ぶ」「速い」「勇猛」と云う意味じゃないかとかね。
 1822年、解読に成功したのがフランスのシャンポリオン。彼は碑文の中の枠で括ってある一連の文字に注目しました。何故、枠で囲んで居るのか。重要な単語だからに違いない。エジプトで重要な単語とは何か。

 そして彼は、これが王の名前を表しているのではないかと考えました。そうすると、そこにほぼ対応するギリシア文字の場所にプトレマイオスとかクレオパトラとか王の名があった。更に観察すると、絵文字のプトレマイオスのP、クレオパトラのPに当たる部分に同じ絵文字があったんですね(小さな四角の文字(□)があった)。
 彼は、絵文字が表意文字で無く表音文字である事を初めて発見したのです。これ以降はドンドン解読を進める事が出来ました。獅子はL、鷹はAとかね。自分の名前神聖文字で書いてみましょう。オシャレでしょ。この解読成功によって、古代エジプトの歴史が一気に明らかに為ったのです。ロゼッタストーンは現在、大英博物館にあります。ナポレオンも触ったかも知れませんよ。


 



  
 文字が書かれたのがパピルスです。パピルスと云う植物の茎を潰してシート状にします。英語のペーパーの語源です。ナイルの湿原に自生している植物ですが、今は観光用に作っているだけらしい。


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 精神世界の話。エジプト人は死後の世界に対して独特の関心を持って居ました。彼等の死後の世界を描いたのが「死者の書」冥界詰まり、あの世を書いてある。
 死者の魂はあの世に行って神々の検査を受けるんです。ここに秤があるでしょ。秤の左側に乗っているのが真実の羽、右側に乗っているのが死者の心臓を入れた壺。心臓が真実の羽より軽いと不合格だと資料集には書いてありますが、実はどう為ったら合格なのか判って居ません。
 残された絵は皆真実の羽と心臓の壺が釣り合っているのです。マア、兎に角、この秤の検査に合格すると、この世に再生出来る。


 


  

 再生するには身体が無いと困るね。そこで死後、肉体を保存するのに情熱を持つ。これがミイラですね。ミイラを作る時も松竹梅とランクがある。
 ミイラの作り方・・・先ず、特別な石器のナイフでお腹を切って内臓を取り出す。この内臓は壺に詰めて取って置くんです。内臓を取った後のお腹には詰め物をします。松コースは柔らかい香草で詰める。梅コースは固い枯れ草とか詰めるので死体が乾燥して縮んで来ると、お腹の皮を突き破って枯れ草がプシュプシュ出て来る。こんな体で再生してもねえ。
 ミイラが腐ら無い様に脳味噌も取り出す。長ーいスプーンを鼻の穴からズンと突っ込んで、掻き出すんです。掻き出した脳味噌はそのまま地面にブチマケテ捨てちゃう。内臓とは大分扱いが違うね。心は心臓にあると思ったのですね。このエジプトの死生観は、後のユダヤ教、キリスト教の「最後の審判」に影響を与えたと言われています。


 古代エジプト史の流れ


 サテ、古代エジプト史の流れを見てみましょう。大きく三つの時代に分けられます。これを先ず覚えてください。

 古王国 (前2700〜前2200年頃) 
 中王国 (前2100〜前1700年頃)
 新王国 (前1600〜前1100年頃)

 簡単でしょ。夫々の間の期間は中間期と言って、エジプトが一つにまとまっていなかった時期です。


 



  
 古王国の都はメンフィス。エジプトの下流地域を下エジプトと言いますが、ここに都が置かれた。古王国はピラミッドが造られた時代と覚えて置きましょう。
 最大のクフ王のピラミッドを初め、全てこの時代のものです。古王国で覚えるのはそれだけ。ピラミッドは皆知ってると思いますが、案外何なのか判っていない。エジプトの王のことをファラオと言いますが、そのファラオの墓だと一般には考えられているけれど、墓じゃ無いと云う学者も沢山いる。墓室があるし、棺桶まである、何で墓じゃないのか。実は今まであらゆるピラミッドから一つもミイラが発見されたことが無いんです。

 墓泥棒は昔からいてピラミッドにも侵入して居るんだけど、財宝は盗んでもミイラまで盗ま無いだろうから、墓だとするとヤッパリ変な訳。しかし、墓では無いのなら何故棺桶があるのかと言われるとこれも説明出来ない。困りますね。一人のファラオが複数のピラミッドを建設した例もあると云うから、我々が考える墓では無かったんだと思います。
 ジャア、何かと云うと廟、神殿みたいなものらしい。日光の東照宮は家康を祀っているけど、墓では無い。そんなモノなんでしょう。


 


  

 クフ王のピラミッドの内部にはマダマダ発見されていない秘密の部屋があるらしい。世界に誇る文化遺産だからエジプト政府はピラミッドを傷つける様な調査は許さ無い。だから、早稲田大の吉村先生は音波の測定器使って調査してましたね。ヤッパリ何かあるらしい。この辺は最後の歴史ロマンだからモヤモヤしている方が楽しいね。

 ピラミッドは多くの奴隷が鞭(むち)打たれながら造ったと私の子供の頃は書いてありましたが、これも違うらしい。ピラミッドを造った働き手は普通のエジプトの農民達です。しかも、嫌々造らされたのでも無いのです。
 1年の半分はナイルの増水で農地は水没して居て農民は暇でしかたない。その時期にファラオが農民を集めて働かせた。重労働だったには違いありませんが、チャンと働けば小麦とビールが配られた。今で云う失業対策みたいなものだね。


 




 次の中王国はナイルの上流、上エジプトのテーベが都。それだけでお仕舞。中王国はエジプト初の外来民族の侵入によって衰退しました。侵入したのが混成民族集団ヒクソス。これがアジア方面から侵入した。ヒクソスの侵入で馬と戦車が初めてエジプトにもたらされました。それまでのエジプトには馬が居なかった訳だから、どれだけ孤立した世界だったか判りますね。
 この時代は未だ馬に乗って戦えません。馬に乗って戦う為には、鞍とアブミが必要ですが未だ発明されていないのです。馬は戦車を牽かせる為に使います。戦車と言っても只の馬車みたいなものです。御者が一人、そして弓を持つ兵士が一人乗って敵を射ったのだと思います。エジプト兵は皆歩兵ですから、圧倒的に機動力で優れていたのです。

 
 その馬と戦車にエジプトは征服されますが、やがてエジプトはこの新戦法を自分のものにしてヒクソスを追い出した。出来たのが新王国
 新王国の都はテーベ。この時代のエジプトは馬と戦車で強国となり領土を広げました。シナイ半島を超えて地中海西岸に進出します。シリア・パレスチナ方面です。

 新王国の成立の少し前に、ハンムラビ国王で有名な例の古バビロニア王国が滅びて居て、この時期メソポタミア地方中南部はカッシート王国・北部にミタンニ王国・小アジア地方にはヒッタイト王国と云う強国があった。新王国エジプトはこれ等の国々と抗争を繰り返します。
 そしてトトメス3世(前1504ころ〜前1450年ころ)の時にエジプトの領土は史上最大に為る。このファラオは覚えて置くこと。


 




 エジプト2へつづく


 




 2019 04 19


   



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