2018年07月30日
アジアとイスラム社会・・・その後
ティムール帝国とイスラム文化
モンゴル帝国とティムール帝国
カリフの宗教的権威で何とか続いて居たアッバース朝が1258年にフラグの率いるモンゴル軍に滅ぼされた。モンゴル軍はアフリカ大陸迄は行け無かったけれども、ほぼアジア全域を支配下に置いた。フラグはイラン・イラク方面にイル=ハン国(1260〜1353)を建てました。
モンゴル人はこの地域を支配する為に土着勢力と協力せざるを得無い。13世紀末に即位した第七代ガザン=ハンの時にイスラムに改宗して居ます。モンゴルの時にも話しましたが、この王の時の大臣が有名なラシード=アッディーン。
セルジューク朝の名大臣ニザーム=アルムルクを手本にして、イラン人に馴染み易い様にモンゴルの行政を改めたのと『集史』と云うモンゴル史を軸にした歴史の本を書いたので有名。
中央アジアに作られたチャガタイ=ハン国も14世紀にはイスラム化して行きました。イル=ハン国もチャガタイ=ハン国も14世紀には衰退して在地勢力が各地で自立し始めます。再びこの地域を統一しイラクから中央アジアに跨る大帝国と為ったのがティムール帝国(1370〜1500)です。
建国者はティムール(?〜1405)。この人はチャガタイ=ハン国の武将でしたが、ヤガて自立してサマルカンドを都に大帝国を建設した。日本では余り馴染みが無いけれど、中央アジアのトルコ民族の間では今でも人気のある英雄の一人です。
簡単に言えばチンギス=ハーンの再来みたいな男で、残忍な事も平気で遣りながら勢力を拡大した。只、チンギス=ハーンよりも陽気で明るいイメージで伝えられて居ます。チンギス=ハーンが信長ならティムールは秀吉ですネ。
瞼が異様に分厚く垂れ下がって居て、釣り上げ無いと前が見え無かったとか片足が萎えて居て歩行が困難だったとか、何処迄本当かは判りませんが彼の「異人」振りも伝えられて居ます。ティムールはチンギス=ハーンの血を引いて居ると自称して居ます。多少はチンギス=ハーンの血が流れて居たかも知れ無い。
だから、ティムールはバラバラに分解してしまったモンゴル帝国を復活させるのだと考えて居るのですね。積極的な領土拡大の原動力は此処に在る。
但し、ティムールの民族を敢えて言えば、モンゴル人と云うよりはトルコ人です。この時代のモンゴル人とトルコ人の違いと云うのも曖昧なものなのですが、中央アジアに進出したモンゴル人達は混血に依って事実上はトルコ民族化して居ると考えて置いて下さい。
ティムールはイル=ハン国とチャガタイ=ハン国の領域をほぼ統一した後に小アジアに進みます。丁度、ここにはオスマン朝と云うトルコ系のイスラムの王朝が力を伸ばしつつ在りました。
このオスマン朝とティムール朝が激突したのがアンカラの戦い(1402)。ティムールが勝ってオスマン朝は大打撃を受け一時は滅亡寸前に迄為ります。但し、オスマン朝はこの後復活してやがて古代ローマ帝国にも劣ら無い様な大帝国を作り上げて、最終的には20世紀迄存続する王朝に為ります。覚えて置いて下さい。アンカラの戦いはイスラム東西両雄の決戦と言った処です。
この後ティムールは軍を東方に向けます。実はこの間に中国では元が滅んで明と云う漢民族の王朝が生まれて居ます。ティムールはモンゴル帝国の復活を目指して居ますから、中国遠征・明の討伐を計画した。アンカラの戦いの2年後の1404年1月 20万の大軍を率いてサマルカンドを出発した。
「チムールは…武器、兵糧を運ぶ為に騎兵一人に付いて夫々10人ずつの輸卒を着けさせた。穀物数千荷は軍用車で運ばれたが、これは道すがら種子を撒いて帰路の兵糧に供する為であった。尚、更に7年間を支えるに足る乾草飼料を用意し、その他各人が乳牛二頭・乳羊10頭ずつを携えて、途中の食糧の欠乏に備える事にした」(中央公論社、『世界の歴史9』)と云うから凄い作戦です。
これが最後迄実行されて居たら中国の歴史は全く変わったものに為ったかも知れ無いのですが、この遠征は途中で中止に為った。ティムール自身が死んでしまったのです。最後迄スケールの大きな英雄児でした。ティムール帝国はティムールの死後徐々に衰えて、ヤガて幾つかの地方政権に分裂して行きました。
イスラムの学問・文化
イスラム世界では地域や民族を越えて同一の学問文化が広がります。イスラムでは学問を「外来の学問」と「固有の学問」に分けて居ます。
「外来の学問」はイスラム教と直接関係の無い他民族の学問の事を言います。具体的にはヘレニズム文化・ペルシア文化・インドの学問等です。イスラム世界はこれをアラビア語に翻訳して独自に発展させて行きます。
特にインドから影響を受けた数学は我々にもお馴染みですね。数学で使っている数字、これはアラビア数字と云うのですよ。インドからゼロと云う概念を導入したのは数学の発展に計り知れ無い功績です。漢字でもローマ字でもゼロと云う数字は無い。
例えば230と云うのを漢字で書くと二百三十と云うのが伝統的な書法です。百が二つと十が三つあると云う発想ですね。ローマ数字も同じ発想で一の位がどれだけ在るかに付いては触れ無い。一度遣ってみたら判りますが、漢数字だけで計算するのは凄く困難です、アラビア数字の有難味が判ります。
医学・哲学も外来の学問として発展します。特に医学は同時代のヨーロッパと比べて格段に進んで居た。と言うかヨーロッパの水準が低過ぎるのですが。代表的な学者がイブン=シーナー(980〜1037)。この人が書いた医学書が『医学典範』。イスラム世界最高の医学書で、ヨーロッパでも17世紀迄は医科大学の教科書に採用されて居たと言います。又、アリストテレス哲学者としても抜きん出て居て、何やら難しい存在論に付いて考えて居た。
イブン=ルシュド(1126〜98)この人も医学の本を書き、又、アリストテレス哲学を再現しようとした。殆ど全てのアリストテレスの本に注釈をつけたので有名。彼の学問はヨーロッパ中世の学問に大きな影響を与えた。
「固有の学問」と云うのはイスラム法学です。
イスラム世界では、社会生活の全てがコーランを基礎にして組み立てらて居るけれど、現実の社会の色々な出来事をコーラン一冊では判断出来無い訳です。だから、コーランをどう現実社会に当て嵌めるかと云う理論が必要に為る。そう云う理論をイスラム法学と云う。
これを教える学校をマドラサ、イスラム法学を修めた知識人の事をウラマーと言い、現在でもウラマーはイスラム世界では社会の指導者・地域の相談役みたいな位置に在ります。イスラム世界で一見お坊さんみたいに見える人がウラマーです。スンナ派・シーア派夫々に法学理論が発展して行きました。
固有の学問として教科書に出て来るのがイブン=ハルドゥーン(1332〜1406)の『世界史序説』。文明の進んだ都市と遅れた砂漠の様な田舎との緊張関係から歴史の理論を考えた本です。
もう一つがイブン=バトゥータ(1304〜68?)の『三大陸周遊記』。モロッコ生まれのこの人は、巡礼でメッカに行った序にインドからスマトラ・中国の北京迄旅行をする。丁度モンゴル帝国の時代なのですね。帰ってから今度はイベリア半島に渡り、その次はサハラ砂漠を越えてニジェール川を探検して居るその旅行記です。
何年も旅をして収入はどう為って居るのかと思うと、彼は法学者・ウラマーなのですね。で、旅行先で先生として迎えられて教えて居る。地方の君主の招待を受けたりしながら旅をする。実に気軽に成り行に任せて何処でも行ってしまう。
面白い事にイブン=バトゥータがアジアからエジプトに帰って来た時に、北京で知り合った人の兄弟と偶然出会って居る。これは、イブン=バトゥータだけで無くイスラム教の人々が実に活発に移動して居る事の一例ですね。
イスラム教には神秘主義と云うものがある。11世紀頃から流行し出した。正統的なイスラムでは満足出来無い人達の間から生まれて来たものです。ムハンマドが最後の預言者とすれば二度と神が人間に話し掛けて呉れる事は無い訳ですね。残された人類に出来る事は法学者の様にコーランを解釈する事だけです。
「これでは詰まらん!神を実感したい」と云う修行者が現れて来る。こう云う修行者をスーフィーと言います。スーフィーは色々な難行苦行をして自分の内面に神を感じ様とするのです。例えば、トルコの「踊る教団」・・・この人達はこうしてクルクル回転するのが修行。目が回ってクラクラするその時に神を感じるんでしょうね。他にも色々な教団があるそうです。
イスラム教がアラブ人以外の民族に広まって行ったのにはスーフィー教団の活動が大きかったと言われて居ます。修行する姿と云うのは共感を呼び易いのですね。この神秘主義を理論化した人がガザーリー(1058〜1111)です。
セルジューク朝の宰相ニザーム=アルムルクに認められ、スンナ派の最高の学者としてバグダードのニザーミア学院で教授をして居たのですが、37歳の時に教授の地位も家族も友人も財産も全てを捨てて修行者として放浪の旅に出た。理論では無く自分自身の内面に神を感じたいと思い詰めたらしいです。
文学では『アラビアン・ナイト』『千夜一夜物語』と云う名前でも有名ですね。16世紀初め頃に現在の形に纏まった。この中に「アリババと40人の盗賊」とか「シンドバットの冒険」とか色々な話が入って居ます。イスラム商人達が活躍した地域の話が取り込まれて居るので中国やインドの話等も出てきます。
子供向けにアレンジされたシンドバットやアラジンと魔法のランプの話等は、知って居る人も居ると思うけれど、子供向けに直して居ないのを読んだ事ある人いますか?凄いよ。この『アラビアン・ナイト』はまるでポルノです。私は高校時代に何気無く岩波文庫で読んで吃驚しました。滅茶苦茶スケベな物語なんです。
教室で細かく紹介する事は出来ませんが、兎に角どの話にも男と女が出て来て必ずそう云うシーンがある。ウンザリする位です。今はどうか知りませんが、10年位前はエジプトでは発行禁止でした。
昔、外国で『アラビアン・ナイト』を映画化した事があって私も当然勉強の為に見に行きました。そうしたら、案の定、映倫に厳しくチェックされてボカシだらけの画面でした。映画は色々な話がバラバラのオムニバス形式でしたが『アラビアン・ナイト』全体の話はこんな形です。
・・・最初にイスラムの王様が出て来ます。この王様、妃を愛して居るのですが、弟に妃が浮気をして居る事を教えられます。本当かどうか確かめる為に王様或る日、妃に外出を告げてコッソリ帰って来て、妃の振る舞いを見張って居た。そうしたら、妃は男奴隷や女奴隷を集めて乱交に及ぶんだ。王様、カッと為って妃も奴隷も皆殺してしまった。
以後、王様は女性不信に陥る。アンナに愛して居た妃が不貞を働いたと云う訳で全ての女性に復讐を図る。どうするかと云うと、毎晩自分の国の乙女を一人ずつ宮殿に呼んで一夜の供をさせた後殺して行くのです。女の子を宮殿に連れて来るのは大臣の役目なんですが、王様が毎晩女の子を殺してしまうので、国にはもう乙女が居なく為ってしまった。
最後に残ったのは自分の娘なんですが、仕方が無い。到頭、自分の娘を王の元に届ける事に為った。この娘の名がシェーラザードと言います。
王は何時のもの様に彼女と寝た後殺そうとするのですが、その時シェーラザードが「王様、私面白いお話をしましょう」と話を始める。彼女も殺されたくありませんから必死です。王もどうせ暇ですから殺すのは後回しにして話をさせてみるとこれが面白い。
熱中して聞いて居る内に夜明けが来る。そうするとシェーラザードは話をウンと盛り上げて置いて「この続きは、次の夜にしましょ」と言うんだね。王様、話の続きを聞きたい為に殺すのを延期します。
こんな風にして、シェーラザードは毎晩毎晩死な無い為に話を続け、王は話を聞きたい為に殺すのを先延ばしにします。結局シェーラザードは1000夜話を続け、話が終わった時には王様は心を入れ替えて女性に復讐するのを辞めましたとさ、と云う結末です。このシェーラザードの話の中にシンドバッドやアラジンやアリババが出て来るのです。
話の舞台はアッバース朝のカリフ、ハールーン=アッラシ−ド時代のバグダードが多いです。この時代がイスラムの栄光の時代と云う認識があるのでしょう。話の中でランプの魔人とか指輪の魔人とか出て来て願い事を叶えて呉れたりするでしょ。
欲しいものは何でも手に入る。イスラム世界の中心、世界中から商人達が運び込んだ商品がある。そう云うバグダードを象徴して居る様な気もしますね。
それから詩です。ウマル=ハイヤーム(1048〜1131)だけ覚えて置けば好いです。作品名は『ルバイヤート』。この人はセルジューク朝に仕えて居て、詩だけでは無く科学者としても有名です。「ジャラーリー暦」と云う正確な暦を残して居る。
実は詩は、イスラム世界では有名では無いらしい。19世紀にイギリスのE.フィッツジェラルドと云う人が英語に翻訳して、この翻訳が素晴らしかったらしく世界的に有名に為りました。原語で為らばこの程度の詩人は沢山居ると云う事です。
建築の特徴としては特にモスクの建築様式なのですが、ドームと塔が特徴です。塔はミナレットと言います。ドームの周囲に四本立って居るのがミナレット。それから建築物の壁等を飾る文様をアラベスクと言います。クニャクニャした幾何学紋様です。
イスラムでは偶像崇拝の否定から人の姿を描きませんから、こう云う複雑な幾何学紋様が発達しました。絵画はミニアチュールと呼ばれる細密画が有名です。これは受験知識として覚えて置けば好い。
以上
素敵な「自転車と家庭水族館」管理人より
参照させて頂きました、誠に有難うございます。この先生のお話は実に面白いですネ。次から次ぎと興味ある話題を持ち出して読む人を飽きさせません。深く広く勉強されて居ると想像される程に話題が尽きません。如何に勉強されているのか・・・こんな先生に教えられたら全員が歴史好きに為ってしまうでしょう。
何となく女の先生の様な繊細で緻密で感受性の豊かさが感じられます。この様な先生に世界史を教えて欲しかった・・・誠に残念です・・・世界史講義録より引用させて頂きました。
別の資料から・・・
ティムール像(サマルカンド)
1321年 チャガタイ・ハン国は相続争いで東西に分裂し各地に豪族が乱立した。ティムールは1336年にモンゴル貴族の家に生まれた。彼は指導者としての優れた能力を発揮し、部下の数を増やして次第に有力者にのし上がっていった。1370年 西チャガタイ・ハン国を統一しティムール帝国を築いた。首都はサマルカンド。
ティムールはチンギス・ハンの築いた世界帝国の再現を夢見て外征を繰り返した。ティムールは軍事的な天才で戦いには一度も負けたことが無かった。ティムールは戦場で片足を負傷し、欧米ではタメルラン(Tamerlane:跛行のティムール)と云う仇名で呼ばれている。
ティムールは建国直後から、西チャガタイ・ハン国、ホラズム等の周辺諸国に進出し支配下に治めた。1378年にはキプチャク・ハン国を攻め都サライを破壊した。次に、分裂状態にあったイルハン国に進出し、アフガニスタン・イラン・イラク・アルメニア・グルジアを支配下に置いた。更に北上してカフカスを越えルーシ諸国(ロシア)に侵入した。
1396年にはインドに遠征し、デリー・スルタン朝の都デリーを占領し略奪した。翌年にはアゼルバイジャンを統治していた三男が反乱を起こした為遠征しグルジアにも侵攻した。更に、マルムーク朝からシリアを奪いダマスカスを占領、続いてイラクにも進出しバグダードに入城した。
ティムール帝国
バヤズィト1世のもとへ訪れるティムール
1402年には中央アナトリアに進出し、バヤズィト1世率いる12万のオスマン軍をアンカラの戦いで破りバヤズィト1世を捕虜にした。オスマントルコは壊滅的な打撃を受け、オスマン軍に包囲されて居たビザンツ帝国は窮地を脱する事が出来た。
これ等の一連の遠征で、チムールはモンゴル帝国の西半分の領土を手中に収めた。そして、オスマン朝やマムルーク朝はティムールに服属した。オスマン帝国を破ったことで西の脅威が無くなり中国遠征の準備にとり掛かった。
1404年 ティムールはモンゴルの元を滅ぼした明を討伐する為、20万の遠征軍を率いて出陣した。しかし、遠征途中で病に倒れ1405年にウズベキスタンのオトラルで病没した。69歳だった。
チャハル・ミナール(ブハラ)
ティムールの死後暫くして後継者争いの為国は分裂、1500年頃ウズベク人勢力にサマルカンドを占領され140年続いたティムール朝は滅亡した。
ティムールの子孫バーブルはインドのデリーに逃れ、1526年にムガル帝国を建国する。又、イランではシーア派のサファヴィー朝が、又ブハラを中心に シャイバーン朝(ブハラ・ハン国)が興り互いに抗争を繰り返した。
やがて大航海時代が到来し、シルクロードは寂れて行った。又、戦いに火器や巨砲が使われ始め騎馬遊牧民族の軍事的優位性は失われた。その後二度と中央アジアに大帝国が建設されることは無く、ロシアと清の二大強国が侵略して来た。
グリ・アミール廟 出典:ハシムの世界史への旅
ティムールはサマルカンドのグリ・アミール廟(アミールの墓)に眠っている。その棺の裏には「私がこの墓から出た時、大きな災いが起こる」と刻印されていた。1941年 ソ連の調査団が開封しティムールの脚の障害等を確認した。
その3日後、バルバロッサ作戦(第二次世界大戦のドイツのソ連侵攻)が実行された。これに恐怖を感じたソ連は棺を鉛で溶接した。これ以後この棺は開封されていない・・・
以上
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暑さを忘れる海中水族館を・・・ 59
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