新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2016年10月18日
ノンスタイルの井上裕介・・・先天性二尖弁発覚も「ぼくは元気です」と心境報告
お笑いコンビNON STYLEの井上裕介が18日、ツイッターを更新し、17日放送のテレビ東京系「主治医が見つかる診療所」で、自身の心臓が「先天性二尖弁」であることが発覚したことを受け「僕は元気です」と、アピールした。
井上は、同番組で人間ドックのロケを行ったところ、「先天性二尖弁」であることを告げられ、心臓手術を勧められた。
ツイッターでは「初めて知った驚きもあり、戸惑いもありましたが、番組収録後すぐさま病院に行き検査をした結果、毎年ちゃんと検査をしていくということで、何かあっても対処出来るし、今すぐどうこうするではないと言われました」と、病院を受診したことを報告。
さらに「心配をかけた方もたくさん居ると思いますが」「今のところ僕は元気ですし病院の先生にも生活する上で何の問題もないといってもらっています」とつぶやき、今後も定期的に検査を受けることを約束した。
「先天性二尖弁」とは、本来3枚あるはずの大動脈弁が2枚しかないというもの。
本来3枚の弁で開閉して、血液を一方方向へ送る役目をするが、2枚しかないため、長期的には弁が壊れやすくなる。
過去、歌手の武田鉄矢も同じ疾患から大動脈弁狭窄症となり、2011年に手術を受けている。
2016年10月16日
義足でランウェイを歩く「バリコレ」の誕生・・・その秘密とは?
リオデジャネイロパラリンピックの閉会式セレモニーには、様々な障害のある人たち、義足のファッションモデルやダンサーがいた。その義足をファッションのひとつとして表現し、障害者がみずからモデルとなるショーがある。
義肢装具士の臼井二美男さんの著書「転んでも、大丈夫 ぼくが義足を作る理由」(ポプラ社)で構成を担当したライターの高樹ミナさんが、バリアフリーなファッションショーが生まれ、広がったこれまでを振り返る。
10月10日・体育の日に東京都港区の六本木ヒルズで異色のイベントが開かれた。その名も「バリコレ2016」。パリコレならぬバリコレとは、障害者をモデルに起用したバリアフリーコレクションの略称だ。
NHK Eテレで2012年にスタートした障害者の情報バラエティー番組「バリバラ」から派生したもので、身体、視覚、知的障害者や発達障害の子どもたち、LGBTに代表されるセクシャルマイノリティーなど、現代社会で“生きづらさ”を抱える人々がモデルを務める。
その中には記憶に新しいリオデジャネイロパラリンピックの日本代表選手や過去のパラリンピックのメダリスト、2020年東京大会期待の若手選手らの姿も。障害をあえて前面に押し出した個性あふれる衣装を着た総勢50人が堂々のランウェイで会場を沸かせた。
◆スポーツ義足で知られる義肢装具士の発想がもとに
一見、突拍子もないこの企画は、もとをたどれば一人の義肢装具士の発想に行き着く。彼の名は臼井二美男(60)。日本におけるスポーツ義足づくりの第一人者だ。
義肢装具士として33年のキャリアを持つ臼井さんは、病気や事故で足を失った人の義足を作り続ける中で、ユーザーの希望を叶える数々の義足を考案してきた。
例えば、好みの絵柄にできる義足や走れる義足、ミニスカートやハイヒールが履けるリアルコスメチック義足や妊婦も履けるマタニティー義足などがそう。
いずれも障害があってもおしゃれを楽しみたい、好きなスポーツを続けたい、お腹が大きくなっても人の手を借りずに生活したいという、ポジティブな女性たちの思いを大切にするためだ。
「足をなくして生きる希望を失った人の多くが、一度は死にたいと言います。そんな患者さんたちが何とか立ち上がるきっかけを義肢装具士として作ってあげたい。
一番いいのは自分を表現できる場所があること。それはスポーツでも芸術でも、ファッションでもいいのです」
そう話す臼井さんの周りには、義足をあえて露出することで、「障害は隠すもの」という世の中の偏見を打ち破りたいという女性が何人かいた。
そんな勇気ある彼女たちの思いを形にすべく、臼井さんは2000年シドニーパラリンピックから障害者スポーツを撮り続けている写真家の越智貴雄さんに、義足の女性をモデルにした写真を撮らないかと持ちかけた。
◆衝撃の写真集がファッションショーへ発展
臼井さんに共感した越智さんは2013年、OLやアーティスト、アスリートら義足の女性たちにフォーカスした撮影プロジェクトを開始。
手始めに写真展を開くと国内外で話題となり、翌年5月には『切断ヴィーナス』というセンセーショナルな写真集の発行にもこぎつけた。モデルの中にはリオデジャネイロパラリンピックの閉会式に出演した日本初のアンピュティー(四肢切断者)モデルのGIMICOさんもいる。
「臼井さんの義足じゃなかったら、モデルをやろうとは思わなかった」とGIMICOさん。それほど臼井さんの作る義足は障害者に生きる希望を与えている。
『切断ヴィーナス』発行の翌年、繊維業が盛んな石川県中能登町から声がかかり、夏祭りの華やかな舞台に11人の義足の女性たちが立った。これが、このほど六本木で行われたバリコレの原型だ。
「こんなファッションショー、世界中を見わたしてもないよね。どのモデルさんもかっこよかったし、観客の皆さんも大歓迎してくれた。切断ヴィーナスから始まったプロジェクトが義足の人だけでなく、いろいろな障害を抱えた人たちに伝染していったのもいい現象だと思う」
障害があっても臆せず社会に出ていけるようにという機運は近年、高まりを見せている。バリアフリーファッションショーのような事例は、障害者と健常者が同じ目的を共有し団結することで、自然と障害の壁を取り払える良い例だ。
「心のバリアフリー」とも呼ばれる多様性を認め合う社会の実現は、こうした環境をいかに作り出せるかにかかっていると言えるだろう。
2016年10月15日
敏感肌化粧品専門店【ディセンシア】から『アヤナス』 トライアルセットのご紹介
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
敏感肌 × エイジングケアの最前線!
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ポーラ・オルビスグループの敏感肌専門ブランド「ディセンシア」から、大ヒット・敏感肌用エイジングケアシリーズ「ayanasu(アヤナス)」のご紹介です。
2016年秋 、パワーアップして新登場。
“攻める”敏感肌化粧品として、より深く肌へと働きかけ、輝きをもたらします。
==================================================
・シワ、たるみ、ほうれい線が気になる・・・
・残業や睡眠不足でストレスがたまり、化粧ノリも悪い・・・
・肌のかゆみ、ヒリヒリをなんとかしたい・・・
・最近、肌の乾燥が気になる・・・
・女性なら“あるある!”と思う肌のお悩み・・・
ポーラ研究所の確かな技術力によって
生み出された「ayanasu」にて徹底対応!
【1】 安心・安全がカギ!敏感肌ケアの基本
特許技術『ヴァイタサイクルヴェール』により、外部刺激をブロックし、徹底保湿することで、肌のバリア機能をUP
【2】敏感肌は11才老けて見える!? エイジングケアも欠かせない!
コラーゲン産生量を170%アップするポーラ研究所オリジナル成分配合!ハリ・弾力のある肌へと導きます。
【3】新知見★「ストレスによる肌荒れ」に徹底対応。
ポーラ研究所の高い技術力、独自成分により、ダメージに負けない、肌荒れのないエイジレスな肌へ導きます。
30代〜40代の敏感肌女性の方へ・・・。
安全性、つけ心地、香り、パッケージなど、細部までこだわりぬいた一品ですので、
仕事に子育てに、忙しく働く現代女性に自信を持ってオススメいたします。
敏感×エイジングケア decencia
2016年10月13日
栃木県鹿沼市で、毎年実施されている『鹿沼ぶっつけ秋祭り』に行ってきました!!
先日の土日に、地元の鹿沼市で『ぶっつけ秋祭り』が開催されたので、その由来について書いてみよう!
秋祭りは正式には、市内にある今宮神社の例大祭である。
戦国の世が続き、一時荒廃していた鹿沼宿は、慶長13年(1608年)3月、今宮神社の再建を期に復興が始まりました。
この年は日照りが続き大旱魃の気候となりましたので、氏子や近郷の人々が今宮神社に集まり雨乞いの祭りを三日三晩続けたところ、霊験あらたかに激しい雷雨がおこりました。
この霊験を敬い雨のあがった6月19日(旧暦)を宵祭り、翌20日を例祭とすることになったのが、今宮の祭りの始まりと伝承されているのである。
付け祭りの内容は、最初は簡単な「踊り屋台」で各町内が踊りと狂言を競い合い奉納したものである。
その後、文政の改革(1827年)天保の改革(1841年)にて、華美な風俗が禁止されると、各町内は競って屋台を全面彫刻で飾るようになってきたのである。
江戸末期には、今宮付け祭りの主流は彫刻屋台に移行し、祭りの見せ場は今宮神社への屋台の繰り込みと繰り出しとなりました。
神輿巡幸は、明治15年(1882年)に旧来の諸行事執行を時世に合わせて手直しを加え、今宮祭議定書を制定し現在の形が出来上がりました。
鹿沼の庶民階級の素晴らしいエネルギーを現在に伝え、古習を伝承した最高の祭りと言えるであろう。
この行事は華麗な彫刻を施した囃し屋台が巡行するもので、風流の屋台行事の一つの展開型を示しており、全国的な比較の観点からも貴重な行事であるとして、平成15年2月20日に国の重要無形民族文化財に指定されているのである。
現在の今宮神社氏子町内には27台の屋台があり、そのうち13台は江戸時代に造られた彫刻屋台である。
構造は単層館型で四つ車、屋根は唐破風つき。彫り物は、富田宿(大平町)の彫師集団の磯辺氏らの手によるもので、日光五重の塔(再建)の彫物方棟梁をつとめた後藤正秀のような名工もいたのである。
白木造りのものと黒漆塗彩色のものに分けられ、現在の形をとるようになったのは19世紀初めごろと思われるのである。
明治以降も屋台は造られ、木工の街鹿沼のシンボルとして、屋台と祭りはこれからも発展していくことであろう。
(以上、秋祭りパンフレットより抜粋して書き込みました)