2017年02月23日
フレデリク・セペダ ロング・インタビュー WBC四大会の男
CIBERCUBA、2017年2月23日、Julita Osendi記者
もう何年も前のことなのだが、まるできのうのことのように思える。それは1994年にブラジル南部の美しい地域、マリンガで開催された13-14歳のパンアメリカン野球大会を見に行ったときのことだ。
そのチームは勝たなかったけれども、その迫力、その質、その勝とうとする意欲が強い印象を残した。彼らのなかに、愛嬌のある表情の、とてもしっかりした三塁手がいた。
彼は左右両方の打席で打っており(我が国の野球では未完のテーマだ)、すべてミートしていて、とてもタイムリーな打撃をみせていた。彼の名前? フレデリク・セペダ、WBC四大会の男。
「私は1980年4月8日に生まれた。4歳のときに父に連れられて小さな野球場に行った。マキシモ・ゴメスという野球場だ。そこで私の最初の一歩が始まった。父、パブロ・フランシスコ・セペダは私の最初のコーチだった。野球のグラウンドでやるべきことをすべて私に教えた。それはもちろん私がキャリアを積んでいく上で役に立った。」
「その場所で父といたのは11歳のときまで、つまり1991年までだ。そこから私はリノ・サラバリーアというスポーツ・イニシエーション学校(EIDE)にあがった。1997年には全国ESPAに行った。そこは国内リーグやキューバ代表チームに参加するようなすぐれた選手がみな集まってくるところだ。」
フレデリクは幼いころから、各カテゴリのキューバ代表に選ばれるために必要なレベルを兼ね備えていた。日本で開催された少年野球世界大会(WCBF)でデビューし、1994年にはマリンガでのパンアメリカン大会、そのあと米国サン・ルイスでは15-16歳の大陸大会に参加した。青少年時代には1996年ブラジルでのパンアメリカン大会王者チームに参加し、1997年にはカナダの世界大会にも出場した。
「まさにその年に私は国内シリーズでデビューした。私の最初の監督アベラルド・トリアーナは父の職場の同僚で、二人は数年前から友人だった。セリエ・ナシオナルのレベルはほかとは違う。よい結果を出すために適応する時間がかかるが、必死に取り組んで、それを成し遂げた。これまで19年プレーし、4つの他リーグも経験した。2002年にオルギンとリーグ制覇を争ったあの素晴らしいサンクティ・スピリトゥスのチームにいれたことは私の誇りだ。」
「みなと同じく私も浮き沈みを経験したし、素晴らしい選手権の素敵な思い出もある。野球をプレーできることは本当に素晴らしいことだ。毎日私を奮い立たせてくれる。もちろん悪い時期もあった。あの歴史的プレーオフの満塁の場面で、オルギンの左腕オスカル・ヒルに三振を奪われ優勝を逃したことについて君はどう思う?」
「もうひとつ難しいことがある。まだこれからやってくる引退のときだ。それを考えるとなにかが内側から引き剥がされるような思いがする。だから負傷にもかかわらず、現役を維持するよう戦ったんだ。フランク・パイス整形外科病院の医師のリバンとリゴ、ロドリゴ・アルバレス・カンブラス教授、看護師や専門家たちにとても感謝しなければならない。彼らが私に生きる力を取り戻し、私自身四回目のWBCに向けてキューバ代表に加入できるよう後押ししてくれた。」
フレデリク・セペダは、アテネ五輪王者、プレミア12の準優勝メンバー、パンアメリカン選手権や中米選手権の覇者、世界選手権の複数回王者でもあるが、国内リーグでは一度も優勝できていない。
豪華なメンバーがサンクティ・スピリトゥスに合流してきた。ユリエスキとユニエスキのグリエル兄弟、エリエル・サンチェス、ロスバニ・アラゴン、マエルス・ロドリゲス、イフレイディ・コスたちだ。しかしそれでも優勝はできなかった。「10年間、すぐれたメンバーたちがいた。しかし勝利を実現できなかった。なぜだろうか。いまだに自問している。われわれの心に引っかかっている問題だ。好機にそれができなかった。」
母親と息子、フリエタとフレデリクを前にした今回の対話だったが、あるひとつの質問がどうしても必要だった。WBCから戻ったら引退するのですか。
「しない。プレーし続けるつもりだ。野球は私の情熱だ。今回が私にとって最後のキューバ代表となるかどうかとは関係なく、体調が許す限り、私はプレーを続ける。これが最後のキューバ代表だとも思っていない。キューバ代表に選ばれ続けるよう私は戦う。」
各国の代表選手を集めた2006年の第一回WBC大会の開催後、この大会が世界の野球大会の頂点に位置するイベントになったのは間違いない。野球が五輪競技からはずされたあとは特にそれが顕著になった。(現在2020年の東京五輪では主催者の推薦が認められた)
「勝っているときはいつも満足が得られる。それが第一回のWBCだ。あれだけのスターたちが私たちと対等に争った。私のもっとも贅沢な経験のひとつだった。わが国キューバ全体が喜びで包まれた忘れがたい出来事だった。あの年、大きな野球熱のなかで、われわれは見事に成功した。一方で、五輪王者になったのも決して消し去れない功績だ。あの10年間はわれわれにとって驚異的だった。2006年、世界選手権、2004年のアテネ五輪。なんとも言い難い喜びの時期だった。」
「私に生きる力を与えてくれているこの野球をプレーするという機会は本当にありがたい。あらゆる困難さや障害にもかかわらず、プレーし成績をあげ続けることは、長年の犠牲への褒美だ。あることに全身全霊で打ち込む。目標を実現し、目的を達成するためには、自分の家族まで何度も犠牲にしなければならない。いずれにしても、素晴らしく、ありがたいことだ。」
また、仲良く連れ添っている団結した家族の援助があるのも素晴らしいことだ。パブロ・フランシスコとカリダ・グラディスを両親に持つセペダは2002年、ダマリスと結婚し、8歳の男の子フレデリク・ジュニアがいる。幸せな男だ。父から習ったように、セペダも息子に左右両打ちを教えている。「息子も私と同じく野球を愛しているようだ。もしすぐれた選手になったら、我々の喜びも格別だろうが」。ネコの子どもはネズミを捕まえるものだ。それは素敵な現実になりうる。
素晴らしいキャリア:スイッチヒッターであり、私にとって近年でもっとも優れたキューバ人打者(ここにはピト・アブレウ、ユリエスキ・グリエル、アルフレド・デスパイネ、ヨエニス・セスペデスを含む)であるセペダは、まだ達成していないひとつの夢を告白する。
「もし生まれ変わるなら、大リーグでプレーできるようになれたらと思う。私はキューバ代表チームでプレーすることを夢見て、それを何年も、かつすべてのカテゴリーで達成した。選手権で試合を決めることを夢見て、それをやった。五輪王者になることを夢見て、そうなった。でも、大リーグには出場できておらず、それに私は満足していない。私はいま36歳という年齢だが、いまだに14歳のときにマリンガに行ったときと同じように野球のプレーに飢えている。でももう大リーグを夢見ることさえできない。資格のあるすべての選手が、他国の選手が通常やっているのと同じように加入できるようになるべきだ。」
「だから私は思うんだが、すべてのわが国のスポーツ選手は、どこにいようとも、また何のスポーツであれ、キューバのためにプレーすることができるようになるべきだ、という意見に私は賛成する。彼らにとって、もう一度祖国の旗のもとで代表になることは、すばらしいことだと思う」
フレデリク・セペダがその夢を具体化できないのは残念なことだが、彼のような偉大な人物は、自身が我が国の国民やわが国の野球とともに十分に成し遂げてきたということをわかっているし、また私は確信しているが、彼はキューバ代表で争い続けることも見据えた上で、第四回WBCでは自己最良の成績を残すだろう。もしかしたら時の流れは、彼の小さな息子フレデリクが父親の夢を成し遂げるよう導くかもしれない。
さてどうなるだろうか。
Entrevista a Frederich Cepeda: “El Hombre de los Cuatro Clásicos”
https://www.cibercuba.com/noticias/2017-02-23-u172318-e42839-entrevista-frederic-cepeda-hombre-cuatro-clasicos
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