2019年08月26日
フィデルも思わず立ち上がった伝説の野球試合から50年 ドミニカ共和国での1969年ワールドシリーズ
(左から)大会首位打者の「カバイグアンのガージョ」オウェン・ブランディーノ、"クーロ"・ペレス、ビジャ・クララの外野手シルビオ・モンテホ、フィデル・カストロ最高司令官。ドミニカ共和国でのワールドシリーズからのキューバ代表チーム帰国時。
JIT、2019年8月26日、Rafael Pérez Valdés記者
まるで映画の脚本家によって編まれたような状況だった。しかしひじょうにリアルだった。野球の第17回ワールドシリーズ。1969年8月26日。キサケジャ球場。総当たり戦を無敗のまま勝ち進んだ米国とキューバが最終戦で対決する、という主催者の思惑通りと思える展開となった。
現地ドミニカ共和国の観衆は「ヤンキー・ゴーホーム」と叫んでいた(1965年に同国へ海兵隊などの軍隊が派遣されたことに対する拒否)。そしてひじょうに劇的な試合は8回を迎えた。彼らは・・・「勝っていた!」。
あの忘れがたき夜、この試合のラジオ中継に熱心に耳を傾けていた多くのキューバ人(何百万人だろうか?)の一人にフィデル・カストロ・ルスがいた。彼はファウルの数を数えてさえいた。そして、後述するように、彼が思わず立ち上がった瞬間があった。
彼が、自身も多く実践した野球や、その代表チームや、あるいはキューバのスポーツ界すべてに対し、つねに、長年気にかけていたことを考慮すれば、それ以外の状況はありえただろうか。
私はすべての読者に同意してもらおうとは思わない。あれはあらゆる世界大会の歴史上もっとも重要で劇的なキューバの試合であったかもしれない。
あれが意味していたこと、その背後にあったすべてのこと、をふまえて私はそのように提起する。なぜなら、キューバ革命勝利後のわが国の野球選手たちのすべての成功が、あの場面を通してこれまで語られてきてなかったからである。
疑わないでほしい。あの状況は本当に映画の脚本家によって編まれたかのようだった。そこに至る直近の経緯でさえ、安泰ではなかった。キューバは1967年ウィニペグでのパンアメリカン大会で米国に優勝を奪われた。キューバチームは予選ラウンドでは米国に2度も勝利しながら、そのあと追加の対戦がおこなわれ、1対2で敗北した。
さらにその1年後、五輪開催後のメキシコでおこなわれた大会で2度敗れた。確かにこれらの3試合では同点で8回を迎えていた。しかし...敗れた。
これらすべての状況が、フィデルをラジオに集中させたのだった。
非常に困難
1969年のキスケジャ球場でのあの忘れがたき夜に戻ってみよう。背番号22の左腕投手ラリー・オズボーンは試合をひじょうに支配していた。しっかり投げるだけでなく、打ってもいた(3打数2安打)。米国チームの得点は4回にはいった。こうして劇的な試合は、0対1で、8回を迎えた。
オズボーンは8回に3つのアウトをとれなかった。まずガスパル・"クーロ"・ペレス投手の適時打で同点に追いついた。ぺレスはこの試合キューバチーム3人目の投手だが、わが方の投手も打てるというところを見せており、それがベンチにいたすぐれた代打を起用しないという大胆な戦略に根拠を与えた。そしてその直後、二番打者で中堅手のリゴベルト・ロシケが、勝利を決めることになる勝ち越し打を放った。"クーロ"は、5回を投げ、打たれた安打はわずか2本で、8回裏も9回も、反撃を許さなかった。
打撃戦にはならなかった。これには投手陣の良さと、木製バットの使用が加えられる。そのことは数字が示している。キューバ(2得点、5安打、1失策)、米国(1得点、6安打、2失策)。キューバの安打は、"クーロ"とロシケのほかは、フェルミン・ラフィタ、ラサロ・ペレス、ロドルフォ・プエンテ(二塁打)によるものだった。
フィデルの告白
優勝チームの到着と、その後の空港でのセレモニーは、テレビで中継された。
飛行機が着陸したとき、フィデルは空港からおよそ15kmのところにいた。雨がとても強く降っていて、停滞を余儀なくされた。しかし最終的に着くことができた。
フィデルに質問があった。
- きのうの試合でもっとも感動した場面はどれでしたか。
(フィデル)そうだな、"クーロ"の安打の場面と言わせてほしい。間違いなく、2ストライクで、5回のファウルのあとだった。"ボビー"・サラマンカが.、ボールが投げられた、と実況したあと、クーロはそれをファウルで返し、そのあとまたファイルで粘った。
- あなたはカウントを数えていたんですか? (とそのとき、偉大なアニメーターのフェルマン・ピネリが尋ねた)
(フィデル)"カグアソ"が3つ...(笑)
*訳者注:カグアソcaguazoはボビー・サラマンカ独特の言い回しで、ファウルのこと。
そのとき、”クーロ"のライナーで試合は同点になった。間違いなく皆にとって偉大な瞬間だった。というのは初回からすでに緊張が続いていたからだ。8回になって、試合に負けている。相手投手はひじょうに効率よく投げていた。
そしてもちろん、そのあとロシケが外野右翼へ安打を放ったときも、もうひとつのクライマックスだった。さらに最後に、もうひとつの素晴らしい瞬間が、"クーロ"・ペレスによる2奪三振だった。クーロは自信満々に、まったく危なげなく、最終のストライクを奪った。観客の姿もとても感動的なものだった。ドミニカ共和国の人びとがキューバに送った声援。その期待が裏切られて終わっていたとしたら、彼らは大いに傷ついたことだろう。
フィデルは、ほかの質問に対して、この試合のときに自分がおこなっていたことについて告白した。
(フィデル)まず自分は椅子に座った。試合のラジオ中継に耳を傾けていた。それで8回には本当に私は立ち上がった(笑)。いてもたってもいられず立ち上がった。そのときは部屋を動き回っていた。そのあと9回になって座ろうとした。自分に言い聞かせたんだ。私は座らなければならない(笑)。それで座った。でもあの場面を聞いて私はまた立ち上がった。もう最後のアウトのときには立ったままだった...。
有名な野球アナウンサーのバック・カネルまでが、あの米国チームに勝つのはひじょうに難しいと言っていた。
その日、優勝チームを出迎えたとき、フィデルは左投手に対する我が国のチームの弱点を指摘し、意気揚々と歴史に残るフレーズを吐いた。
彼らは月を征服したが、アマチュア・ワールドシリーズを征服することはできなかった。
*訳者注:同年7月20日米国は人類初の月面着陸に成功したとされている。
"クーロ"
カメラの前に立った”クーロ"・ペレスに対し、あの打席に向かい、同点打を放ったときはどんな気持ちだったか、という質問があった。「うむ、私が感じていたのは、打つことへの期待。キューバ国民がラジオでこの様子を聞いていてくれることを知っていたから。安打を打って同点にしてくれという期待を感じていた」
- でも緊張などは何もなかった?
(クーロ)ない。私は緊張はしないんだ。
- 最終回に、あの2三振をとって終わらせたときは?
(クーロ)余力を全部出した。あそこでは残っていた力を全部出す必要があった。誰も打てなかった。
あれらのストライクが投げられていたとき、"ボビー"・サラマンカは「アスーカル!」と叫んでいた。1000万トンの砂糖生産にちなんで彼が生み出した言い回し「カーニャ・デ・ウン・トロソ」(サトウキビ1本=安打)、「カーニャ・デ・クアトロ・トロソス」(サトウキビ4本=本塁打)と同じ、あの見事な実況スタイルだった。
キューバスターティングメンバー
1、フェリクス・イサシ (二塁手)
2、リゴベルト・ロシケ (右翼手)
3、フェルミン・ラフィタ (中堅手)
4、オウェン・ブランディーノ (三塁手)
5、シルビオ・モンテホ (左翼手)
6、フェリペ・サルドゥイ (一塁手)
7、ラサロ・ペレス (捕手)
8、ロドルフォ・プエンテ (遊撃手)
9、ロベルト・バルデス (投手)
このあと、4回にバルデスを救援したサンティアゴ・"チャンガ"・メデーロス投手の代打としてアンドレス・テレマコが出場。クーロは5回から登板。8回にアントニオ・ゴンサーレスがラサロ・ペレスの代走で出場し、最初の得点をあげる。それからラモン・エチャバリアがマスクをかぶった。
二塁手に関しては興味深いことがある。アンドレス・テレマコは前半の5試合に出場し、フェリクス・イサシが残り5試合に出場している。
さらなる告白
あの1969年8月26日の忘れがたき夜、フィデルがなぜ椅子から立ち上がったのか、明らかになっただろうか。
告白の時間だ。ここまで私が書いたことは、1冊の古い野球のガイドブックをもとにしたものだ。この本を父からプレゼントされたとき私は10歳だった。すぐれたジャーナリストだった父は2008年に亡くなった。
このときはすでにグローブも買ってもらっていたと思う。このグローブで私は何年もの間たくさんのゴロを処理した。ラティーノアメリカーノ球場にも何度か連れていってくれた。多くの理由から、父もこの記事の著者である、と私は思いたい。実際のところ、私の記事というよりはむしろ父の記事と言えるほどだ。
キューバチーム全10試合の結果
対ベネズエラ、8対0
対ニカラグア、10対1
対パナマ、8対0
対グアテマラ、17対0
対ドミニカ共和国、10対3
*ドミニカ共和国は6回に入ったとき3対2とリードしていた。
対コロンビア、9対3
対プエルトリコ、9対1
対メキシコ、5対3
*メキシコは5回表で3対0とリード。キューバにとってここまでで最も苦しい試合だった。
対オランダ領アンティル、12対1
対米国、2対1
補足:ドミニカ共和国の人びとはキューバチームの勝利に喜んだだけでなく、この大会を7勝2敗(この2敗は上位2チームに負けただけ)で終えた自国チームの、米州全体の11チームのなかでの3位獲得にも歓喜した。
表彰チーム・選手
優勝チーム:キューバ(10勝0敗、勝率1.000)
首位打者:オウェン・ブランディーノ(キューバ)40打数20安打、打率.500
得点:オウェン・ブランディーノ(キューバ)13得点
本塁打:フェルミン・ラフィタ(キューバ)3本
盗塁:カルロス・ウリオラ(ベネズエラ)、オルランド・ラミレス(コロンビア)5個
投手(勝利):ガスパル・ペレス(キューバ)4勝0敗、勝率1.000
*初出:Un juego que levantó a Fidel
Cubahora、2017年11月27日、Rafael Pérez Valdés記者
http://www.cubahora.cu/especiales/hasta-siempre-fidel/noticias/un-juego-que-levanto-a-fidel
MUNDIAL DE BEISBOL DE 1969
Cuba campeon 1969
swing 1969
Quisqueya 1969: un juego de béisbol que levantó a Fidel
http://www.jit.cu/NewsDetails.aspx?idnoticia=122800
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
https://fanblogs.jp/tb/9121946
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
この記事へのトラックバック