意味は
『すぐれた知識や徳を備えた聖人は悟りの境地にあるから、この世のつまらない邪念にとらわれることがない。
だから心安らかであり、床(とこ)につけば心を乱す夢を見ることもなく安眠するということ。(出典 荘子)』(読み・書き・話す 故事ことわざ辞典 学研プラスより)
です。
『荘子 内篇』(訳者 福永光司 興膳宏 筑摩書房)の大宗師篇第六に、こう書かれています。
『古の真人は、其の寝ぬるや夢をみず、其の覚むるや憂い無し。
其の食らうや甘しとせず、其の息するや深深たり。
真人の息は踵を以てし、衆人の息は喉を以てす。
屈服する者は、其の隘言は哇ぶが若し。
其の嗜欲深き者は、其の天機浅し。
古の真人は、生を説ぶことを知らず、死を悪むことを知らず。
其の出づるや僖ばず、其の入るや拒まず。
悠然として往き、悠然として来たるのみ。
其の始まる所を忘れず、其の終わる所を求めず。
受けて之を喜び、忘れて之を復す。
是を之れ心を以て道を捨てず、人を以て天を助けずと謂う。
是を之れ真人と謂う。』
【現代語訳】
『いにしえの真人は、眠っても夢を見ず、目覚めても憂いがなかった。
ものを食べても美味を求めず、呼吸は深く安らかだった。
真人の呼吸は踵の底からするが、普通の人の呼吸は喉でする。
まるで議論に屈服した者が、むせび吐きだすことばのような息づかいであり、深い欲望をいだく者には、天与の精神の機能は乏しいのだ。
いにしえの真人は、生を喜ぶこともなく、死を憎むこともなかった。
生まれてきたことをうれしがりもせず、死んでゆくことを拒みもしなかった。
悠然として現われ、また悠然として去ってゆくだけである。
自己の存在の始めを忘れぬと同時に、その終わりについても詮索はせず、与えられた生を喜んで受け入れ、すべての執着を忘れてそれを自然に返す。
こうした境地を、自分の心によって自然の道を棄てず、人為によって天に手だしをしないというのであり、これこそが真人と呼ばれる存在だ。』
物事に拘泥しない、頓着しないことが肝要です。
執着を捨てれば、気軽になります。
『もの持たぬ 袂は軽し夕涼み』
『執着捨てれば楽になる』
『悟りを得るは執着を捨つるにあり』
悟りを開き、真人となりましょう。
【悟りがすべて】
【悟りは地球を救う】
来たよ
来たよ
覚者の国に
悟りを開いた皆んなと一緒に来たよ
悟りあれ
幸いあれ
『荘子 内篇』(訳者 福永光司 興膳宏 筑摩書房)
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