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2015年07月11日

本能寺の変で死んだはずの明智光秀は、家康にかくまわれたのち、天海として後世に名だたる名僧侶となっていた。

20150711-1.jpgさて、歴史の教科書がすべて真実を教えているとは限りません。
そして歴史は戦いの勝者が都合のよいストーリーとして書き換えるということが真実です。

よって、日本最大のミステリー・未解決事件である1582年の本能寺の変の真実を語ろうではありませんか。

敵の敵は味方なり。まさに孫子の兵法に書いてありそうなことだが、このことがあてはまるのがこの歴史的事件の背景と言えるのではないだろうか。

一般的に信長は天下布武の名のもとに、女・子供・老若男女問わず、大量虐殺をしまくったので、北のどっかの将軍様のように内心誰からも嫌われました。そして早く戦国時代を終わらせて平和な世を求めていたのが万人の思いだったことは想像できます。

独裁者はいつの時代も自分にはむかうものを嫌います。お人良しの秀吉だけは好かれていたようですが、頭の切れる光秀や家康を信長は心よく思ってませんでした。その表れとして、光秀に対しての酷い仕打ちや、家康の暗殺計画などがあります。

そこで天下統一を狙う家康が光秀に信長の暗殺を持ちかけました。そして本能寺の変の後すぐに光秀は農民により殺されたことになってますが、実際にその首が光秀本人かどうかの確認はできていなかったのです。この当たりにこの信長暗殺計画に秀吉も一枚噛んでいたんじゃないかと思われる節もあります。

光秀としては汚れ役を引き受けた見返りとして徳川埋蔵金の一部を手にし、一度死んだことにして身を消し、家康にかくまわれました。その後突然謎の僧侶・天海が江戸幕府を率いる家康の参謀として現れるのです。

この天海は江戸の都市計画に深くかかわっています。頭の切れる光秀の成せる業だったのかもしれません。そして明智家の家紋を日光東照宮の至る所でちりばめています。また明智平という地名ができたのもその所以です。

また、徳川家の二代目・三代目の名はそれぞれ、徳川秀忠、徳川家光となっており、「光秀」の文字が含まれいることに気付くでしょう。秀吉の死後に改めて天海が活躍したことを考えても、明智光秀が天海であっても何も不思議ではないでしょう。

ただし、天海は110歳位まで生きていたようですので、この時代にしては随分とご長寿だった神様のような人物だったということになります。


と、いう歴史が個人的には真実であってほしいという願いを込めて、敢えて、断定的に文章を書いてきましたが、あくまでも信じるか信じないかはあなた次第です。

【有力説】明智光秀は秀吉に殺されていなかった【やりすぎ都市伝説】
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21世紀★中年
1973年生まれ 男(妻1人・子1人) 都内IT系デザイン会社勤務。 主にWEB系デザイン・プログラムなどを担当。 制作が中心の仕事がら、自らの情報発信は得意ではないが、日常で感じた事を思うがままに書いていきたいと思ってます。 ※やぎ座のO型はビートたけしと同じ
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