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2015年09月05日

仁義なき戦いシリーズ#02 桑田佳祐 vs 長渕剛 30年戦争の真実

昨日に引き続きニューミュージック界の両巨塔の仁義なき戦いですが、若い世代にしてみればさほど大したことではないのかもしれませんが、この大物二人の不仲説というのは我々の世代には非常に興味深いです。

前回は第一次抗争で長渕氏がブチ切れて、ドラマの中であからさまにサザンを批判をしたことに対してかどうかわかりませんが、桑田氏は1994年、『すべての歌に懺悔しな』をリリースし、名指しはしてませんが、おそらくリベンジをしたと思われます。

▼『すべての歌に懺悔しな』歌詞 抜粋

「歌が得意な猿なのに 高級外車がお出迎え
スーパー・スターになれたのは 世渡り上手と金まかせ
大学出たって馬鹿だから 常識なんかは通じねェ
子供の頃から貧乏で そのうえ気さくな努力家で
実はすべてが嘘なのに  芝居のセンスにゃたけている
天才奇才とおだてりゃエテ公は いつでも木に登る
儲かる話とクスリにゃ目が無い バカヤロ様がいる 」 

と言った内容です。

<参照>
「長渕剛 VS 桑田佳祐」
http://sun.ap.teacup.com/under_b/82.html

まあ、いずれにせよ、

この二人の抗争劇は1995年に、長渕氏が覚醒剤所持で逮捕されるという幕切れだったようです。

なんかこの時点で軍配は桑田氏のように思えますが、あくまでも都市伝説ですので、信じるか信じないかは貴方次第ですね。



それでも長渕氏については若かりしこの頃のほうがなんだか好感が持てる気がするのは私だけでしょうか・・・


★しかし、それぞれが語り継がれる名曲を持っています。★

桑田氏:いとしのエリー
長渕氏:乾杯

★それでは二人のコラボで「いとしのエリーに乾杯」をどうぞ。★





2015年09月04日

仁義なき戦いシリーズ#01 桑田佳祐 vs 長渕剛 30年戦争の真実

いわゆる業界全般で噂されている都市伝説として、サザンオールスターズの桑田佳祐氏(以下桑田氏)とシンガーソングライターの長渕剛氏(以下長渕氏)の不仲説がまことしやかに囁かれているは有名な話なようです。

この二人についてですが、我々のような40代が青春時代に、一番輝いていた二人のスターですので、どちらも甲乙つけがたいカリスマ的存在なことは確かです。ただ女性層からの支持が多いのは桑田氏のほうではないでしょうか。一方右翼系の支持者が多いのは長渕氏なようです。

それでは二人が不仲だとされる理由についてですが、さかのぼること30年ほど前、1983年頃居酒屋で意気投合した桑田氏と長渕氏、そのころ人気絶頂だった自身のバンドのライブに長渕氏をジョイントとして誘ったのですが、前座扱いとされた長渕氏が切れたようです。ま、長渕氏も1年ほどデビューが先輩だったし、まだ若かりし血気盛んな20代後半位ですからね。さらに興奮した桑田氏はその舞台上で長渕氏の頭にビールをかけたとか・・・

そしてその数年後に長渕氏のドラマ「とんぼ」が大ブレイク、その某シーンの中でサザンの当時超売れていた曲を批判する場面がお茶の間に流れました。



『おい!なんだそれ?消せ!こんなクソみたいな曲消せコノヤロー! 日本人なめくさったような コノヤロー!』

賛否両論となりますね・・・

次回へ続く


★しかし、それぞれが語り継がれる名曲を持っています。★

桑田氏:いとしのエリー
長渕氏:乾杯

★それでは二人のコラボで「いとしのエリーに乾杯」をどうぞ。★





2015年07月11日

本能寺の変で死んだはずの明智光秀は、家康にかくまわれたのち、天海として後世に名だたる名僧侶となっていた。

20150711-1.jpgさて、歴史の教科書がすべて真実を教えているとは限りません。
そして歴史は戦いの勝者が都合のよいストーリーとして書き換えるということが真実です。

よって、日本最大のミステリー・未解決事件である1582年の本能寺の変の真実を語ろうではありませんか。

敵の敵は味方なり。まさに孫子の兵法に書いてありそうなことだが、このことがあてはまるのがこの歴史的事件の背景と言えるのではないだろうか。

一般的に信長は天下布武の名のもとに、女・子供・老若男女問わず、大量虐殺をしまくったので、北のどっかの将軍様のように内心誰からも嫌われました。そして早く戦国時代を終わらせて平和な世を求めていたのが万人の思いだったことは想像できます。

独裁者はいつの時代も自分にはむかうものを嫌います。お人良しの秀吉だけは好かれていたようですが、頭の切れる光秀や家康を信長は心よく思ってませんでした。その表れとして、光秀に対しての酷い仕打ちや、家康の暗殺計画などがあります。

そこで天下統一を狙う家康が光秀に信長の暗殺を持ちかけました。そして本能寺の変の後すぐに光秀は農民により殺されたことになってますが、実際にその首が光秀本人かどうかの確認はできていなかったのです。この当たりにこの信長暗殺計画に秀吉も一枚噛んでいたんじゃないかと思われる節もあります。

光秀としては汚れ役を引き受けた見返りとして徳川埋蔵金の一部を手にし、一度死んだことにして身を消し、家康にかくまわれました。その後突然謎の僧侶・天海が江戸幕府を率いる家康の参謀として現れるのです。

この天海は江戸の都市計画に深くかかわっています。頭の切れる光秀の成せる業だったのかもしれません。そして明智家の家紋を日光東照宮の至る所でちりばめています。また明智平という地名ができたのもその所以です。

また、徳川家の二代目・三代目の名はそれぞれ、徳川秀忠、徳川家光となっており、「光秀」の文字が含まれいることに気付くでしょう。秀吉の死後に改めて天海が活躍したことを考えても、明智光秀が天海であっても何も不思議ではないでしょう。

ただし、天海は110歳位まで生きていたようですので、この時代にしては随分とご長寿だった神様のような人物だったということになります。


と、いう歴史が個人的には真実であってほしいという願いを込めて、敢えて、断定的に文章を書いてきましたが、あくまでも信じるか信じないかはあなた次第です。

【有力説】明智光秀は秀吉に殺されていなかった【やりすぎ都市伝説】


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21世紀★中年
1973年生まれ 男(妻1人・子1人) 都内IT系デザイン会社勤務。 主にWEB系デザイン・プログラムなどを担当。 制作が中心の仕事がら、自らの情報発信は得意ではないが、日常で感じた事を思うがままに書いていきたいと思ってます。 ※やぎ座のO型はビートたけしと同じ
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