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2020年05月11日
【改めて自己紹介】
【020】
おはようございます!
小島です。
連続投稿20回目となるキリが悪い回ですが、
【 改めて自己紹介 】
をさせていただきます。
みなさんがよく抱えていらっしゃる悩みや問題・課題の大元は、
「言えない勝手な思い込みを抱えている」
と定義つけています。
人間って本当に「言えない勝手な思い込み」を作ってしまうんです。
「こんなこと言っちゃいけないんじゃないかな?」
「こんなこと言ったら怒られる?」
「こんなこと言ったら嫌われる?」
「こんなこと言ったら恥ずかしい」
「こんなこと言ったらどう思われるかな?」
「こんなこと言ったら・・・」のオンパレード。
また「言う」といった行為を、勇気が必要なコトだと勝手に思ってしまっている。
全ては「言えない勝手な思い込み」だけなんですけど。
だから、いつまで経っても「思い込みを抱えている」すっきりとしない状態のままとなってしまう。
ではなぜそうなってしまうのか?
それは、
先ほどから幾度と登場している「思い込み」が全てをセーブしているからです。
ではこの「思い込み」とは何か。
思い込みとは、あなたの「考え方への執着」です。
前回の投稿の【自分への執着】とも被ってしまいますが、
自分が正しいということの根拠みたいなモノですね。
この絶対的な自分の「考え方への執着」が実は自分自身を苦しめているんです。
“人間の全ての行動基盤は「考え方」、「考え方」があなたを形成している”
いやいや、でも友人とか恋人とか先輩や親や兄弟と言った、あなたにも話ができる相手の人がいますよね。
でもこのような人たちに対しても、
あなたが伝えられない、
あなたが見えていない「壁」みたいなものがあるんです。
その壁とは、
「罪悪感」です。
この「罪悪感」がまたまた厄介な存在で、
あなたは意識していないのに勝手に抱え込んでしまっているんです。
先ほどの「こんなこと言ったら・・・」です、
「迷惑かな」とか
「めんどくさいかな」とか
「本当はこんなこと聞きたくないよな」とか勝手に。
だから、知らず知らずにあなたの言いたいことに制御がかかってしまい、
言いたいことの半分も言えない状態で会話が終わってしまう。
そしてあとで、
ふと気がつくと「あれ?なんか言いたいコトの半分も結局言えてなかったな」なんて思っても、
相手が親しきそして、近しい人たちだからこそ、
「まあいいっか」と自分の中で割り切ってしまうのです。
こうやって、結局「言えない勝手な思い込みを抱えている」状態のまま、
何かに取り掛かったり、何かを始めようとしても、大元の引っ掛かりが取れていないので、
なんかうまく進めない現状の繰り返しとなってしまうのです。
これは、
個人的な悩み・問題・課題や
ビジネス的な悩み・問題・課題にも共通しています。
自分が、自分を自由にさせていない状態で、自分を構築してしまっている。
ここで必要な考え方は、
フランスの哲学者 : ジャック・デリダ の「脱構築」です。
階層的二項対立の優劣逆転の考え方。
詳しい内容は省きますが、
「善」と「悪」という二項対立の勝手な思い込みによる優劣を逆転させる。
悩み・問題・課題に対して、大元の概念を変えれば、その悩み・問題・課題が消える。
今のあなたには「脱構築」が必要なんです。
ここで気がつきましたが、
すっかりいつもと同じようにツラツラと書き込んでしまい、
本日のテーマ
【改めて自己紹介】を
すっ飛ばしてしまいました。が、
私の自己紹介としては、
本日、お伝えさせていただいた内容の
「言えない勝手な思い込みを抱えている」クライアント様に対して、
整頭師(せいずし)という立場から、
クライアント様の頭の中と日々共に向き合いながら、
個人や企業としての悩みや問題・課題の解決や、
考え方をプロデュースする
「特有性(ブランディング)構築」
「実現未来(ビジョン)設定」の確立をさせるお手伝いを行なっております。
※[整頭師 : 整体師は体を整え、整頭師は脳内を整える]
クライアント様からはよく、
「この話がこんな風になるとは思っていなかった」
とか
「この言葉をこんな風に認識したの初めてだわ」
なんて言われます。
でもこれって、単にその人の頭の中の考え方が偏って固まってしまっていただけなんです。
それを少しほぐしただけのことなんですよ。
本当にだたお話を伺っているだけ、少しだけ大元に目が向くようにしているだけなんです。
ビジネスというあなたに都合の良い割り切った関係性を利用して、
あなたの「言えない勝手な思い込み」を打ち明けることで「脱構築」する!
あなたに今必要なのはこれですよ!
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
連続投稿20回目となるキリが悪い回ですが、
【 改めて自己紹介 】
をさせていただきます。
みなさんがよく抱えていらっしゃる悩みや問題・課題の大元は、
「言えない勝手な思い込みを抱えている」
と定義つけています。
人間って本当に「言えない勝手な思い込み」を作ってしまうんです。
「こんなこと言っちゃいけないんじゃないかな?」
「こんなこと言ったら怒られる?」
「こんなこと言ったら嫌われる?」
「こんなこと言ったら恥ずかしい」
「こんなこと言ったらどう思われるかな?」
「こんなこと言ったら・・・」のオンパレード。
また「言う」といった行為を、勇気が必要なコトだと勝手に思ってしまっている。
全ては「言えない勝手な思い込み」だけなんですけど。
だから、いつまで経っても「思い込みを抱えている」すっきりとしない状態のままとなってしまう。
ではなぜそうなってしまうのか?
それは、
先ほどから幾度と登場している「思い込み」が全てをセーブしているからです。
ではこの「思い込み」とは何か。
思い込みとは、あなたの「考え方への執着」です。
前回の投稿の【自分への執着】とも被ってしまいますが、
自分が正しいということの根拠みたいなモノですね。
この絶対的な自分の「考え方への執着」が実は自分自身を苦しめているんです。
“人間の全ての行動基盤は「考え方」、「考え方」があなたを形成している”
いやいや、でも友人とか恋人とか先輩や親や兄弟と言った、あなたにも話ができる相手の人がいますよね。
でもこのような人たちに対しても、
あなたが伝えられない、
あなたが見えていない「壁」みたいなものがあるんです。
その壁とは、
「罪悪感」です。
この「罪悪感」がまたまた厄介な存在で、
あなたは意識していないのに勝手に抱え込んでしまっているんです。
先ほどの「こんなこと言ったら・・・」です、
「迷惑かな」とか
「めんどくさいかな」とか
「本当はこんなこと聞きたくないよな」とか勝手に。
だから、知らず知らずにあなたの言いたいことに制御がかかってしまい、
言いたいことの半分も言えない状態で会話が終わってしまう。
そしてあとで、
ふと気がつくと「あれ?なんか言いたいコトの半分も結局言えてなかったな」なんて思っても、
相手が親しきそして、近しい人たちだからこそ、
「まあいいっか」と自分の中で割り切ってしまうのです。
こうやって、結局「言えない勝手な思い込みを抱えている」状態のまま、
何かに取り掛かったり、何かを始めようとしても、大元の引っ掛かりが取れていないので、
なんかうまく進めない現状の繰り返しとなってしまうのです。
これは、
個人的な悩み・問題・課題や
ビジネス的な悩み・問題・課題にも共通しています。
自分が、自分を自由にさせていない状態で、自分を構築してしまっている。
ここで必要な考え方は、
フランスの哲学者 : ジャック・デリダ の「脱構築」です。
階層的二項対立の優劣逆転の考え方。
詳しい内容は省きますが、
「善」と「悪」という二項対立の勝手な思い込みによる優劣を逆転させる。
悩み・問題・課題に対して、大元の概念を変えれば、その悩み・問題・課題が消える。
今のあなたには「脱構築」が必要なんです。
ここで気がつきましたが、
すっかりいつもと同じようにツラツラと書き込んでしまい、
本日のテーマ
【改めて自己紹介】を
すっ飛ばしてしまいました。が、
私の自己紹介としては、
本日、お伝えさせていただいた内容の
「言えない勝手な思い込みを抱えている」クライアント様に対して、
整頭師(せいずし)という立場から、
クライアント様の頭の中と日々共に向き合いながら、
個人や企業としての悩みや問題・課題の解決や、
考え方をプロデュースする
「特有性(ブランディング)構築」
「実現未来(ビジョン)設定」の確立をさせるお手伝いを行なっております。
※[整頭師 : 整体師は体を整え、整頭師は脳内を整える]
クライアント様からはよく、
「この話がこんな風になるとは思っていなかった」
とか
「この言葉をこんな風に認識したの初めてだわ」
なんて言われます。
でもこれって、単にその人の頭の中の考え方が偏って固まってしまっていただけなんです。
それを少しほぐしただけのことなんですよ。
本当にだたお話を伺っているだけ、少しだけ大元に目が向くようにしているだけなんです。
ビジネスというあなたに都合の良い割り切った関係性を利用して、
あなたの「言えない勝手な思い込み」を打ち明けることで「脱構築」する!
あなたに今必要なのはこれですよ!
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
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2020年05月10日
【自分への執着】
【019】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
質問からスタートします。
あなたは、
信号が青に変わるまで待ちますか?
それとも赤信号で渡りますか?
状況としては、
自分以外に誰もいない、車も来ていなくて安全が確認できる無人の交差点。
目の前の信号機の色は赤。あなたはこの目の前の横断歩道を渡ろうとしています。
考えていただきありがとうございます。
この質問に対して、正解とか不正解などもちろんありません。
私がお伝えしておきたいことは、
フランスの哲学者 : ミシェル・フーコーの
「パノプティコン」の話です。
“自分が自分を監視している”
「パノプティコン」とは、全展望監視システムのこと。
人間は自分の中にふたつの役割を引き受けていて、
「監視者」の役割が、もう一人の自分「囚人」に目を光らせている状態。
一人の人間の中に
「監視役=権力を使う者」と
「囚人=権力に服従する者」という構造となっています。
今回は、
信号が青に変わるまで待つ。方にスポットを当てたいと思いますが、
特徴的な人としては、真面目な人です。
真面目な人ほど、自分以外の周りの人にどう見られるかよりも、
「自分で定めた自分であること」を重視します。
その定めを守り通すことで、「自分の中の何か」を保つように、
信号が青に変わるまでは、絶対に渡らない。
わかりやすく言うと「自分への執着」が非常に強いのです。
この「自分への執着」が強ければ強いほど、周りの状況が見えていない状態です。
「自分」がどう考えたとか、
「自分」はこう思ったとか、
「自分」「自分」「自分」、、、
「自分の考えや意見を述べることって大事!」って。
もちろんとても大事なことです。
ここでお伝えしたいのは、
どのような視点からモノゴトを捉えているのかという「視点軸」です。
「自分への執着」が強いのは、視点軸が必ず「自分」にあると言うこと。
いつもの視点軸から少し位置を移してみようと試みても、
自分の中にいる監視者がそれを絶対に許してはくれない。キラリと目を光らせているのです。
でも実は真面目な人は、そうやって監視されていることが楽だったりもするし、
固定されている感じが好きだったりもするので、視点軸を移さないのです。
例えば、
何かを考える時、何かを伝える時、
または、
何かに悩んでいる時、
その悩んでしまっている「自分」のままの視点から解決しようとしているので、
悩んでしまっている「自分」が「自ぶん」へと変化した程度になるだけなんです。
結局は「自分」から離れていない、離れることができていない、
周りからすれば、何も変わっていませんよってことになるのです。
出発の視点軸が「自分」「私」「俺」では解決ができない、ダメだってことなんですけど、
このダメだってことがわかっているけれど、どこかで認められない「自分」がいるんでしょうね。
やっぱり拘ってしまうのです。「自分」に。
やはり、この「執着」がとても厄介な存在です。
こうなると多くの方々はこの「執着」をどうにか克服しようと必死になってしまう。
そう、「自分」のためにですね。
ここで1つご提案をさせていただくと、
厄介な「執着」が存在するのであれば、「自分」という視点軸から抜け出せないのであれば、
それを思いっきり利用して監視者と楽しんじゃいましょう!というご提案です。
大好きな「自分への執着」が思う存分発揮できる
「空想的な場所」
を自分で作ってしまえばいいんです。
そこではとにかく「自分」「自分」自分」。思いっきり自分!
認めてください!褒めてください!私こう感じます!俺こう思いました!っていう場所。
自分がダサく輝ける場所
「自分への執着を自覚した上で、最大限の研ぎ澄まされた自分を吐き出せる場所」
こんな場所を1つだけ持っておく。
楽しそうですね。
その場所は、SNSなのかコミニティなのかどこでもなんでもいいと思います。
そうやって自覚できる場所があるからこそ、
思いっきり発揮できる場所があるからこそ、
普段は、自分という軸から視点を移して切り離した状態で
モノゴトを捉えていくことができるのです。
普段時は、常に構造を捉えて思考し、
周りの人間をどう読んで、どう使って、状況をどう動かしていくか、
そのために、
今の自分は、どんな立ち位置でいることがいいのか・何を考えたことにするのか・そのために必要な設定は・悪役に回るべきか・様々な場面において疲れ果てるほどに周りに目を配り、
「J I B U N N 」を捏造し、演じるのです。
いつものJIBUNNは構造視点を持ち、
真面目な自分は、実存視点で思いっきり「空想的な場所」で謳歌させる。
こんな切り替えをする考え方を1つ持っておくこともいいと思います。
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
質問からスタートします。
あなたは、
信号が青に変わるまで待ちますか?
それとも赤信号で渡りますか?
状況としては、
自分以外に誰もいない、車も来ていなくて安全が確認できる無人の交差点。
目の前の信号機の色は赤。あなたはこの目の前の横断歩道を渡ろうとしています。
考えていただきありがとうございます。
この質問に対して、正解とか不正解などもちろんありません。
私がお伝えしておきたいことは、
フランスの哲学者 : ミシェル・フーコーの
「パノプティコン」の話です。
“自分が自分を監視している”
「パノプティコン」とは、全展望監視システムのこと。
人間は自分の中にふたつの役割を引き受けていて、
「監視者」の役割が、もう一人の自分「囚人」に目を光らせている状態。
一人の人間の中に
「監視役=権力を使う者」と
「囚人=権力に服従する者」という構造となっています。
今回は、
信号が青に変わるまで待つ。方にスポットを当てたいと思いますが、
特徴的な人としては、真面目な人です。
真面目な人ほど、自分以外の周りの人にどう見られるかよりも、
「自分で定めた自分であること」を重視します。
その定めを守り通すことで、「自分の中の何か」を保つように、
信号が青に変わるまでは、絶対に渡らない。
わかりやすく言うと「自分への執着」が非常に強いのです。
この「自分への執着」が強ければ強いほど、周りの状況が見えていない状態です。
「自分」がどう考えたとか、
「自分」はこう思ったとか、
「自分」「自分」「自分」、、、
「自分の考えや意見を述べることって大事!」って。
もちろんとても大事なことです。
ここでお伝えしたいのは、
どのような視点からモノゴトを捉えているのかという「視点軸」です。
「自分への執着」が強いのは、視点軸が必ず「自分」にあると言うこと。
いつもの視点軸から少し位置を移してみようと試みても、
自分の中にいる監視者がそれを絶対に許してはくれない。キラリと目を光らせているのです。
でも実は真面目な人は、そうやって監視されていることが楽だったりもするし、
固定されている感じが好きだったりもするので、視点軸を移さないのです。
例えば、
何かを考える時、何かを伝える時、
または、
何かに悩んでいる時、
その悩んでしまっている「自分」のままの視点から解決しようとしているので、
悩んでしまっている「自分」が「自ぶん」へと変化した程度になるだけなんです。
結局は「自分」から離れていない、離れることができていない、
周りからすれば、何も変わっていませんよってことになるのです。
出発の視点軸が「自分」「私」「俺」では解決ができない、ダメだってことなんですけど、
このダメだってことがわかっているけれど、どこかで認められない「自分」がいるんでしょうね。
やっぱり拘ってしまうのです。「自分」に。
やはり、この「執着」がとても厄介な存在です。
こうなると多くの方々はこの「執着」をどうにか克服しようと必死になってしまう。
そう、「自分」のためにですね。
ここで1つご提案をさせていただくと、
厄介な「執着」が存在するのであれば、「自分」という視点軸から抜け出せないのであれば、
それを思いっきり利用して監視者と楽しんじゃいましょう!というご提案です。
大好きな「自分への執着」が思う存分発揮できる
「空想的な場所」
を自分で作ってしまえばいいんです。
そこではとにかく「自分」「自分」自分」。思いっきり自分!
認めてください!褒めてください!私こう感じます!俺こう思いました!っていう場所。
自分がダサく輝ける場所
「自分への執着を自覚した上で、最大限の研ぎ澄まされた自分を吐き出せる場所」
こんな場所を1つだけ持っておく。
楽しそうですね。
その場所は、SNSなのかコミニティなのかどこでもなんでもいいと思います。
そうやって自覚できる場所があるからこそ、
思いっきり発揮できる場所があるからこそ、
普段は、自分という軸から視点を移して切り離した状態で
モノゴトを捉えていくことができるのです。
普段時は、常に構造を捉えて思考し、
周りの人間をどう読んで、どう使って、状況をどう動かしていくか、
そのために、
今の自分は、どんな立ち位置でいることがいいのか・何を考えたことにするのか・そのために必要な設定は・悪役に回るべきか・様々な場面において疲れ果てるほどに周りに目を配り、
「J I B U N N 」を捏造し、演じるのです。
いつものJIBUNNは構造視点を持ち、
真面目な自分は、実存視点で思いっきり「空想的な場所」で謳歌させる。
こんな切り替えをする考え方を1つ持っておくこともいいと思います。
ゆっくりで大丈夫です!しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月09日
【より俯瞰してプロデュース!合理性はロボットに任せる?!】
【018】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
本日は少し難しい話からさせていただきますが、
あなたにとって、とても大事な話ですのでどうぞ最後までお読みください。
「即自存在」
何かがそれ自体において存在していること。
「対自存在」
自分に対して自分が向かっているというあり方。
フランスの哲学者 : ジャンポール・サルトル
サルトルは、「即自存在」・「対自存在」という言葉を以下のように表現しています。
「即自存在」
人間以外のモノ。
モノ自体が「なぜ存在するのか?」などと感じてはいないし、何も考えていない。
ただ、それ自体がそこにあるだけ。
「対自存在」
私たち人間のこと。
私たち人間は、
自分の「意識」というモノを持っているので「即自存在」という概念が成り立たないのです。
いくら自分自身に「なぜ存在するのか?」と問いかけても、答えらしきコトを見つけられずに、
「無意味」だと思ってしまうのです。
「即自存在」と「対自存在」そして、私たちが存在しているこの世界では、
モノ(事物)と私(自意識)とあともう1つの存在で構成されているのですが、
そのもう1つの存在とはいったいなんでしょうか?
それは、
他人の存在です。
サルトルは、この「他人の存在」から見られた対象としての私のことを「対他存在」と表現しました。
この他人という存在は、私が見ている対象でありながら、私のことを見ている主観でもあるのです。
そして、こうした「対他存在」をつくり出すのは他人の「まなざし」だと言ったのです。
「対他存在」
主体としての対自が他者にとっての客体として現れるような存在のあり方。
私たちは、決して他人の意識の中へと入り込むことができないことはお分かりだと思いますが、
この「対他存在」とは他人のものであり、
この視点からは自分が自分のものではなくなってしまうのです。
他人が存在し、そして他人が自由に想像する限り、
私たちは他人によって「他有化」されるわけです。
そして私たちがここで考えていかなくてはいけないことは、
何も感じず、何も考えずに「即自存在」としていきていくのではなく、
「対自存在」として私の意識が創り出す自分、にだけ焦点を合わせることでもなく、
他人視点から認識される「対他存在」としての私をいかにして演出し感じさせ、
自分の思った通りの存在へと他人の意識を近ずけることができるのか。
ということに自分の意識を置くことが重要なんです。
要するに、
自分も他人も乗り越えた視点、構造をメタ認知して超越した高視点で、
私という存在を捉えていくことが必要なことです。
もし、これまでに自分に対する他人の評価が、自分が思い描いているようなコトとなっていないのであれば、それ自体を否定・批判するのではなく、
「他人に対して何が自分の存在をそのように思わせてしまっているのか」
「他人に対して何が自分の存在の評価基準として、印象をもたらせてしまっているのか」を
一段次元高く俯瞰して構造的に捉えるのです。
そうです、
このような視点こそ「プロデューサー視点」ということです!
あなた自身が自分のプロデューサーとなり、自分を思い通りのままに演出していく。
これこそがいわゆる「自己プロデュース」というのです。
他人に対して「自分」という存在をどのような見方をさせて、どのような世界観を他人に語らせるのか。ここに視点を当てる以外はないのですね。
そして最後に、
私が、自己プロデュースに大事なことだと思っているのは、
いかにして「人間的であるか!」です。
これからは「より人間的」な人間が求められる時代です。
今までの常に合理性を求め、追求してきた時代というのはロボットに任せて、
より人間的な人間が価値がある時代となるのです。
そして、この人間的時代のキーワードが、
「スマートクリエイティブ」です。
スマートクリエイティブとは
多才で、多様な分野に旺盛な好奇心を示し、
それでいて専門性と創造力を併せ持った人のこと。
「何かを知っている人」ではなく、
「何も知らなかったとしても、最適解をその場で導ける人」です。
つまり
「Information(インフォメーション)」よりも
「Intelligence(インテリジェンス)」が必要だということです。
高次元の高視点 =「神目線」で自分という存在をプロデュースしていきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
本日は少し難しい話からさせていただきますが、
あなたにとって、とても大事な話ですのでどうぞ最後までお読みください。
「即自存在」
何かがそれ自体において存在していること。
「対自存在」
自分に対して自分が向かっているというあり方。
フランスの哲学者 : ジャンポール・サルトル
サルトルは、「即自存在」・「対自存在」という言葉を以下のように表現しています。
「即自存在」
人間以外のモノ。
モノ自体が「なぜ存在するのか?」などと感じてはいないし、何も考えていない。
ただ、それ自体がそこにあるだけ。
「対自存在」
私たち人間のこと。
私たち人間は、
自分の「意識」というモノを持っているので「即自存在」という概念が成り立たないのです。
いくら自分自身に「なぜ存在するのか?」と問いかけても、答えらしきコトを見つけられずに、
「無意味」だと思ってしまうのです。
「即自存在」と「対自存在」そして、私たちが存在しているこの世界では、
モノ(事物)と私(自意識)とあともう1つの存在で構成されているのですが、
そのもう1つの存在とはいったいなんでしょうか?
それは、
他人の存在です。
サルトルは、この「他人の存在」から見られた対象としての私のことを「対他存在」と表現しました。
この他人という存在は、私が見ている対象でありながら、私のことを見ている主観でもあるのです。
そして、こうした「対他存在」をつくり出すのは他人の「まなざし」だと言ったのです。
「対他存在」
主体としての対自が他者にとっての客体として現れるような存在のあり方。
私たちは、決して他人の意識の中へと入り込むことができないことはお分かりだと思いますが、
この「対他存在」とは他人のものであり、
この視点からは自分が自分のものではなくなってしまうのです。
他人が存在し、そして他人が自由に想像する限り、
私たちは他人によって「他有化」されるわけです。
そして私たちがここで考えていかなくてはいけないことは、
何も感じず、何も考えずに「即自存在」としていきていくのではなく、
「対自存在」として私の意識が創り出す自分、にだけ焦点を合わせることでもなく、
他人視点から認識される「対他存在」としての私をいかにして演出し感じさせ、
自分の思った通りの存在へと他人の意識を近ずけることができるのか。
ということに自分の意識を置くことが重要なんです。
要するに、
自分も他人も乗り越えた視点、構造をメタ認知して超越した高視点で、
私という存在を捉えていくことが必要なことです。
もし、これまでに自分に対する他人の評価が、自分が思い描いているようなコトとなっていないのであれば、それ自体を否定・批判するのではなく、
「他人に対して何が自分の存在をそのように思わせてしまっているのか」
「他人に対して何が自分の存在の評価基準として、印象をもたらせてしまっているのか」を
一段次元高く俯瞰して構造的に捉えるのです。
そうです、
このような視点こそ「プロデューサー視点」ということです!
あなた自身が自分のプロデューサーとなり、自分を思い通りのままに演出していく。
これこそがいわゆる「自己プロデュース」というのです。
他人に対して「自分」という存在をどのような見方をさせて、どのような世界観を他人に語らせるのか。ここに視点を当てる以外はないのですね。
そして最後に、
私が、自己プロデュースに大事なことだと思っているのは、
いかにして「人間的であるか!」です。
これからは「より人間的」な人間が求められる時代です。
今までの常に合理性を求め、追求してきた時代というのはロボットに任せて、
より人間的な人間が価値がある時代となるのです。
そして、この人間的時代のキーワードが、
「スマートクリエイティブ」です。
スマートクリエイティブとは
多才で、多様な分野に旺盛な好奇心を示し、
それでいて専門性と創造力を併せ持った人のこと。
「何かを知っている人」ではなく、
「何も知らなかったとしても、最適解をその場で導ける人」です。
つまり
「Information(インフォメーション)」よりも
「Intelligence(インテリジェンス)」が必要だということです。
高次元の高視点 =「神目線」で自分という存在をプロデュースしていきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月08日
【爪痕から始まる「言葉の悟る微妙な感覚」とは?】
【017】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回の投稿で、
人間は自ら過剰を作り出し、破壊をすることで快楽を得るというお話をさせていただきました。
フランスの哲学者:ジョルジュ・バタイユ
「美しさは凌辱することに快感を覚える」と言っています。
人間というのは、より美しいものを破壊したいと言う欲望があるようです。
初めから「醜いもの」は汚しようがないので、
「ただ醜いもの」だったのか、
それとも、
「元々は美しいもの」だったのか、
相対する2つのタイプによってまったく捉え方が違ったモノへとなっていくのです。
どちらが、どのような捉え方となるのか?
それは、
「ただ醜いもの」のタイプには「ない」
「元々は美しいもの」のタイプには「ある」
ものというように分類ができるということです。
どういうことかをもっと掘り下げます。
それは、「破壊の爪痕」があるのかないのかです。
この「破壊の爪痕」が重要で、ここには物語が成り立つんです。
元々美しかったものを崩したという「物語」に人は魅せられ、そこに快楽を求めてしまうのです。
より強い破壊を感じ取ってしまう。
頭の中で今の醜さをもう一度「美しいもの」へと戻し、
そしてさらにもう一度「醜いもの」へと変化させることで、
より大きな破壊へとはこび、快楽を得ようとする。
そう、わざと自ら「崩す」ことに美しさを見出して快楽を得るのです。
日本には「崩しの美学」なんて言葉もありますよね。
これまでに言われていることは、
“あえて基本を守らない手法でコトを行なっていくこと”
と言った意味で捉えられていると思うのですが、
私は、
「美しいもの」をあえて自らの手で崩し、再び捉え直し再生させる途中に「美しさ」がある。
このような表現なのではないかと、捉えています。
日本の言葉というのは、本当におくゆかしいもので、
「捉え方を規制して、導いていく」と、
「相手に委ねる」ことの絶妙なバランスの上に成り立っています。
「言葉の悟る微妙な感覚」このことが非常に美しく感じるのです。
例えば、
「相手に委ねる」と言っても、完全に手放しにするのではなく、
相手が勝手に想像するように導いてあげる。
あえて、こちら側の主張もせず、
あたかも自分でたどり着いたかのように演出してあげるのです。
全てが「あえて」
あえて、言わず
あえて、わかりにくく
あえて、捉えさせず
あえて、足らずにさせる
「違和感の演出」とでもいいましょうか。
期待と裏切りが、人間を取り込み、そして夢中にさせていくのですね。
人間は言葉の世界に生きています。
ですから決して言葉の世界から出ることはできません。
だからこそ、言葉を取り扱う者には重大な責任が伴うのです。
言葉の世界で生きているという自覚が必要ですね。
では、
言葉の世界の外側とは何か?
それは「本能」の世界です。
人間は、この「本能の世界」からものすごく影響を受けます。
影響を受け続ける「言葉の世界」で生きる私たちは、
「本能」とどう向き合って共存し生きていくのか。
これからますます、
「言葉のセンス」を磨いていくことが重要な時代だと思っています。
自分自身の「言葉」をしっかりと持ちながらいきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回の投稿で、
人間は自ら過剰を作り出し、破壊をすることで快楽を得るというお話をさせていただきました。
フランスの哲学者:ジョルジュ・バタイユ
「美しさは凌辱することに快感を覚える」と言っています。
人間というのは、より美しいものを破壊したいと言う欲望があるようです。
初めから「醜いもの」は汚しようがないので、
「ただ醜いもの」だったのか、
それとも、
「元々は美しいもの」だったのか、
相対する2つのタイプによってまったく捉え方が違ったモノへとなっていくのです。
どちらが、どのような捉え方となるのか?
それは、
「ただ醜いもの」のタイプには「ない」
「元々は美しいもの」のタイプには「ある」
ものというように分類ができるということです。
どういうことかをもっと掘り下げます。
それは、「破壊の爪痕」があるのかないのかです。
この「破壊の爪痕」が重要で、ここには物語が成り立つんです。
元々美しかったものを崩したという「物語」に人は魅せられ、そこに快楽を求めてしまうのです。
より強い破壊を感じ取ってしまう。
頭の中で今の醜さをもう一度「美しいもの」へと戻し、
そしてさらにもう一度「醜いもの」へと変化させることで、
より大きな破壊へとはこび、快楽を得ようとする。
そう、わざと自ら「崩す」ことに美しさを見出して快楽を得るのです。
日本には「崩しの美学」なんて言葉もありますよね。
これまでに言われていることは、
“あえて基本を守らない手法でコトを行なっていくこと”
と言った意味で捉えられていると思うのですが、
私は、
「美しいもの」をあえて自らの手で崩し、再び捉え直し再生させる途中に「美しさ」がある。
このような表現なのではないかと、捉えています。
日本の言葉というのは、本当におくゆかしいもので、
「捉え方を規制して、導いていく」と、
「相手に委ねる」ことの絶妙なバランスの上に成り立っています。
「言葉の悟る微妙な感覚」このことが非常に美しく感じるのです。
例えば、
「相手に委ねる」と言っても、完全に手放しにするのではなく、
相手が勝手に想像するように導いてあげる。
あえて、こちら側の主張もせず、
あたかも自分でたどり着いたかのように演出してあげるのです。
全てが「あえて」
あえて、言わず
あえて、わかりにくく
あえて、捉えさせず
あえて、足らずにさせる
「違和感の演出」とでもいいましょうか。
期待と裏切りが、人間を取り込み、そして夢中にさせていくのですね。
人間は言葉の世界に生きています。
ですから決して言葉の世界から出ることはできません。
だからこそ、言葉を取り扱う者には重大な責任が伴うのです。
言葉の世界で生きているという自覚が必要ですね。
では、
言葉の世界の外側とは何か?
それは「本能」の世界です。
人間は、この「本能の世界」からものすごく影響を受けます。
影響を受け続ける「言葉の世界」で生きる私たちは、
「本能」とどう向き合って共存し生きていくのか。
これからますます、
「言葉のセンス」を磨いていくことが重要な時代だと思っています。
自分自身の「言葉」をしっかりと持ちながらいきましょう!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月07日
【「気づけ!余って溢れてる!」というシグナル!】
【016】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回の投稿で、
自分が素晴らしい存在だと信じすぎないこと。
自分に価値があると思い込みすぎないこと。
このことが重要であるとお伝えいたしましたが、
言い換えると、これは自分を「過剰」に信頼し過ぎてしまっていたと言えるのではないでしょうか。
そしてこの「過剰」が今世の中で大変なことへと変化をしてしまっています。
世の中では今、「過剰 × 過剰」が進みすぎてしまい、
色々なことが溢れ過ぎてしまっている状態なんだと思います。
「過剰 × 過剰な世界」
言葉・モノ・お金・便利・サービス・衣・食・住・悩み・問題 etc.
シェアが出来るコトまで個々に所有していってしまった為、
世の中は、有り余るほどに色々なモノが過剰になり、溢れすぎてしまったのです。
この過剰になりすぎてしまった人間の姿の裏側には一体何があったのでしょうか?
それは、「欲望」です。
人間には欲望があります。
言葉を持つ人間は、
本当は必要のない欲望に流されるまま、過剰を次々と生み出してしまったのです。
例えば、簡単なコトで言えば、着る服や食べるモノ、住む場所までも多くを求めてしまう。
本来は生きるために必要なモノを食べていればいいのに、より美味しいものを求め、
そのためによりお金を稼ぎ、過剰な価値を勝手に作り上げているのです。
「今日は〇〇のステーキが食べたい」「今度は〇〇のお寿司かな」なんて。
そう、全てのコトに対して欲望のまま過剰を求めて行ってしまった。
その結果、多過ぎて余ってしまう。
「ゴミ」などもそうですよね。
便利を過剰なまでに追求していった結果、プラスチックという物質が過剰に普及し、
そこら中に余ってしまって困っている。
その余り(便利の過剰)が、後に環境問題へと発展し人類の首を絞める結果へと過剰に変化する。もちろん文明の発達により、進化することもとても重要なことです。
なんかバランスが崩れてしまったようなイメージでしょうか。
「ない世界」を考えず、不便不便と「ない世界」を無視をしたコトで、
「ある世界」があたかも当然のように、当たり前にあったかのように存在していった。
今、その「ある」が「ない」へと急速に変化をし始めている。
「ある世界」ばかりに目を向けるのではなく「ない世界」も考えさえしていれば、
それが本当に必要なことか、または所有するべきことなのか、
過剰になり過ぎているのではないのかを考えることができるのに、
「ある世界」が当たり前となってしまった私たちは「ない世界」を忘れてしまったのです。
そう「ある」の方ばかりに偏ってしまい、バランスが崩れてしまったのです。
やはり「考え方」や「視点」は偏ってしまうといつかバランスを崩す。
人類はバランスを保つことができるのか。
だから今、問われているのだと思います。
「人間としての本質を」
今自分たちに必要なことはなんなのか。
今自分たちにできることはなにか?
自分以外の人やコトに対してなにができるのか?
一人一人がまずは、しっかりと考えることが重要です。
そして、自分ができることを淡々と行なっていけばいいのだと思います。
フランスの哲学者:ジャン・フランソワ・リオタールは言いました。
「大きな物語」の時代は終わった。
現代に生きる私たちは、
国際化や情報化によって生み出された無数にある、
価値観を認め合いながら、共存しなければならなくなった。
「大きな物語」の時代から、
「小さな物語」の時代へ。
人間は必然的に「過剰」を作り出してしまった。
それはなぜか?
それは欲望を満たすため。
欲望を満たすために過剰を作り出し、それを破壊することで快楽を求めた。
禁止されることを多く作り、それをひたすらに破壊した。
ただただそれだけのために、人間が持つ欲望を満たすだけのために。
「禁止への侵犯」
今時代が一気に変わろうとしています。
こういう時には、大きな決断をするのは避けて、
しっかりと思考する時間を持つことが重要だと考えています。
小さなことをコツコツと、
自分ができることは、なにか必ずあるはずです!
それがきっと、誰かの役に立つのですから。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
フランスの哲学者:ミシェル・フーコー
人間とは、最近の発明である。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回の投稿で、
自分が素晴らしい存在だと信じすぎないこと。
自分に価値があると思い込みすぎないこと。
このことが重要であるとお伝えいたしましたが、
言い換えると、これは自分を「過剰」に信頼し過ぎてしまっていたと言えるのではないでしょうか。
そしてこの「過剰」が今世の中で大変なことへと変化をしてしまっています。
世の中では今、「過剰 × 過剰」が進みすぎてしまい、
色々なことが溢れ過ぎてしまっている状態なんだと思います。
「過剰 × 過剰な世界」
言葉・モノ・お金・便利・サービス・衣・食・住・悩み・問題 etc.
シェアが出来るコトまで個々に所有していってしまった為、
世の中は、有り余るほどに色々なモノが過剰になり、溢れすぎてしまったのです。
この過剰になりすぎてしまった人間の姿の裏側には一体何があったのでしょうか?
それは、「欲望」です。
人間には欲望があります。
言葉を持つ人間は、
本当は必要のない欲望に流されるまま、過剰を次々と生み出してしまったのです。
例えば、簡単なコトで言えば、着る服や食べるモノ、住む場所までも多くを求めてしまう。
本来は生きるために必要なモノを食べていればいいのに、より美味しいものを求め、
そのためによりお金を稼ぎ、過剰な価値を勝手に作り上げているのです。
「今日は〇〇のステーキが食べたい」「今度は〇〇のお寿司かな」なんて。
そう、全てのコトに対して欲望のまま過剰を求めて行ってしまった。
その結果、多過ぎて余ってしまう。
「ゴミ」などもそうですよね。
便利を過剰なまでに追求していった結果、プラスチックという物質が過剰に普及し、
そこら中に余ってしまって困っている。
その余り(便利の過剰)が、後に環境問題へと発展し人類の首を絞める結果へと過剰に変化する。もちろん文明の発達により、進化することもとても重要なことです。
なんかバランスが崩れてしまったようなイメージでしょうか。
「ない世界」を考えず、不便不便と「ない世界」を無視をしたコトで、
「ある世界」があたかも当然のように、当たり前にあったかのように存在していった。
今、その「ある」が「ない」へと急速に変化をし始めている。
「ある世界」ばかりに目を向けるのではなく「ない世界」も考えさえしていれば、
それが本当に必要なことか、または所有するべきことなのか、
過剰になり過ぎているのではないのかを考えることができるのに、
「ある世界」が当たり前となってしまった私たちは「ない世界」を忘れてしまったのです。
そう「ある」の方ばかりに偏ってしまい、バランスが崩れてしまったのです。
やはり「考え方」や「視点」は偏ってしまうといつかバランスを崩す。
人類はバランスを保つことができるのか。
だから今、問われているのだと思います。
「人間としての本質を」
今自分たちに必要なことはなんなのか。
今自分たちにできることはなにか?
自分以外の人やコトに対してなにができるのか?
一人一人がまずは、しっかりと考えることが重要です。
そして、自分ができることを淡々と行なっていけばいいのだと思います。
フランスの哲学者:ジャン・フランソワ・リオタールは言いました。
「大きな物語」の時代は終わった。
現代に生きる私たちは、
国際化や情報化によって生み出された無数にある、
価値観を認め合いながら、共存しなければならなくなった。
「大きな物語」の時代から、
「小さな物語」の時代へ。
人間は必然的に「過剰」を作り出してしまった。
それはなぜか?
それは欲望を満たすため。
欲望を満たすために過剰を作り出し、それを破壊することで快楽を求めた。
禁止されることを多く作り、それをひたすらに破壊した。
ただただそれだけのために、人間が持つ欲望を満たすだけのために。
「禁止への侵犯」
今時代が一気に変わろうとしています。
こういう時には、大きな決断をするのは避けて、
しっかりと思考する時間を持つことが重要だと考えています。
小さなことをコツコツと、
自分ができることは、なにか必ずあるはずです!
それがきっと、誰かの役に立つのですから。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
フランスの哲学者:ミシェル・フーコー
人間とは、最近の発明である。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月06日
【自信はあなたの敵?となる。自分の価値なんていらない!】
【015】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私は、苦手で特に嫌いなことがあります。
それは文章を書くことです。
本当に苦手で、文章を書くことが苦痛で苦痛で仕方ありません。
苦痛でしかないことだから、毎日書くことにしています。
なぜかというと、
とにかく書く力を上げたくて、文章力をつけたいからなんです。
やはり何かを相手に伝える時や情報を発信したい時は、書く力が必要ですし、
この先どのような場面においても必要な力であると感じていますし、
人間は言葉からしかモノゴトを認識することができないからです。
実際に、どのように取り組んでいるかというと、
ただひたすらに「書く」ということをしています。
文章力をあげるためにはきっと、ひたすらに「書く」ことしかないのだと思っていますので、
毎日毎日書いては恥かいて、後悔し反省してはまた書く。
このように、繰り返し繰り返しの学習でしか力をつける方法はないと思い取り組んでいます。
だいたいの目安としては、毎日2,000文字くらいを意識して書くようにしています。
毎日2,000文字というのは、未知の世界ですがこうやって地道に勉強をしていくしかないのですね。
前回の投稿でもお伝えさせていただきましたが、やるかやらないかは結局自分次第ですので。
あと皆さんがよくおっしゃられることなんですが、
文章が書けない原因の一つとしては、「他者からの批判や否定が嫌だ。」
だからあまり書きたくないと言われる方が多くいらっしゃいます。
私自身も、数年前までは本当にこう思ってしまっていました。
自分以外の他者からの批判であったり、否定的なことを言われてしまうと嫌だな、
怖いなと思う気持ちが、書くという行為を拒んでしまうことが多いんですよね。
だから、できる限り他者から変に思われないように、
綺麗に小さく小さくまとまっていこうとしてしまうのです。
そのため、何の面白みもない道を選び、つまらない人生を送るようになってしまう。
こうなると必ず、
もっとメンタルが強ければなんて言う方がいらっしゃいますが、
このメンタルが強いとか弱いといったことが問題ではないのです。
全く気にならなくなる方法があるので、安心してください。
では、他者からの批判や否定的なことに対して、
気にならなくなる「考え方」とはどういったことなのでしょうか?
それは
「なぜ他者の批判や否定的なことなどが、そんなにまで気になってしまうのか」ということを
まずは自ら考えるということが重要なんです。
どういうことかというと、
ものすごく単純なことなのですが、
“『自分には価値がある』と思い込みすぎていると言うことです”
そうなんです、このような人は思い込みのとても強いんです。
自分を価値があって、評価されるべき存在で、いつも人から見られていて、気にされている。
なんていう思い込みがものすごく強い人と言うことです。
だから、他人の目が気になって気になってしょうがない。
「こんなに素晴らしい私という人間の価値を理解できない人間がいるなんて」
と言うようにショック過ぎて理解不能な相手の対処に困っているだけの状態なんです。
他者からの批判や否定的なことが気になるなんていうのは、
ただ単に、自信があるからこそ出てくる感情なんです。要するに反転してるんですね。
もし、本当に自分に自信がないのであれば、批判や否定的なことを言われることなんて想定の範囲内ですから、単純に受け入れられるんですよ。
でも、自己肯定感が低くく、自分のことを肯定できず、そして認めてあげられない人は、
実は自己重要感がものすごく高く、誰よりも自分には価値があると思っている人ということです。自信満々だからこそ、自分の価値を信じ込んでいるからこそ、そうなるんです。
自信があるから、批判に弱い。ただそれだけのことなんです。
でも大丈夫ですよ、誰も見ていません。あなたのことなんて。
相手にされていませんから、安心してくださいね。
だって、周りにいるあなた以外の人は、あなたの価値なんて、どうだっていいんですから。
重要なのは、
自分が素晴らしい存在だと信じすぎないこと。
自分に価値があると思い込みすぎないこと。
もし、批判や否定を受けそうだったら、
「あー、うん。そっかー。そだねー。・・・で何?」ぐらいな感じで、
なんてことない受け止め方をしていけばいいんです。
人間なんて、
みんな自分のことしか考えていません。
このような考え方を一つ持っておくことで、この先少しは楽に進んでいけるのではないでしょうか。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私は、苦手で特に嫌いなことがあります。
それは文章を書くことです。
本当に苦手で、文章を書くことが苦痛で苦痛で仕方ありません。
苦痛でしかないことだから、毎日書くことにしています。
なぜかというと、
とにかく書く力を上げたくて、文章力をつけたいからなんです。
やはり何かを相手に伝える時や情報を発信したい時は、書く力が必要ですし、
この先どのような場面においても必要な力であると感じていますし、
人間は言葉からしかモノゴトを認識することができないからです。
実際に、どのように取り組んでいるかというと、
ただひたすらに「書く」ということをしています。
文章力をあげるためにはきっと、ひたすらに「書く」ことしかないのだと思っていますので、
毎日毎日書いては恥かいて、後悔し反省してはまた書く。
このように、繰り返し繰り返しの学習でしか力をつける方法はないと思い取り組んでいます。
だいたいの目安としては、毎日2,000文字くらいを意識して書くようにしています。
毎日2,000文字というのは、未知の世界ですがこうやって地道に勉強をしていくしかないのですね。
前回の投稿でもお伝えさせていただきましたが、やるかやらないかは結局自分次第ですので。
あと皆さんがよくおっしゃられることなんですが、
文章が書けない原因の一つとしては、「他者からの批判や否定が嫌だ。」
だからあまり書きたくないと言われる方が多くいらっしゃいます。
私自身も、数年前までは本当にこう思ってしまっていました。
自分以外の他者からの批判であったり、否定的なことを言われてしまうと嫌だな、
怖いなと思う気持ちが、書くという行為を拒んでしまうことが多いんですよね。
だから、できる限り他者から変に思われないように、
綺麗に小さく小さくまとまっていこうとしてしまうのです。
そのため、何の面白みもない道を選び、つまらない人生を送るようになってしまう。
こうなると必ず、
もっとメンタルが強ければなんて言う方がいらっしゃいますが、
このメンタルが強いとか弱いといったことが問題ではないのです。
全く気にならなくなる方法があるので、安心してください。
では、他者からの批判や否定的なことに対して、
気にならなくなる「考え方」とはどういったことなのでしょうか?
それは
「なぜ他者の批判や否定的なことなどが、そんなにまで気になってしまうのか」ということを
まずは自ら考えるということが重要なんです。
どういうことかというと、
ものすごく単純なことなのですが、
“『自分には価値がある』と思い込みすぎていると言うことです”
そうなんです、このような人は思い込みのとても強いんです。
自分を価値があって、評価されるべき存在で、いつも人から見られていて、気にされている。
なんていう思い込みがものすごく強い人と言うことです。
だから、他人の目が気になって気になってしょうがない。
「こんなに素晴らしい私という人間の価値を理解できない人間がいるなんて」
と言うようにショック過ぎて理解不能な相手の対処に困っているだけの状態なんです。
他者からの批判や否定的なことが気になるなんていうのは、
ただ単に、自信があるからこそ出てくる感情なんです。要するに反転してるんですね。
もし、本当に自分に自信がないのであれば、批判や否定的なことを言われることなんて想定の範囲内ですから、単純に受け入れられるんですよ。
でも、自己肯定感が低くく、自分のことを肯定できず、そして認めてあげられない人は、
実は自己重要感がものすごく高く、誰よりも自分には価値があると思っている人ということです。自信満々だからこそ、自分の価値を信じ込んでいるからこそ、そうなるんです。
自信があるから、批判に弱い。ただそれだけのことなんです。
でも大丈夫ですよ、誰も見ていません。あなたのことなんて。
相手にされていませんから、安心してくださいね。
だって、周りにいるあなた以外の人は、あなたの価値なんて、どうだっていいんですから。
重要なのは、
自分が素晴らしい存在だと信じすぎないこと。
自分に価値があると思い込みすぎないこと。
もし、批判や否定を受けそうだったら、
「あー、うん。そっかー。そだねー。・・・で何?」ぐらいな感じで、
なんてことない受け止め方をしていけばいいんです。
人間なんて、
みんな自分のことしか考えていません。
このような考え方を一つ持っておくことで、この先少しは楽に進んでいけるのではないでしょうか。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月05日
【「相対性」と「絶対性」あなたはどっちを選ぶ?全てはあなた次第です!】
【014】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
何事もそうですが、あなたの考え方次第で見えてくる世界は変わります。
私のクライアント様にもいらっしゃいましたが、
漠然と「すごい人なりたいんです!」という方がいらっしゃいます。
ん?「すごい人」?
もちろん、どのような人を目指そうとその方の勝手ですし、自由であって他人が決めることではないので、賛成も反対もいたしませんが、
こういった質問で返しています。
本当になりたいのは、
「すごい人」ですか?
それとも
「すてきな人」ですか? と。
この両者を私のこのように考えています。
「すごい人」というのは、目指しても本当にキリがないこと。
「すてきな人」というのは、自分の理念を確立させることで成り立つこと。
どういうことかというと、
「すごい人」とは、あなた以外の他との関係性の中にあって、
他者による主観的に認識される認識事象です。
また、
他者の個々による共通の事象や環境を想定することによってのみ成り立つ認識です。
一方で、
「すてきな人」というのは、あなたの絶対性がそれを定義できます。
あなたにとって「すてきな人」という理念(根本的な考え方)を確立させることで、
評価基準(モノサシ)は世界(社会)の相対性から脱することができるのです。
なので、
この二つの捉え方としては「絶対性」視点なのか「相対性」視点なのかの違いというです。
この「絶対性」と「相対性」の話しを続けます。
私たちが暮らしている日本の社会では
「相対性」をものすごく大切にしている人が多いと感じています。
例えば、
「何をするか」というより、
「どこにいるか」に重きを置くのです。
言い換えると、
「何の仕事をしたいのか」ではなく、
社会人として
「どこに属していたいか」ということです。
「何ができるか」より「どの地位にいるのか」を重視する社会。ということですね。
このことについては、
ものすごく違和感を感じますし、疑問や危機感を感じてしまいます。
社会の中で優位なポジションに属することに必死になり、
本来目指すべき、目指したかった姿の存在を忘れ、
人として守るべき道義に気づいた頃には、気魄が衰えてしまっている。
やはり常に、
自らに問いを投げかけ、世界に目を向け「こうなりたい!いや、こうなろう!」という
理念を追求することこそ、大切なことなのではないかと感じています。
今日まで私たちの創造性を養ってくれた偉大なアーティストのように、
絶対性の中で理念を追求して生み出された結果が =「すてきな人」となるのだと
私は思っています。
そして「相対性」に偏り過ぎてしまった今、
この世界で起こっている事態の中で、各個人個人それぞれに「何ができるか」が
問われているように感じます。
とにかく、自分が自分以外の誰かの役に立ちそうなことを考えて、
そして実行していけばいいのだと思います。
今必要なのは「すてきな人」同士が繋がり合うこと!
私たちの人生の大半は、個人ではなく集団によって創られています。
人生のほとんどが与えられたもので成り立っているとしても、
個人個人が意識的に生きていれば独自の方法により、
人生を組み立てて行く道は残されているのです。
そう『全てはあなた次第』です。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
何事もそうですが、あなたの考え方次第で見えてくる世界は変わります。
私のクライアント様にもいらっしゃいましたが、
漠然と「すごい人なりたいんです!」という方がいらっしゃいます。
ん?「すごい人」?
もちろん、どのような人を目指そうとその方の勝手ですし、自由であって他人が決めることではないので、賛成も反対もいたしませんが、
こういった質問で返しています。
本当になりたいのは、
「すごい人」ですか?
それとも
「すてきな人」ですか? と。
この両者を私のこのように考えています。
「すごい人」というのは、目指しても本当にキリがないこと。
「すてきな人」というのは、自分の理念を確立させることで成り立つこと。
どういうことかというと、
「すごい人」とは、あなた以外の他との関係性の中にあって、
他者による主観的に認識される認識事象です。
また、
他者の個々による共通の事象や環境を想定することによってのみ成り立つ認識です。
一方で、
「すてきな人」というのは、あなたの絶対性がそれを定義できます。
あなたにとって「すてきな人」という理念(根本的な考え方)を確立させることで、
評価基準(モノサシ)は世界(社会)の相対性から脱することができるのです。
なので、
この二つの捉え方としては「絶対性」視点なのか「相対性」視点なのかの違いというです。
この「絶対性」と「相対性」の話しを続けます。
私たちが暮らしている日本の社会では
「相対性」をものすごく大切にしている人が多いと感じています。
例えば、
「何をするか」というより、
「どこにいるか」に重きを置くのです。
言い換えると、
「何の仕事をしたいのか」ではなく、
社会人として
「どこに属していたいか」ということです。
「何ができるか」より「どの地位にいるのか」を重視する社会。ということですね。
このことについては、
ものすごく違和感を感じますし、疑問や危機感を感じてしまいます。
社会の中で優位なポジションに属することに必死になり、
本来目指すべき、目指したかった姿の存在を忘れ、
人として守るべき道義に気づいた頃には、気魄が衰えてしまっている。
やはり常に、
自らに問いを投げかけ、世界に目を向け「こうなりたい!いや、こうなろう!」という
理念を追求することこそ、大切なことなのではないかと感じています。
今日まで私たちの創造性を養ってくれた偉大なアーティストのように、
絶対性の中で理念を追求して生み出された結果が =「すてきな人」となるのだと
私は思っています。
そして「相対性」に偏り過ぎてしまった今、
この世界で起こっている事態の中で、各個人個人それぞれに「何ができるか」が
問われているように感じます。
とにかく、自分が自分以外の誰かの役に立ちそうなことを考えて、
そして実行していけばいいのだと思います。
今必要なのは「すてきな人」同士が繋がり合うこと!
私たちの人生の大半は、個人ではなく集団によって創られています。
人生のほとんどが与えられたもので成り立っているとしても、
個人個人が意識的に生きていれば独自の方法により、
人生を組み立てて行く道は残されているのです。
そう『全てはあなた次第』です。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月04日
【固定点を持たないという唯一の固定点を持つ「不安定型人間」とは?】
【013】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回、不安定な自分になることも受け入れつつとお伝えして終わりました。
この不安定とはなんなのか?
それは、不安定 =「視野が広い」ということです。
だから逆に、安定とは = 視野が狭いということになるわけです。
どういうことなのか。詳しくみていきましょう。
以前の投稿で、モノゴトは「表裏一体」というお話をしたか、していないか覚えていませんが、おさらいをしておきます。
例えば、
「表」があるから「裏」がある。
「光」があるから「影」がある。
「上」があるから「下」がある。
「前」があるから「後」がある。
「右」があるから、、、まあもういいですね。(ちなみに 左がある。。。)
つまり、
モノゴトは二項対立の関係にあるので、片方がなくなるともう片方もなくなってしまう。
なくなると言うより認識ができなくなるわけなんです。
その中でも、
「善」と「悪」とか
「生」と「死」とか
「真」と「偽」とか
「正常」と「異常」とか。
こういったことも二項対立の関係にあるんですが、
人間というのは、不思議なもので、常に優劣をつけたがるんです。
「どちらがいいのか?」を自分の中に持っていないとなんか不安で、
意思決定ができなくなってしまう。
いわゆるこれが、固定点を持つということですね。
優劣なんて、人間が勝手に作り出した虚像の世界観でしかないのに。。。拘ってしまう。
この「二項対立」については、また今度詳しくお伝えしたいと思います。
フランスの哲学者 : ジャック・デリダ
二項対立の優劣は、反転可能である。
正義は、悪の犠牲の上に成り立つ。
ついつい、寄り道してしまいます。申し訳ありません話を戻します。
安定というのは、一つのことを信じていること。
言い換えるとモノの両極あるうちの片極だけを見ている状態のことです。
不安定というのは、一つのことだけでは信じられずいろいろな角度方向からモノゴトを見ること。常に両極を見ている状態のことです。
安定と不安定の違いは、
二項対立するモノを片極みるのか、両極みるのかの違いということです。
例えば、
工場で生産された製品に不具合が発生したとしましょう。
もちろん原因はなんだったのかを考えますよね。
そこで、
「固定点を持つ安定型人間」は、原因があるという視点を持っているので、原因をすぐに見つけ出します。
このタイプは、簡単に手前にあるものを原因と決めつける特徴を持っています。
一方で、
「固定点を持たない不安定型人間」は、原因があると原因なんてないという視点を持っているので、原因をすぐに特定しないのです。
このタイプは、原因らしきものを信用せず、原因として決めつけないので、いつまでも探し続けるという特徴を持っています。
さて、どちらのタイプの方が視野が広いと思いますか?
考えてみてくださいね。
もう一つ例をあげてみます。
ビジネスにおいて、「成功」したとしましょう。
「固定点を持つ安定型人間」は、今まで苦労してきてやっと成功した!このやり方がよかったんだ。と一つのことに安心しとどまります。
一方で、
「固定点を持たない不安定型人間」は、成功した理由なんてない、成功したかどうかもわからない。と常にとどまることをしません。
ということでまとめてみますと、
・固定点を持つ = 思考停止を意味する。(原因を見つけた時点で思考が停止する)
・固定点を持たない = 思考を常に巡らせる。(原因かどうかを疑うので思考が常に巡る)
考え方としてもみてみると、
・固定点を持つ = 片極を考える。
・固定点を持たない = 両極を考える。
というようになります。
最後にもう一つ、
あなたは海の中にいます。
安定(固定)とは、その場で立ち泳ぎをしてとどまっている状態。
不安定(未固定)とは、とどまらずに流れのまま浮いている状態。
このような例え方もできるのです。
成功者の影には、必ず失敗者がいます。
1位の人の影には、必ずそれ以外の人がいます。
こうして二項対立は成り立っているのです。
影の「お”陰”様で」認識ができる。
ここで勘違いをしないで欲しいのは、どちらがいいとか悪いという話ではないということです。
別にどちらでもいいのです。考えて捉えて解釈するのはあなたですから。
そう、全てはあなた次第だからです。
一つの考え方として、自分自身を俯瞰して見て、自分という概念が持つ固定点は、
いったい何なのかを一度考えてみることも、たまにはよいのではないでしょうか。
「全ては自分次第」です!!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回、不安定な自分になることも受け入れつつとお伝えして終わりました。
この不安定とはなんなのか?
それは、不安定 =「視野が広い」ということです。
だから逆に、安定とは = 視野が狭いということになるわけです。
どういうことなのか。詳しくみていきましょう。
以前の投稿で、モノゴトは「表裏一体」というお話をしたか、していないか覚えていませんが、おさらいをしておきます。
例えば、
「表」があるから「裏」がある。
「光」があるから「影」がある。
「上」があるから「下」がある。
「前」があるから「後」がある。
「右」があるから、、、まあもういいですね。(ちなみに 左がある。。。)
つまり、
モノゴトは二項対立の関係にあるので、片方がなくなるともう片方もなくなってしまう。
なくなると言うより認識ができなくなるわけなんです。
その中でも、
「善」と「悪」とか
「生」と「死」とか
「真」と「偽」とか
「正常」と「異常」とか。
こういったことも二項対立の関係にあるんですが、
人間というのは、不思議なもので、常に優劣をつけたがるんです。
「どちらがいいのか?」を自分の中に持っていないとなんか不安で、
意思決定ができなくなってしまう。
いわゆるこれが、固定点を持つということですね。
優劣なんて、人間が勝手に作り出した虚像の世界観でしかないのに。。。拘ってしまう。
この「二項対立」については、また今度詳しくお伝えしたいと思います。
フランスの哲学者 : ジャック・デリダ
二項対立の優劣は、反転可能である。
正義は、悪の犠牲の上に成り立つ。
ついつい、寄り道してしまいます。申し訳ありません話を戻します。
安定というのは、一つのことを信じていること。
言い換えるとモノの両極あるうちの片極だけを見ている状態のことです。
不安定というのは、一つのことだけでは信じられずいろいろな角度方向からモノゴトを見ること。常に両極を見ている状態のことです。
安定と不安定の違いは、
二項対立するモノを片極みるのか、両極みるのかの違いということです。
例えば、
工場で生産された製品に不具合が発生したとしましょう。
もちろん原因はなんだったのかを考えますよね。
そこで、
「固定点を持つ安定型人間」は、原因があるという視点を持っているので、原因をすぐに見つけ出します。
このタイプは、簡単に手前にあるものを原因と決めつける特徴を持っています。
一方で、
「固定点を持たない不安定型人間」は、原因があると原因なんてないという視点を持っているので、原因をすぐに特定しないのです。
このタイプは、原因らしきものを信用せず、原因として決めつけないので、いつまでも探し続けるという特徴を持っています。
さて、どちらのタイプの方が視野が広いと思いますか?
考えてみてくださいね。
もう一つ例をあげてみます。
ビジネスにおいて、「成功」したとしましょう。
「固定点を持つ安定型人間」は、今まで苦労してきてやっと成功した!このやり方がよかったんだ。と一つのことに安心しとどまります。
一方で、
「固定点を持たない不安定型人間」は、成功した理由なんてない、成功したかどうかもわからない。と常にとどまることをしません。
ということでまとめてみますと、
・固定点を持つ = 思考停止を意味する。(原因を見つけた時点で思考が停止する)
・固定点を持たない = 思考を常に巡らせる。(原因かどうかを疑うので思考が常に巡る)
考え方としてもみてみると、
・固定点を持つ = 片極を考える。
・固定点を持たない = 両極を考える。
というようになります。
最後にもう一つ、
あなたは海の中にいます。
安定(固定)とは、その場で立ち泳ぎをしてとどまっている状態。
不安定(未固定)とは、とどまらずに流れのまま浮いている状態。
このような例え方もできるのです。
成功者の影には、必ず失敗者がいます。
1位の人の影には、必ずそれ以外の人がいます。
こうして二項対立は成り立っているのです。
影の「お”陰”様で」認識ができる。
ここで勘違いをしないで欲しいのは、どちらがいいとか悪いという話ではないということです。
別にどちらでもいいのです。考えて捉えて解釈するのはあなたですから。
そう、全てはあなた次第だからです。
一つの考え方として、自分自身を俯瞰して見て、自分という概念が持つ固定点は、
いったい何なのかを一度考えてみることも、たまにはよいのではないでしょうか。
「全ては自分次第」です!!
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月03日
【「こっちを見なさい!」ってむず痒い!安定?不安定?】
【012】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回、「こっちを見なさい!」って強引に押してけてくる人について少しお伝えしました。
自分の意見があたかも正しいかのように、押し付けてくる人がいらっしゃいます。
このような方がよく使われるキーワードとして「幸せ」と言う言葉があります。
こっちを見れば幸せだよと言わんばかりに押し付けてきます。
ではここで言う「幸せ」とはなんでしょうか?
人それぞれに言葉の解釈の仕方が違うのに、
相手が「幸せになりたいかどうか」なんてわからないのに、
強引に統一しようとするんですよ、不思議ですね。
あなたの「幸せ」と私の「幸せ」は同じなんでしょうか。
同じ意味を持っているのでしょうか。
違いますよね。
というより、比べようのないことですよね。
というより、わざわざ比べなくていいですね。
本来は、
幸せって思いたければ思えばいいし、思いたくなければ思わなくていい。
思いたいか思いたくないかなんて、自分が決めればいいこと。
自分の勝手でいいってことなんですけど、「これが幸せなんだ!」って押し付けてしまうんですね。自己重要感が高くて、自己肯定感が低い方の特徴でもあります。
言葉を変えて例えてみると、
「孤独」という言葉があります。
「孤独」という言葉を聞いて「いいねー」って思う人と、「寂しー」って思う人がいるとします。
これも、まー簡単に言うとどちらでもいいってことです。
まーどうでもいいんですよ、別に相手がどう思っていようが、
あなたには関係のないことですから。
でも多くの人は、自分の意見に共感させようと必死になってしまう。
冒頭にもあったように「こっちを見なさい!」ですね。こうやって必死に向かせようとする。
自分が感じたこと・思ったことが正しいんだよ!ってものすごく必死になってしまう。
あーむず痒いです。そして気持ちが悪い。
このように、
世の中の多くの方は多数派を好み、少数派を避けます。
例えば、10人でクイズをやります。赤と青どちらが正しいでしょうか?と問われるとして、
あなたは「赤だと思うけど自信がありません」そう思って周りの9人を見ると全ての人が「青」と答えている。
あなたは赤を答えとして出せますでしょうか?
例えば、ケーキ屋さんで100円と300円と1000円のケーキが販売されて列をなしています。
100円のケーキの列には誰も並んでいません。
300円のケーキの列には多くの人が並んでいます。
1000円のケーキの列には7,8人並んでいます。
さあ、あなたはどの列に並び、ケーキを買いますか?
なんか、100円のケーキの列に並びくく買い辛いですね。本当はどうでもいいのに。
自分の意見を押し付けてしまう人もそうですが、
世の中では、いろんなことが知らず識らずのうちに「こうゆうものなんだ」と決められ、
そう見せられている。
勝手に決められちゃっている、とてもとても窮屈な世界なんです。
要するに、様々なことが信じ込まされているだけの世界なんですよね、これがいいよって。
これが正しいよって。
こういったことをうまく言語化してビジネスとして回している人が多いから、
つまらない固定点に安心させられている人が絡め取られてしまうんですね。
まあ「当たり前」って思わされているだけなんです。
もう一度よく考えてみましょう。
・結果を出した人が素晴らしいの?
・行動する人がえらいの?
・1日3食とか。朝昼晩じゃなきゃダメなの?
・「自分の人生は自分で決めないと」とよく言われるけどなんで?
いいんじゃないでしょうか、別に他人に決めてもらっても。
案外楽かもしれませんしね。
私は絶対に嫌ですけど。
なんとなく決められていることをあげだすときりがないですが、
これらは誰が決めたんでしょうか。
だって、
そうやって思いたいから、そう決めた人がそう思っていればいいだけのことですよね。
でも、世の中は固定点の押し付けが止まらないのです。
という、私の意見についても、
「何も結論づけることなんてできない」
「何も結論づけることなんてできない」とも結論付けられないし、
「何も結論づけることなんてできない」とも結論付けられないとも結論付けられないし、
「何も結論づけることなんてできない」とも結論付けられないとも結論付けられないとも結論付けられないし・・・・・。
無限ループの不安定な世界へようこそ!
人間って自分の見ている世界が絶対で、自分の固定点から離れることが不安でしょうがない。
でもすごく勝手で、
自分自身の人生を変えたいと思っている時の「変化」は良く捉え、
今世界が何かしらの力により「変化」をしていることには困ってしまっている。
この「変化」は一体何が違うのだろうか?
人間てとっても都合がいいですね。
この先、不安定な自分になることも受け入れつつ、考えていかなくてはいけません。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
前回、「こっちを見なさい!」って強引に押してけてくる人について少しお伝えしました。
自分の意見があたかも正しいかのように、押し付けてくる人がいらっしゃいます。
このような方がよく使われるキーワードとして「幸せ」と言う言葉があります。
こっちを見れば幸せだよと言わんばかりに押し付けてきます。
ではここで言う「幸せ」とはなんでしょうか?
人それぞれに言葉の解釈の仕方が違うのに、
相手が「幸せになりたいかどうか」なんてわからないのに、
強引に統一しようとするんですよ、不思議ですね。
あなたの「幸せ」と私の「幸せ」は同じなんでしょうか。
同じ意味を持っているのでしょうか。
違いますよね。
というより、比べようのないことですよね。
というより、わざわざ比べなくていいですね。
本来は、
幸せって思いたければ思えばいいし、思いたくなければ思わなくていい。
思いたいか思いたくないかなんて、自分が決めればいいこと。
自分の勝手でいいってことなんですけど、「これが幸せなんだ!」って押し付けてしまうんですね。自己重要感が高くて、自己肯定感が低い方の特徴でもあります。
言葉を変えて例えてみると、
「孤独」という言葉があります。
「孤独」という言葉を聞いて「いいねー」って思う人と、「寂しー」って思う人がいるとします。
これも、まー簡単に言うとどちらでもいいってことです。
まーどうでもいいんですよ、別に相手がどう思っていようが、
あなたには関係のないことですから。
でも多くの人は、自分の意見に共感させようと必死になってしまう。
冒頭にもあったように「こっちを見なさい!」ですね。こうやって必死に向かせようとする。
自分が感じたこと・思ったことが正しいんだよ!ってものすごく必死になってしまう。
あーむず痒いです。そして気持ちが悪い。
このように、
世の中の多くの方は多数派を好み、少数派を避けます。
例えば、10人でクイズをやります。赤と青どちらが正しいでしょうか?と問われるとして、
あなたは「赤だと思うけど自信がありません」そう思って周りの9人を見ると全ての人が「青」と答えている。
あなたは赤を答えとして出せますでしょうか?
例えば、ケーキ屋さんで100円と300円と1000円のケーキが販売されて列をなしています。
100円のケーキの列には誰も並んでいません。
300円のケーキの列には多くの人が並んでいます。
1000円のケーキの列には7,8人並んでいます。
さあ、あなたはどの列に並び、ケーキを買いますか?
なんか、100円のケーキの列に並びくく買い辛いですね。本当はどうでもいいのに。
自分の意見を押し付けてしまう人もそうですが、
世の中では、いろんなことが知らず識らずのうちに「こうゆうものなんだ」と決められ、
そう見せられている。
勝手に決められちゃっている、とてもとても窮屈な世界なんです。
要するに、様々なことが信じ込まされているだけの世界なんですよね、これがいいよって。
これが正しいよって。
こういったことをうまく言語化してビジネスとして回している人が多いから、
つまらない固定点に安心させられている人が絡め取られてしまうんですね。
まあ「当たり前」って思わされているだけなんです。
もう一度よく考えてみましょう。
・結果を出した人が素晴らしいの?
・行動する人がえらいの?
・1日3食とか。朝昼晩じゃなきゃダメなの?
・「自分の人生は自分で決めないと」とよく言われるけどなんで?
いいんじゃないでしょうか、別に他人に決めてもらっても。
案外楽かもしれませんしね。
私は絶対に嫌ですけど。
なんとなく決められていることをあげだすときりがないですが、
これらは誰が決めたんでしょうか。
だって、
そうやって思いたいから、そう決めた人がそう思っていればいいだけのことですよね。
でも、世の中は固定点の押し付けが止まらないのです。
という、私の意見についても、
「何も結論づけることなんてできない」
「何も結論づけることなんてできない」とも結論付けられないし、
「何も結論づけることなんてできない」とも結論付けられないとも結論付けられないし、
「何も結論づけることなんてできない」とも結論付けられないとも結論付けられないとも結論付けられないし・・・・・。
無限ループの不安定な世界へようこそ!
人間って自分の見ている世界が絶対で、自分の固定点から離れることが不安でしょうがない。
でもすごく勝手で、
自分自身の人生を変えたいと思っている時の「変化」は良く捉え、
今世界が何かしらの力により「変化」をしていることには困ってしまっている。
この「変化」は一体何が違うのだろうか?
人間てとっても都合がいいですね。
この先、不安定な自分になることも受け入れつつ、考えていかなくてはいけません。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月02日
【自分なんてどうでもいい、相手にとってどうかが全てだ!】
【011】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
あなたは今、仕事が楽しいですか?
朝からすいません。めちゃくちゃベタな質問からスタートしてしまいました。
ですが、こういった質問に結構な確率で遭遇しますし、
その度に、質問自体が終わっているなと思ってしまいます。
私は、仕事が「楽しい」なんて、今まで考えたことがないんです。
でも、誤解しないでください、今の仕事に信念もありますし、とても好きです。
自分で選択してきた道を試行錯誤しながら今まで進んできましたから。
ですが、とても「楽しい」なんていう言葉で表現できるものではありません。
毎日毎日、プレッシャーと自己否定で、満足することはないですし後悔の連続、
いつか自分で納得のできるレベルにいきたいと思いながら向き合い続けているだけなのです。
でもこうも考えていて、自分の仕事に納得をしてしまったら終わりだとも思っています。
よく「この仕事は天職です」なんて言っていらっしゃる方がいますが、
私が考える「天職」とは、他人から評価されるときに使う言葉ではないのかと考えています。
人生をかけて思考し試行錯誤しやり切った後に、自分以外の人から評価されるモノではないのかと。
「自分が楽しい=天職」ではないと思っています。
もし今、自分の仕事が楽しくないなーって、悩んでいる人がいるなら、
そもそも、その問い自体が間違っているので、いますぐにそれを捨ててしまえば問題はなくなり解決します。
このような視点から見れば、世の中には終わっている質問やコトばかりだと思います。
この流れでもう少しお伝えすると、
あなたに対して無理やりに「こっちを見なさい!」なんて強制をするかのように、
あなたには「ない世界」をあえて知らせてくる強引な方っていらっしゃいますね。
言い換えるならば「悪意なき悪意」の持ち主。
自分では、あなたに対していいことをしていると思い込んでいて、「知ること」が正義だと思っている人。
そう、自己重要感を満たしたいだけの人。
自分の「知らせてあげている」という行為が、あなたに対して良い世界を見せてあげている、
教えてあげているんだと思い、そこへ導いてあげているように感じているため、
本人は、なんの躊躇もなくそれをぶつけくるのです。
自分があなたの役に立っている、自分のおかげであなたの人生が良くなっている、
自分はあなたから感謝される人間なんだ。って思いたいからそうしているだけの人。
こう言った人もまた、終わっているなと思うわけです。
強引に知ってしまったことによって、かえって不幸となって、余計な問題に悩んでしまう。
「知らぬが仏」なんて言葉もありますが、知らなかった時の方が幸せだったことなんて、
世の中には沢山あるわけです。
結局は自分ではなく、相手がどうなのか、どう感じるのかが全てあるということです。
私たちは、こういった世界に生きているのです。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
あなたは今、仕事が楽しいですか?
朝からすいません。めちゃくちゃベタな質問からスタートしてしまいました。
ですが、こういった質問に結構な確率で遭遇しますし、
その度に、質問自体が終わっているなと思ってしまいます。
私は、仕事が「楽しい」なんて、今まで考えたことがないんです。
でも、誤解しないでください、今の仕事に信念もありますし、とても好きです。
自分で選択してきた道を試行錯誤しながら今まで進んできましたから。
ですが、とても「楽しい」なんていう言葉で表現できるものではありません。
毎日毎日、プレッシャーと自己否定で、満足することはないですし後悔の連続、
いつか自分で納得のできるレベルにいきたいと思いながら向き合い続けているだけなのです。
でもこうも考えていて、自分の仕事に納得をしてしまったら終わりだとも思っています。
よく「この仕事は天職です」なんて言っていらっしゃる方がいますが、
私が考える「天職」とは、他人から評価されるときに使う言葉ではないのかと考えています。
人生をかけて思考し試行錯誤しやり切った後に、自分以外の人から評価されるモノではないのかと。
「自分が楽しい=天職」ではないと思っています。
もし今、自分の仕事が楽しくないなーって、悩んでいる人がいるなら、
そもそも、その問い自体が間違っているので、いますぐにそれを捨ててしまえば問題はなくなり解決します。
このような視点から見れば、世の中には終わっている質問やコトばかりだと思います。
この流れでもう少しお伝えすると、
あなたに対して無理やりに「こっちを見なさい!」なんて強制をするかのように、
あなたには「ない世界」をあえて知らせてくる強引な方っていらっしゃいますね。
言い換えるならば「悪意なき悪意」の持ち主。
自分では、あなたに対していいことをしていると思い込んでいて、「知ること」が正義だと思っている人。
そう、自己重要感を満たしたいだけの人。
自分の「知らせてあげている」という行為が、あなたに対して良い世界を見せてあげている、
教えてあげているんだと思い、そこへ導いてあげているように感じているため、
本人は、なんの躊躇もなくそれをぶつけくるのです。
自分があなたの役に立っている、自分のおかげであなたの人生が良くなっている、
自分はあなたから感謝される人間なんだ。って思いたいからそうしているだけの人。
こう言った人もまた、終わっているなと思うわけです。
強引に知ってしまったことによって、かえって不幸となって、余計な問題に悩んでしまう。
「知らぬが仏」なんて言葉もありますが、知らなかった時の方が幸せだったことなんて、
世の中には沢山あるわけです。
結局は自分ではなく、相手がどうなのか、どう感じるのかが全てあるということです。
私たちは、こういった世界に生きているのです。
ゆっくりで大丈夫です。しっかりと行なっていきましょう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!