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2020年05月21日
【目に見えるモノと目に見えないモノ。どちらの集合体なのか?】
【030】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
仕事柄よく移動をするのですが、移動手段としては電車を多く使用します。
電車の窓から町並みを見るのが好きなんですが、いつも思うことがあるんです。
特に古い町並みの時、
あの家・ビルを建てた人はまだ生きているのかな?
あの川を整備した人は・・・?などなど想像をしてしまう。
みんな死んでしまっていると思うと恐ろしいんですよね。
でも時が経てば人も古くなり、建物も古くなっていく。
時間が経てば、当然今あるものは古くなっていくのです。
自分の持ち時間って一体あとどのくらいあるのだろうか・・・
「時」が経っていくことは当たり前というか、如何しようも無い現実というか。
そもそも「時」って一体なんだろう?
「時」って思った瞬間から「過去」になってしまう。
フランスの哲学者 : アンリ・ベルクソン
時間とはひろがりをもつ非空間的な空間である「純粋持続」である。
時間と記憶の間
「流れた時間」は過去や経験として「空間化された時間=過去」
「流れる時間」は今現在の一歩先「純粋な本質の時間=未来」
時間とは、出来事や変化を認識するための基礎的な概念。
ときのあいだと書く「時間」
世の中には「目に見えるモノ」と「目に見えないモノ」があります。
「目に見えるモノ」は知覚できるモノ、
「目に見えないモノ」は知覚できないモノということですが、
私たちが生きているこの世界は知覚できるモノの集合体、
知覚できるモノで成り立っているということです。
そして、
「目に見えないモノ」というのは、
知覚できるモノの背後で世界を操っているという風に考えることができます。
この背後で操っている正体が「時間」ではないでしょうか。
例えば時間がない世界を想像できますか?
想像できないですよね。
「時間」とは捉えることが、とても厄介な存在ですが、
先人たちが思考し、体験などをもとに考えだしてくれた、
今や世界で共通認識となっていて時間をカタチとしてくれたのが「時計」です。
知覚の中の視覚を利用することで唯一捉えたことにしています。
そう、人間は「時計」を見ることによって「時間」を捉えたことにしているのです。
目に見えない、カタチのない存在だからこそ捉え流必要があったのですね。
時間という知覚できないモノがない世界もまた成り立たない。
よって、この世界は知覚できるモノ・知覚できないモノの集合体で成り立っているのです。
[アンディ・ウォーホル]
時間について
時折り
時効まで刑に服す
時間を計る
週末
時期を待てば
間もなく
十分に間に合って
合間
度々
一生
時に晒された
時を過ごす
足踏み
時間を稼ぐ
時を刻む
間に合って
直に
休み
タイムと言う
再開
タイムカード
間隔
時差帯
前
その間
その後
常時
僕にとって最高の時というのは金を使って始末しなくてはならないような問題がない時だ。
あなたは「時」をどのように捉えていますか?
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
仕事柄よく移動をするのですが、移動手段としては電車を多く使用します。
電車の窓から町並みを見るのが好きなんですが、いつも思うことがあるんです。
特に古い町並みの時、
あの家・ビルを建てた人はまだ生きているのかな?
あの川を整備した人は・・・?などなど想像をしてしまう。
みんな死んでしまっていると思うと恐ろしいんですよね。
でも時が経てば人も古くなり、建物も古くなっていく。
時間が経てば、当然今あるものは古くなっていくのです。
自分の持ち時間って一体あとどのくらいあるのだろうか・・・
「時」が経っていくことは当たり前というか、如何しようも無い現実というか。
そもそも「時」って一体なんだろう?
「時」って思った瞬間から「過去」になってしまう。
フランスの哲学者 : アンリ・ベルクソン
時間とはひろがりをもつ非空間的な空間である「純粋持続」である。
時間と記憶の間
「流れた時間」は過去や経験として「空間化された時間=過去」
「流れる時間」は今現在の一歩先「純粋な本質の時間=未来」
時間とは、出来事や変化を認識するための基礎的な概念。
ときのあいだと書く「時間」
世の中には「目に見えるモノ」と「目に見えないモノ」があります。
「目に見えるモノ」は知覚できるモノ、
「目に見えないモノ」は知覚できないモノということですが、
私たちが生きているこの世界は知覚できるモノの集合体、
知覚できるモノで成り立っているということです。
そして、
「目に見えないモノ」というのは、
知覚できるモノの背後で世界を操っているという風に考えることができます。
この背後で操っている正体が「時間」ではないでしょうか。
例えば時間がない世界を想像できますか?
想像できないですよね。
「時間」とは捉えることが、とても厄介な存在ですが、
先人たちが思考し、体験などをもとに考えだしてくれた、
今や世界で共通認識となっていて時間をカタチとしてくれたのが「時計」です。
知覚の中の視覚を利用することで唯一捉えたことにしています。
そう、人間は「時計」を見ることによって「時間」を捉えたことにしているのです。
目に見えない、カタチのない存在だからこそ捉え流必要があったのですね。
時間という知覚できないモノがない世界もまた成り立たない。
よって、この世界は知覚できるモノ・知覚できないモノの集合体で成り立っているのです。
[アンディ・ウォーホル]
時間について
時折り
時効まで刑に服す
時間を計る
週末
時期を待てば
間もなく
十分に間に合って
合間
度々
一生
時に晒された
時を過ごす
足踏み
時間を稼ぐ
時を刻む
間に合って
直に
休み
タイムと言う
再開
タイムカード
間隔
時差帯
前
その間
その後
常時
僕にとって最高の時というのは金を使って始末しなくてはならないような問題がない時だ。
あなたは「時」をどのように捉えていますか?
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
価格:90,376円 |
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2020年05月20日
【事実なんてない世界なのにジャッチメントが必要。あなたはどう?】
【029】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「何で正しいって勝手に決めるの?」「別にいいでしょ」
なんて声が聞こえてきます。
ナニゴトもそうですが、
ジャッチメントをしたくなりますよね、不思議と。
正しいとか正しくないとか、決めないでそのまま放置ができないというか・・・
自分だけならともかく、
自分以外の相手に対しても、なぜか自分のジャッチメントを分からせようと必死になってしまう。
本当ならば、自分は正しいと思うだけだし、自分は正しくないと思うだけ。
しかし私たち人間は言葉の世界で生きていますから、
何かしらの規則によって動かされているように思います。
この規則が正しい、正しくないに導いているように見せているのです。
でも考えてみれば、いかなる規則も「正しい」し「正しくない」とも言える。
つまり世の中は「固定点」はない世界なんです。このことが重要なんです。
これを前提として話を進めてみるとどのようなことが見えてくるのか。
私たち人間は、
言葉の意味のやり取りをある規則に基づいて決定しています。
その規則自体が「正しい」とも捉えられるし「正しくない」とも捉えられるのです。
だから、
相手との意見が違っていたとしても、
その「正誤」は決定ができないということです。
だって、
自分自身が「規則」というモノにどのように従っているのかさえも決定ができないのですから、
相手の規則を「正しい」と捉えることもできるし「正しくない」と捉えることだってできる。
だから、
自分の規則との違いにおいて、「正誤」は決めることができないということ。
「あなたはどのような規則に従っていますか?」と問われた時、
自分がどのような規則に従っているのかも決定ができないということ。
つまり、
相手の規則も自分の規則も決定はできないということなんです。
では、
なぜここまで決めるができないのでしょうか。
それは先ほどからお伝えしている通りですが、
この世の中には「固定点」がそもそもないからなんです。
規則というのは「正しい」と「正しくない」がはっきりしているからこそ従えるわけであって、
これがそもそもないということは、従えないということになる。
言葉の意味も言葉のルールも、つまりは規則で決まるということですから、
その規則が決められないのであれば、言葉の意味も決定ができないということ。
言葉の意味が決定できないということは、自分自身が何を言っているのかさえも、
自分自身が何を考えているのかさえも、捉えることができていない状態であると言えるでしょう。
今の世の中のめまぐるしい変化もそうで、
この変化自体もまた確定できないとも言えるし確定できるとも言えるもの。
そもそも変わるとか、動くなんていうものは事実の世界にはないことです。
誰かが言葉によって定義(捏造)したものなのですから。
フリードリヒ・ニーチェ:遠近法(パースペクティブ)
人は、自分の欲望に応じて「事実」を決める。
この世界に事実はない、あるのは解釈だけ。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「何で正しいって勝手に決めるの?」「別にいいでしょ」
なんて声が聞こえてきます。
ナニゴトもそうですが、
ジャッチメントをしたくなりますよね、不思議と。
正しいとか正しくないとか、決めないでそのまま放置ができないというか・・・
自分だけならともかく、
自分以外の相手に対しても、なぜか自分のジャッチメントを分からせようと必死になってしまう。
本当ならば、自分は正しいと思うだけだし、自分は正しくないと思うだけ。
しかし私たち人間は言葉の世界で生きていますから、
何かしらの規則によって動かされているように思います。
この規則が正しい、正しくないに導いているように見せているのです。
でも考えてみれば、いかなる規則も「正しい」し「正しくない」とも言える。
つまり世の中は「固定点」はない世界なんです。このことが重要なんです。
これを前提として話を進めてみるとどのようなことが見えてくるのか。
私たち人間は、
言葉の意味のやり取りをある規則に基づいて決定しています。
その規則自体が「正しい」とも捉えられるし「正しくない」とも捉えられるのです。
だから、
相手との意見が違っていたとしても、
その「正誤」は決定ができないということです。
だって、
自分自身が「規則」というモノにどのように従っているのかさえも決定ができないのですから、
相手の規則を「正しい」と捉えることもできるし「正しくない」と捉えることだってできる。
だから、
自分の規則との違いにおいて、「正誤」は決めることができないということ。
「あなたはどのような規則に従っていますか?」と問われた時、
自分がどのような規則に従っているのかも決定ができないということ。
つまり、
相手の規則も自分の規則も決定はできないということなんです。
では、
なぜここまで決めるができないのでしょうか。
それは先ほどからお伝えしている通りですが、
この世の中には「固定点」がそもそもないからなんです。
規則というのは「正しい」と「正しくない」がはっきりしているからこそ従えるわけであって、
これがそもそもないということは、従えないということになる。
言葉の意味も言葉のルールも、つまりは規則で決まるということですから、
その規則が決められないのであれば、言葉の意味も決定ができないということ。
言葉の意味が決定できないということは、自分自身が何を言っているのかさえも、
自分自身が何を考えているのかさえも、捉えることができていない状態であると言えるでしょう。
今の世の中のめまぐるしい変化もそうで、
この変化自体もまた確定できないとも言えるし確定できるとも言えるもの。
そもそも変わるとか、動くなんていうものは事実の世界にはないことです。
誰かが言葉によって定義(捏造)したものなのですから。
フリードリヒ・ニーチェ:遠近法(パースペクティブ)
人は、自分の欲望に応じて「事実」を決める。
この世界に事実はない、あるのは解釈だけ。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
価格:90,376円 |
2020年05月19日
【やっぱり今はこのツール??大切でしょ!】
【028】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
自粛を受け入れながら、緊急事態宣言がいつ解放されるのかと不安を抱えている私たち。
誰も先が見えない状況だから、不安が募っていってしまう。
そんな中、たまには気分を変えてみようと思った。
バルコニーに折りたたみチェアーを置いて、ブラックコーヒーとカカオ75%のチョコレートを楽しみながら書いている。今はちょうど9:24。
そしていつもの癖、考え始めた。
周りが今気にしていることは何かな?どんな不安があるんだろう?と思考していると、
やはりこれではないかと思ったことがある。
「稼ぐこと」 だ。
稼ぐとはお金を稼ぐこと。
お金はものすごく大切なものだ。
生きていくためにとても大切なツール。
このツールがあれば大抵のことは解決ができてしまう。
だから、とても大切なもの。
しかし今、
この大切なものが、今まで通りにいかなくなってしまったから、
さあ大変。なんだと思う。
世の中には、自分の力ではどうにもならないことがある。
今回のこともこれに当てはまるのではないだろうか。
“どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと” 甲本ヒロト
でも、
このどうにもならないことに、人は悩み苦しみ、愚痴り、不平不満をぶつけてしまう。
誰だってそう、そのことを表に出すか出さないかの差だけだから。
しょうがないんです、人間ってそんなものですから。
だからこそ、
今自分ができることをしっかりと考えて行うのみ。
これしかないのだと思う。
さて、
このタイミングを機に何かはじめてみるもよし、
何か変えてみるもよし、
1日中考えてみるもよし、
何も考えないもよし。
ただし何かをはじめてみるときの注意点は、
今回の状況がどうのこうのではないけれど、いつでもそうで、
人間ってどうしても答えを探してしまうんですね。答えなんてないんですけど。
だから、答え探しをするのではなく、この機会に「アイデア」探しをしてみましょうよ!
「アイデア」もまた、「お金」と同じくらい生きていく上でとても大切なツールです。
どちらかというと、「アイデア」の方がとてもとても大切かもしれない・・・
「アイデア」については色々と書きたいことがあるので、またの機会にしますが、
みんなが勘違いしている点を1つだけ。
アイデアとは、何かオリジナルを生み出すことではなく、
今までにあるコピーを、他のコピーと混ぜ合わせ分解して良いところだけを抽出して、
再定義することなんですよ。
コピーとコピーのリミックスですね。
だから、あなたの頭の中にも隠れているんです。アイデアのコピーが。
ただ、今は散らばってしまっていて小さく隠れてしまっているから、見つけられないだけなんです。
今回のことは、今までにはなかった時間を体験できる、ある意味貴重な時間です。
たまには、
気分を変えてみると色々なことが変わってオモシロい。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
自粛を受け入れながら、緊急事態宣言がいつ解放されるのかと不安を抱えている私たち。
誰も先が見えない状況だから、不安が募っていってしまう。
そんな中、たまには気分を変えてみようと思った。
バルコニーに折りたたみチェアーを置いて、ブラックコーヒーとカカオ75%のチョコレートを楽しみながら書いている。今はちょうど9:24。
そしていつもの癖、考え始めた。
周りが今気にしていることは何かな?どんな不安があるんだろう?と思考していると、
やはりこれではないかと思ったことがある。
「稼ぐこと」 だ。
稼ぐとはお金を稼ぐこと。
お金はものすごく大切なものだ。
生きていくためにとても大切なツール。
このツールがあれば大抵のことは解決ができてしまう。
だから、とても大切なもの。
しかし今、
この大切なものが、今まで通りにいかなくなってしまったから、
さあ大変。なんだと思う。
世の中には、自分の力ではどうにもならないことがある。
今回のこともこれに当てはまるのではないだろうか。
“どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと” 甲本ヒロト
でも、
このどうにもならないことに、人は悩み苦しみ、愚痴り、不平不満をぶつけてしまう。
誰だってそう、そのことを表に出すか出さないかの差だけだから。
しょうがないんです、人間ってそんなものですから。
だからこそ、
今自分ができることをしっかりと考えて行うのみ。
これしかないのだと思う。
さて、
このタイミングを機に何かはじめてみるもよし、
何か変えてみるもよし、
1日中考えてみるもよし、
何も考えないもよし。
ただし何かをはじめてみるときの注意点は、
今回の状況がどうのこうのではないけれど、いつでもそうで、
人間ってどうしても答えを探してしまうんですね。答えなんてないんですけど。
だから、答え探しをするのではなく、この機会に「アイデア」探しをしてみましょうよ!
「アイデア」もまた、「お金」と同じくらい生きていく上でとても大切なツールです。
どちらかというと、「アイデア」の方がとてもとても大切かもしれない・・・
「アイデア」については色々と書きたいことがあるので、またの機会にしますが、
みんなが勘違いしている点を1つだけ。
アイデアとは、何かオリジナルを生み出すことではなく、
今までにあるコピーを、他のコピーと混ぜ合わせ分解して良いところだけを抽出して、
再定義することなんですよ。
コピーとコピーのリミックスですね。
だから、あなたの頭の中にも隠れているんです。アイデアのコピーが。
ただ、今は散らばってしまっていて小さく隠れてしまっているから、見つけられないだけなんです。
今回のことは、今までにはなかった時間を体験できる、ある意味貴重な時間です。
たまには、
気分を変えてみると色々なことが変わってオモシロい。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただきまして、ありがとうございます!
価格:6,540円 |
2020年05月18日
【持たないか、沢山持つか。ひとつはダメ!】
【027】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私たち人間というのは、
勝手に捏造した概念に振り回されているのです。
例えば、
価値が「ある」とか「ない」といったことも、
勝手につくられた基準を用いて判断しているだけですし、
他人の基準で測られたくないといって反発したところで、
代わりに持ち出す自分の価値観というものも勝手な妄想でしかないのです。
私たちは、
自分と他人をはかる「勝手な基準」を持ってしまっているから、
何か集団や組織の中で、不安になってしまったり、恐怖を感じたりするのです。
「勝手な基準」を持っているから、自分と他人を比べてしまう。
というより、比べたくなってしまうのですね。
だから、「勝手な基準」なんて持たなくていいのです。
余計なものを持つから、余計な問題を抱えてしまう。
もし、もしも持ちたいというのであれば、
逆に数多くの「基準」を持った方がいいということです。
ひとつの
「基準」しか持っていないから、
ひとつの
世界しかないし、
ひとつの
世界観しか持っていないから、
ひとつの
世界観しか理解ができないのです。
この
「勝手な基準」を疑いもなく信じ込んでしまっているから、
本質的なことが、実は何も見えていない状態となってしまっているわけです。
人間というのは、
誰よりも自分の方が偉いとか、
誰よりは自分の方がやれているとか、
誰々はダメだとか。
自分という者を中心に他人と比べたがる。
ヒエラルキーを作ってしまうのです。
そういう人間のことを
ドイツの哲学者:フリードリヒ・ニーチェは「末人(=おしまいの人)」と痛烈に批判しました。
以下、ニーチェが「末人」について語った言葉をご紹介します。
〜〜〜〜〜
「人間は昔より多く理解し、多く寛容になったかもしれないが、
それだけに真剣に生きることへの無関心がひろがっている。
すべての人がほどほどに生きて、適当に賢く、適当に怠け者である。
それならば現代人に、成熟した中庸の徳が身にそなわっているのかというと、
決してそうではない。
互いに足を引っ張りあい、互いに他を出し抜こうとしてすきをみせない。
「人に躓く者は愚者」であって、「歩き方にも用心深く」なければならないのだ。
人間同士はそれほど警戒しあっているというのに、孤独な道をひとりで行くことは
許されず、ベタベタ仲間うちで身を擦り合わせていなければ生きていけない。
「温みが必要だからである」
彼らは群をなして存在し、ときには権威ある者を嘲笑し、すべての人が平等で、
傑出した者などどこにもいないと宣伝したがっている。
それなら本気で、権威と敢然と闘おうとしているのかというとそうではない。
本当に他人と争おうとしているのかというとそうでもない。
彼らはすぐに和解する。
「そうしなければ胃をそこなうことになるからだ」
せいぜいその程度の保身、その程度の衛生配慮が、現代人の掲げているご立派な標識なのであって、人間はこうしてだんだん小粒になっていく。
最大多数の最大幸福が、いわば生の目標、絶対的な基準にほかならない。
貧富の差があることはもうただ面倒なことなのである。
そして、何よりも健康を重んじる。
末人たちは言う。
『我々は幸福を発明した』と。
そして彼らはまばたきする」
〜〜〜〜〜
人間は、人それぞれに様々ないいところがあって、
そして逆に悪いところだってあるんです。
自分中心の「勝手な基準」を他人に押し付けてはいけないのです。
「基準」をひとつしか持っていないから
世界が見えなくなってしまうし、
世界が狭くなってしまうのです。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私たち人間というのは、
勝手に捏造した概念に振り回されているのです。
例えば、
価値が「ある」とか「ない」といったことも、
勝手につくられた基準を用いて判断しているだけですし、
他人の基準で測られたくないといって反発したところで、
代わりに持ち出す自分の価値観というものも勝手な妄想でしかないのです。
私たちは、
自分と他人をはかる「勝手な基準」を持ってしまっているから、
何か集団や組織の中で、不安になってしまったり、恐怖を感じたりするのです。
「勝手な基準」を持っているから、自分と他人を比べてしまう。
というより、比べたくなってしまうのですね。
だから、「勝手な基準」なんて持たなくていいのです。
余計なものを持つから、余計な問題を抱えてしまう。
もし、もしも持ちたいというのであれば、
逆に数多くの「基準」を持った方がいいということです。
ひとつの
「基準」しか持っていないから、
ひとつの
世界しかないし、
ひとつの
世界観しか持っていないから、
ひとつの
世界観しか理解ができないのです。
この
「勝手な基準」を疑いもなく信じ込んでしまっているから、
本質的なことが、実は何も見えていない状態となってしまっているわけです。
人間というのは、
誰よりも自分の方が偉いとか、
誰よりは自分の方がやれているとか、
誰々はダメだとか。
自分という者を中心に他人と比べたがる。
ヒエラルキーを作ってしまうのです。
そういう人間のことを
ドイツの哲学者:フリードリヒ・ニーチェは「末人(=おしまいの人)」と痛烈に批判しました。
以下、ニーチェが「末人」について語った言葉をご紹介します。
〜〜〜〜〜
「人間は昔より多く理解し、多く寛容になったかもしれないが、
それだけに真剣に生きることへの無関心がひろがっている。
すべての人がほどほどに生きて、適当に賢く、適当に怠け者である。
それならば現代人に、成熟した中庸の徳が身にそなわっているのかというと、
決してそうではない。
互いに足を引っ張りあい、互いに他を出し抜こうとしてすきをみせない。
「人に躓く者は愚者」であって、「歩き方にも用心深く」なければならないのだ。
人間同士はそれほど警戒しあっているというのに、孤独な道をひとりで行くことは
許されず、ベタベタ仲間うちで身を擦り合わせていなければ生きていけない。
「温みが必要だからである」
彼らは群をなして存在し、ときには権威ある者を嘲笑し、すべての人が平等で、
傑出した者などどこにもいないと宣伝したがっている。
それなら本気で、権威と敢然と闘おうとしているのかというとそうではない。
本当に他人と争おうとしているのかというとそうでもない。
彼らはすぐに和解する。
「そうしなければ胃をそこなうことになるからだ」
せいぜいその程度の保身、その程度の衛生配慮が、現代人の掲げているご立派な標識なのであって、人間はこうしてだんだん小粒になっていく。
最大多数の最大幸福が、いわば生の目標、絶対的な基準にほかならない。
貧富の差があることはもうただ面倒なことなのである。
そして、何よりも健康を重んじる。
末人たちは言う。
『我々は幸福を発明した』と。
そして彼らはまばたきする」
〜〜〜〜〜
人間は、人それぞれに様々ないいところがあって、
そして逆に悪いところだってあるんです。
自分中心の「勝手な基準」を他人に押し付けてはいけないのです。
「基準」をひとつしか持っていないから
世界が見えなくなってしまうし、
世界が狭くなってしまうのです。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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2020年05月17日
【行動力に「カンシン」する。】
【026】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「カンシン」していることがあるんです。それは行動力です。
本当に世の中の方々は行動をしていてすごいなと思います。
「これをやったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなでそれを行い。
「あっちにいったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなで行動をする。
だから世の中には「固定点差し上げます」的なところに人が集まるのでしょうね。
今はYouTubeがいいんだぞ!と言われれば「ワー」って一斉にみんなで始めますし、
早起きがいいんだぞ!と言われれば「よし、やってみよう!」ってみんなが早起きを始める。
これを始めてみたので皆さんも一緒にやりませんか?と声を上げると、
「俺もやりたい」「私もやりたい」とみんなでやり始めてみる。
「〇〇ダイエットがいいみたい」とその時その時に、
手を替え品を替えて次から次へと新しいモノが現れてくる。
本当に「寒心」してしまいます。
もちろん、
自分たちで思考して判断をした結果、
行動をしているのだと思うのですが、どうも「寒心」してしまうのです。
〇〇の法則で人生は変わる!とか、
〇〇に行動すれば人生は変わる!とか。
色々と「人生は変わる!」的なことによく出会いますが、
人生は変わる。のではなく、
人生を変える。がいいと思います。
人生は変わる。は、自分の力ではなく、なにか変えてくれるモノに期待しているということです。
多くの人は、人生は変わると思っていますが、人生は変わらないのです。
そうではなくて、人生を変えるのです!自分がです。
この違いは微妙ではありますが、かなりの「差」です。
何が美しくて
何が賢くて
何が正しくて、
何がよくて、
何がかっこよくて
何が知的で
何がを自分で考えて判断する。
そうやって、
考えて考えて、教養と品格を身につけてこそ自分の人生なんだと思うのです。
教養と言うと、
雑学的な広く浅くといったイメージを思い浮かべる方々が多くいらっしゃると思いますが、
この教養=リベラルアーツという言葉は、
色々な学問を学ぶ際に必要となる土台、大元となる考え方です。
人間がもつ基本となる考え方をいろんな角度から学んでいく学問。
そして、この学びの中心的な学問が哲学であると私は思っています。
リベラルアーツ = 自由な思考の基礎
言語に関わる三学
・文法学・論理学・修辞学
数学に関する四学
・幾何学・算術・天文学・音楽
こんなことを書いていたら、
今、ふっと頭に浮かんできたことがあります。
スティーブ・ジョブズの伝説的スピーチで語られた、
「Connecting the dots」=「点と点をつなぐ」が浮かんできました。
スピーチ内容は割愛させていただきますが、
過去が将来、身を結ぶということです。
よく未来を変えよう。とか、
成功したければ失敗しろなんて言われますが、
そうではなく、
未来にばかり目を向けていてもダメですし、
成功しない人は失敗が続くだけなんです。
未来を見ているのではなく、
過去に目を向けなくてはいけません。
そして、
ただ向けるのではなく、過去を変えるのです。
では過去を変えるとはどういうことか?
過去とは、あなたにとってものすごく具体的なモノ、
その具体的な失敗を具体のままに保存しているからそのままの現在があるんです。
具体的な具体をそのまま保存しておくのではなく、
自分の経験してきたことを抽象化しなくてはいけません。
具体的な過去の事例を、それがどういったことだったのか、
なんで失敗したのか?
何を見落としていたんだろう?
どのような偏った味方をしていたのか?
どういう想定外があったのか?
こういった多面的視点で過去を捉えて、その本質を抽出して受け止める。
具体例とかはどうでもよくて、そこから何を学んだかなんです。
その学んで受け止めたことをいくつ持っているか。
そして、その受け止めたことがいつか生かされていくんです。
敷衍(ふえん)するという言葉があります。
これは抽象化から具体にすることです。これは割とできる方が多くいらっしゃいますが、
逆に具体的なことを上に上げていくことができないのです。
これはエッセンスで上げて上げていくしかありません。
あなたの過去を変えることによって、
当然現在が変わりますし、未来が変わっていくんです。
他人と過去は変えられないとよく言われますが、
過去は変えれます!あなたの思考力で。
思考力が全てなんです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」というのも、
歴史から学べるかどうか、結局は自分の思考力が全てです。
常に抽象的世界観に触れていると、抽象化できるようになり具体を抽象へ上げることができる。
だから成功者と言われる人たちは教養を学ぶんです。
経営者やトップリーダーに求められる力は、抽象思考力です。
具体的な学びばかりを入れていると、抽象化することが難しくなってしまいます。
だから、あなたの周りには抽象的世界観を持った人が必要なんです。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「カンシン」していることがあるんです。それは行動力です。
本当に世の中の方々は行動をしていてすごいなと思います。
「これをやったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなでそれを行い。
「あっちにいったほうがいいぞー」と言われれば、
しっかりとみんなで行動をする。
だから世の中には「固定点差し上げます」的なところに人が集まるのでしょうね。
今はYouTubeがいいんだぞ!と言われれば「ワー」って一斉にみんなで始めますし、
早起きがいいんだぞ!と言われれば「よし、やってみよう!」ってみんなが早起きを始める。
これを始めてみたので皆さんも一緒にやりませんか?と声を上げると、
「俺もやりたい」「私もやりたい」とみんなでやり始めてみる。
「〇〇ダイエットがいいみたい」とその時その時に、
手を替え品を替えて次から次へと新しいモノが現れてくる。
本当に「寒心」してしまいます。
もちろん、
自分たちで思考して判断をした結果、
行動をしているのだと思うのですが、どうも「寒心」してしまうのです。
〇〇の法則で人生は変わる!とか、
〇〇に行動すれば人生は変わる!とか。
色々と「人生は変わる!」的なことによく出会いますが、
人生は変わる。のではなく、
人生を変える。がいいと思います。
人生は変わる。は、自分の力ではなく、なにか変えてくれるモノに期待しているということです。
多くの人は、人生は変わると思っていますが、人生は変わらないのです。
そうではなくて、人生を変えるのです!自分がです。
この違いは微妙ではありますが、かなりの「差」です。
何が美しくて
何が賢くて
何が正しくて、
何がよくて、
何がかっこよくて
何が知的で
何がを自分で考えて判断する。
そうやって、
考えて考えて、教養と品格を身につけてこそ自分の人生なんだと思うのです。
教養と言うと、
雑学的な広く浅くといったイメージを思い浮かべる方々が多くいらっしゃると思いますが、
この教養=リベラルアーツという言葉は、
色々な学問を学ぶ際に必要となる土台、大元となる考え方です。
人間がもつ基本となる考え方をいろんな角度から学んでいく学問。
そして、この学びの中心的な学問が哲学であると私は思っています。
リベラルアーツ = 自由な思考の基礎
言語に関わる三学
・文法学・論理学・修辞学
数学に関する四学
・幾何学・算術・天文学・音楽
こんなことを書いていたら、
今、ふっと頭に浮かんできたことがあります。
スティーブ・ジョブズの伝説的スピーチで語られた、
「Connecting the dots」=「点と点をつなぐ」が浮かんできました。
スピーチ内容は割愛させていただきますが、
過去が将来、身を結ぶということです。
よく未来を変えよう。とか、
成功したければ失敗しろなんて言われますが、
そうではなく、
未来にばかり目を向けていてもダメですし、
成功しない人は失敗が続くだけなんです。
未来を見ているのではなく、
過去に目を向けなくてはいけません。
そして、
ただ向けるのではなく、過去を変えるのです。
では過去を変えるとはどういうことか?
過去とは、あなたにとってものすごく具体的なモノ、
その具体的な失敗を具体のままに保存しているからそのままの現在があるんです。
具体的な具体をそのまま保存しておくのではなく、
自分の経験してきたことを抽象化しなくてはいけません。
具体的な過去の事例を、それがどういったことだったのか、
なんで失敗したのか?
何を見落としていたんだろう?
どのような偏った味方をしていたのか?
どういう想定外があったのか?
こういった多面的視点で過去を捉えて、その本質を抽出して受け止める。
具体例とかはどうでもよくて、そこから何を学んだかなんです。
その学んで受け止めたことをいくつ持っているか。
そして、その受け止めたことがいつか生かされていくんです。
敷衍(ふえん)するという言葉があります。
これは抽象化から具体にすることです。これは割とできる方が多くいらっしゃいますが、
逆に具体的なことを上に上げていくことができないのです。
これはエッセンスで上げて上げていくしかありません。
あなたの過去を変えることによって、
当然現在が変わりますし、未来が変わっていくんです。
他人と過去は変えられないとよく言われますが、
過去は変えれます!あなたの思考力で。
思考力が全てなんです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」というのも、
歴史から学べるかどうか、結局は自分の思考力が全てです。
常に抽象的世界観に触れていると、抽象化できるようになり具体を抽象へ上げることができる。
だから成功者と言われる人たちは教養を学ぶんです。
経営者やトップリーダーに求められる力は、抽象思考力です。
具体的な学びばかりを入れていると、抽象化することが難しくなってしまいます。
だから、あなたの周りには抽象的世界観を持った人が必要なんです。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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2020年05月16日
【ただの快楽である「知る」は必要か?!】
【025】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
あなたは、「知る」という言葉をどのように捉えていらっしゃいますか?
知らなかったことを知ること。だと思った方が多いのではないでしょうか。
当たり前のような感じですね。
何かわからないことがあって、
それについて調べて、「ああ〜、そういうことか!」という「知る」はあまり意味がありません。これは、あなたの頭の中に開いていた穴を埋めた程度でしかないからです。
そうではなくて、
あなたが今までに、避けていた触れてこなかったジャンルにあえて触れてみるとか、
苦手そうな人にあえて会ってみるなどを試みた時に、初めて出会える「知る」を知るということです。
人間は、快楽を求めて痛みを避けるわけですよね。
快楽とは、既知の領域であり、痛みとは未知の領域です。
既知の領域で知るを経験しても快楽で終わってしまう。
しかし
未知の領域に踏み込んで、痛みの中から知るを経験すれば、
それはあなたの世界を広げることへとつながります。
例えば、
何かの本を読んでいるとして、
その本の文章から「知らない」ことに出会い知識を得たとしても、
それはただの快楽止まりで先はありません。
なんのために目的で本を読もうと思ったのかにもよりますが、
趣味程度の目的で本んを読むのであれば、快楽を得るでいいでしょう。
学び程度の目的であっても、快楽を得ることでいいと思います。
しかし、もしあなたが「勉強」を目的とするために本を読んでいるのであれば、
快楽を得る本ではなく、痛みを得る本でしか「勉強」には繋がらないのです。
勉強とはあなたが今までに体験したことのない、
経験を超えたものを「知る」という未知の領域について追求することなんです。
自ら今まで触れてこなかった未経験地へと足を運び、周りも何もわからない世界で、
手探りの中、やっと初めて「知る」と出会った時に、
こんなの「知らなかったー」を知ることで得た知識というのは、ものすごく価値のあるものです。そして、
もっともっと知ろうとして、知識の追求が始まっていきます。
知識の追求によって、
今までにはなかった「知らない領域」が一気にあなたの目の前に、山のように現れてくる。
このように痛みに触れることで、
「知らなかった領域」を知ることができるのです。
今まで知らなかった領域、こんな世界があったんだということに気づかされるわけです。
この気づきこそが、
あなたの視野を広げること・世界が広がるということに繋がっていき、
この経験を機に「知る」という連鎖が始まるのです。
もし今後、本を読む機会があるのでしたら、
すぐに理解ができるような本を読むのではなく、
理解をすることが難しい本を読むことをお勧めいたします。
それは、
領域・世界が広がっていくからです。
難しければ難しいほど良いのではないでしょうか。
今見えている世界より、
見えていない世界は広い。
見えていない世界には価値があります。
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
あなたは、「知る」という言葉をどのように捉えていらっしゃいますか?
知らなかったことを知ること。だと思った方が多いのではないでしょうか。
当たり前のような感じですね。
何かわからないことがあって、
それについて調べて、「ああ〜、そういうことか!」という「知る」はあまり意味がありません。これは、あなたの頭の中に開いていた穴を埋めた程度でしかないからです。
そうではなくて、
あなたが今までに、避けていた触れてこなかったジャンルにあえて触れてみるとか、
苦手そうな人にあえて会ってみるなどを試みた時に、初めて出会える「知る」を知るということです。
人間は、快楽を求めて痛みを避けるわけですよね。
快楽とは、既知の領域であり、痛みとは未知の領域です。
既知の領域で知るを経験しても快楽で終わってしまう。
しかし
未知の領域に踏み込んで、痛みの中から知るを経験すれば、
それはあなたの世界を広げることへとつながります。
例えば、
何かの本を読んでいるとして、
その本の文章から「知らない」ことに出会い知識を得たとしても、
それはただの快楽止まりで先はありません。
なんのために目的で本を読もうと思ったのかにもよりますが、
趣味程度の目的で本んを読むのであれば、快楽を得るでいいでしょう。
学び程度の目的であっても、快楽を得ることでいいと思います。
しかし、もしあなたが「勉強」を目的とするために本を読んでいるのであれば、
快楽を得る本ではなく、痛みを得る本でしか「勉強」には繋がらないのです。
勉強とはあなたが今までに体験したことのない、
経験を超えたものを「知る」という未知の領域について追求することなんです。
自ら今まで触れてこなかった未経験地へと足を運び、周りも何もわからない世界で、
手探りの中、やっと初めて「知る」と出会った時に、
こんなの「知らなかったー」を知ることで得た知識というのは、ものすごく価値のあるものです。そして、
もっともっと知ろうとして、知識の追求が始まっていきます。
知識の追求によって、
今までにはなかった「知らない領域」が一気にあなたの目の前に、山のように現れてくる。
このように痛みに触れることで、
「知らなかった領域」を知ることができるのです。
今まで知らなかった領域、こんな世界があったんだということに気づかされるわけです。
この気づきこそが、
あなたの視野を広げること・世界が広がるということに繋がっていき、
この経験を機に「知る」という連鎖が始まるのです。
もし今後、本を読む機会があるのでしたら、
すぐに理解ができるような本を読むのではなく、
理解をすることが難しい本を読むことをお勧めいたします。
それは、
領域・世界が広がっていくからです。
難しければ難しいほど良いのではないでしょうか。
今見えている世界より、
見えていない世界は広い。
見えていない世界には価値があります。
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ
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2020年05月15日
【貼り付いた想像】
【024】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
いきなりですが、想像してください。
「犬がいます」
〜想像中〜
想像していただけましたでしょうか?
このことについては、後ほどお伝えさせていただきますが、
世の中にはたくさんの「言葉」があります。
そして、普段は何気なく使っている「言葉」。
この「言葉」をあなたはどのように考えていらっしゃいますか?
言葉とは、
共通認識?全ての人に同じ?全ての人の解釈は一緒?
どうでしょうか。
スイスの言語学者 : フェルディナン・ド・ソシュール は、
「言葉は、世界に先立つ」といっています。
私たちは、シニフィアンとシニフィエと言う言葉の差異のフィルターを通してしか
世界を認識・思考することはできない。
哲学者が求め続けきた「真理」「私の生き方」と言った概念も、
全てその時々の「言葉の秩序つけ次第」で変わってしまう。
※シニフィアンとシニフィエについては、また後日お伝えいたします。
「言葉」というのは、何一つとして固定的なモノなどないのです。
秩序づけ次第で、どうにでもなってしまうのですから。
しかし、
これまでに散々お伝えしてきた内容となってしまいますが、
私たち人間は「言葉」を介してしかモノゴトを認識できない生き物です。
だから、言葉を使う。
言葉を使うしかないということです。
まあ、ごくごく単純な話しなんですが。
だからこそ考えなくてはいけない視点があります。
それは、
「私たちは、言葉によって世界をどう見せられているのか?」
という構造的な視点です。
例えば、
このように考える方は、多くいらっしゃると思います。
「私たちは、世界をどう見ているのか?」
といった視点、これは主観的な視点です。
または、
「私たちの世界は、どうなっているのか?」
といった視点、これは客観的な視点ということです。
主観的・客観的・構造的視点には大きく違いがありますし、
そもそも、客観的視点なんてないのです。
この客観的視点についても、また後日お伝えさせていただきます。
他の事例を挙げると、
悩みとか、問題・課題に対して、
「何があなたを苦しめていたのか?」
という視点で見るのではなく、
「あなたを苦しめていた言葉の性質(構造)はどうなっているのか?」
という視点で捉え、問いを行なって言語化しない限り、
あなたの悩み・問題・課題は一向に解決しないのです。
私は日々、
クライアント様と常にこの視点で問いを立て、共に解決していくことをしています。
私がお伝えしたかったことは、
「どのように秩序つけされた世界に私たちは生きているのか」
という視点が重要であるということです。
さて、ずっと引っ張ってしまいましたが、
冒頭で想像していただいたことに触れていきましょう!
もう一度お伝えしますね。
「犬がいます」
を想像してくださいね。
〜想像中〜
※スクロールストップ
頭の中に犬が想像できましたか?
ゆっくりとスクロールしてください。
「緑色の犬が」
どうですか?
あなたの想像された犬とドンピシャでしたか?
多分、多くの皆様が想像されたのは、
「白い犬」「黒い犬」「茶色い犬」だったのではないでしょうか。
「緑色の犬」を想像された方がいらっしゃいましたら、
芸術的な分野に進まれることをお勧めいたします。(笑)
さて、
これも、「犬」という言葉に貼り付いた皆さんの勝手な想像です。
今回の事例は特に複雑な想像ではありませんでしたが、
「言葉」というものに貼り付いている想像は、みなが違うということです。
だから、私たち人間というのは、
相手のことを知るために、知りたいと思う相手とは、
しっかりと言葉を交えた「会話」をすることが必要なんです。
解釈が決して一致しないとわかっているからこそ、
相手のことを理解するまで、理解なんてできないけど、「会話」をするんです。
この「会話」が人間にとってとても大事なことなんだと思っています。
自分にとっては何気ない言葉でも、受け取り方次第では傷付けてつけてしまうこともあります。
会話をせず、自分勝手な解釈だけを受け入れているから、相手のことがわからない。
人に近づけなくなってしまう。
そうではなく、
ああ〜、この人はこういう風に言葉を使う人なんだな。って、
構造的な視点で見てあげることにより、
完全な理解はできないにしても、受け入れることはできるのだと考えています。
多様性を受け入れよう!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
いきなりですが、想像してください。
「犬がいます」
〜想像中〜
想像していただけましたでしょうか?
このことについては、後ほどお伝えさせていただきますが、
世の中にはたくさんの「言葉」があります。
そして、普段は何気なく使っている「言葉」。
この「言葉」をあなたはどのように考えていらっしゃいますか?
言葉とは、
共通認識?全ての人に同じ?全ての人の解釈は一緒?
どうでしょうか。
スイスの言語学者 : フェルディナン・ド・ソシュール は、
「言葉は、世界に先立つ」といっています。
私たちは、シニフィアンとシニフィエと言う言葉の差異のフィルターを通してしか
世界を認識・思考することはできない。
哲学者が求め続けきた「真理」「私の生き方」と言った概念も、
全てその時々の「言葉の秩序つけ次第」で変わってしまう。
※シニフィアンとシニフィエについては、また後日お伝えいたします。
「言葉」というのは、何一つとして固定的なモノなどないのです。
秩序づけ次第で、どうにでもなってしまうのですから。
しかし、
これまでに散々お伝えしてきた内容となってしまいますが、
私たち人間は「言葉」を介してしかモノゴトを認識できない生き物です。
だから、言葉を使う。
言葉を使うしかないということです。
まあ、ごくごく単純な話しなんですが。
だからこそ考えなくてはいけない視点があります。
それは、
「私たちは、言葉によって世界をどう見せられているのか?」
という構造的な視点です。
例えば、
このように考える方は、多くいらっしゃると思います。
「私たちは、世界をどう見ているのか?」
といった視点、これは主観的な視点です。
または、
「私たちの世界は、どうなっているのか?」
といった視点、これは客観的な視点ということです。
主観的・客観的・構造的視点には大きく違いがありますし、
そもそも、客観的視点なんてないのです。
この客観的視点についても、また後日お伝えさせていただきます。
他の事例を挙げると、
悩みとか、問題・課題に対して、
「何があなたを苦しめていたのか?」
という視点で見るのではなく、
「あなたを苦しめていた言葉の性質(構造)はどうなっているのか?」
という視点で捉え、問いを行なって言語化しない限り、
あなたの悩み・問題・課題は一向に解決しないのです。
私は日々、
クライアント様と常にこの視点で問いを立て、共に解決していくことをしています。
私がお伝えしたかったことは、
「どのように秩序つけされた世界に私たちは生きているのか」
という視点が重要であるということです。
さて、ずっと引っ張ってしまいましたが、
冒頭で想像していただいたことに触れていきましょう!
もう一度お伝えしますね。
「犬がいます」
を想像してくださいね。
〜想像中〜
※スクロールストップ
頭の中に犬が想像できましたか?
ゆっくりとスクロールしてください。
「緑色の犬が」
どうですか?
あなたの想像された犬とドンピシャでしたか?
多分、多くの皆様が想像されたのは、
「白い犬」「黒い犬」「茶色い犬」だったのではないでしょうか。
「緑色の犬」を想像された方がいらっしゃいましたら、
芸術的な分野に進まれることをお勧めいたします。(笑)
さて、
これも、「犬」という言葉に貼り付いた皆さんの勝手な想像です。
今回の事例は特に複雑な想像ではありませんでしたが、
「言葉」というものに貼り付いている想像は、みなが違うということです。
だから、私たち人間というのは、
相手のことを知るために、知りたいと思う相手とは、
しっかりと言葉を交えた「会話」をすることが必要なんです。
解釈が決して一致しないとわかっているからこそ、
相手のことを理解するまで、理解なんてできないけど、「会話」をするんです。
この「会話」が人間にとってとても大事なことなんだと思っています。
自分にとっては何気ない言葉でも、受け取り方次第では傷付けてつけてしまうこともあります。
会話をせず、自分勝手な解釈だけを受け入れているから、相手のことがわからない。
人に近づけなくなってしまう。
そうではなく、
ああ〜、この人はこういう風に言葉を使う人なんだな。って、
構造的な視点で見てあげることにより、
完全な理解はできないにしても、受け入れることはできるのだと考えています。
多様性を受け入れよう!
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2020年05月14日
【「理解した!」この感覚が一番まずい!!】
【023】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私たちが生きていく過程で、一番まずいなーと思ってしまうのは、
「理解した!」
という感覚です。
あなたが何か新しいことにチャレンジするとしましょう。思考して思考して向き合っています。
ちょっとうまくできたなと、
うまくいったなって「理解した!」と思った瞬間が一番まずいのです。
そもそも、「理解した!」と思った瞬間に思考は停止し、
その時点からあなたの成長は止まってしまうのです。
例えば、
何か調子よく続けていることやうまくいっていること、
あとは、ギャンブルとか勝負事をやっている方だと、調子よく勝ち続けている時に、
「理解した!」
って思った瞬間から、今まで調子が良かったことが悪くなっていったりすることがあるんです。
基本的に私たち人間は、「理解」ということはできないのです。
そしてこの「理解」というのは段階があります。
今回は詳しくお伝えはいたしませんが、
やはり人は固定点欲しさに、「理解した」つもりになっているだけなんですが、
「理解した!」と断定的に思ってしまった瞬間に停止が始まってしまうということです。
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とか。
このような感覚は、なくした方がいいということです。
自分自身が、
「理解した!」と勝手に思っていたことが、
間違っていたりするから勝手に落ち込んでしまいますし、
「わかった!」なんて勝手に思ってしまうから、
全然できない自分を責めてしまうのです。
だから何度も繰り返しになりますが、
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とかはやめておいた方がいいのです。
とは言っても、
やはり何かを進めていく中で、チャレンジしていく中で何かが欲しいですよね。
そんな時は、
「信じる」
という言葉を重視した考え方を持っているといいと思います。
今まで行なってきたことを「信じる」。
思考して思考してチャレンジしてきた自分を「信じる」ということですね。
「相手のことを理解した」とか
「自分のことを理解した」とかではなくて、
「相手ことを信じる」
「自分のことを信じる」。
「〜を理解した!」ではなくて
「〜を理解したことを信じる」という感じです。
要するに、
「信じる」という言葉は、自分次第の言葉だからです。
もちろんですが、
そう簡単に信じれない人もいると思います。
でも人間というのは何か、
「信じてる」から生きているんだと思います。
逆に考えてみましょう。
なぜ多くの人は
「理解した」とか「わかった」とか「できた」と思いたいのでしょうか?
それは、
固定点が欲しいからです。
どうしても何か掴みたい「答え」みたいなものが欲しい人の考え方なんですね。
進んでいった先にのゴールみたいなものが。
でも安心してください!
この世界に人生に「答え」や「ゴール」なんていうものはないのですから。
宙ぶらりんな不安定の中を、
もがいてもがいて、もがいていくのが人生なんですよ。
老子の言葉
”道の道とすべきは常の道にあらず、本当の道は、不変の道ではない。
万物は常に変化し続ける。
これが宇宙の本質である。ものごとはすべて変化の中で捉えなければならない”
だからこの先、
「信じる」っていう言葉があればそれでいいでしょう。
そして、結果として
何か裏切られようが、
失敗しようが関係がないってことです。
「信じる」があれば前に進めます!
あなたの可能性を信じています!
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
私たちが生きていく過程で、一番まずいなーと思ってしまうのは、
「理解した!」
という感覚です。
あなたが何か新しいことにチャレンジするとしましょう。思考して思考して向き合っています。
ちょっとうまくできたなと、
うまくいったなって「理解した!」と思った瞬間が一番まずいのです。
そもそも、「理解した!」と思った瞬間に思考は停止し、
その時点からあなたの成長は止まってしまうのです。
例えば、
何か調子よく続けていることやうまくいっていること、
あとは、ギャンブルとか勝負事をやっている方だと、調子よく勝ち続けている時に、
「理解した!」
って思った瞬間から、今まで調子が良かったことが悪くなっていったりすることがあるんです。
基本的に私たち人間は、「理解」ということはできないのです。
そしてこの「理解」というのは段階があります。
今回は詳しくお伝えはいたしませんが、
やはり人は固定点欲しさに、「理解した」つもりになっているだけなんですが、
「理解した!」と断定的に思ってしまった瞬間に停止が始まってしまうということです。
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とか。
このような感覚は、なくした方がいいということです。
自分自身が、
「理解した!」と勝手に思っていたことが、
間違っていたりするから勝手に落ち込んでしまいますし、
「わかった!」なんて勝手に思ってしまうから、
全然できない自分を責めてしまうのです。
だから何度も繰り返しになりますが、
「理解した!」とか
「わかった!」とか
「できた!」とかはやめておいた方がいいのです。
とは言っても、
やはり何かを進めていく中で、チャレンジしていく中で何かが欲しいですよね。
そんな時は、
「信じる」
という言葉を重視した考え方を持っているといいと思います。
今まで行なってきたことを「信じる」。
思考して思考してチャレンジしてきた自分を「信じる」ということですね。
「相手のことを理解した」とか
「自分のことを理解した」とかではなくて、
「相手ことを信じる」
「自分のことを信じる」。
「〜を理解した!」ではなくて
「〜を理解したことを信じる」という感じです。
要するに、
「信じる」という言葉は、自分次第の言葉だからです。
もちろんですが、
そう簡単に信じれない人もいると思います。
でも人間というのは何か、
「信じてる」から生きているんだと思います。
逆に考えてみましょう。
なぜ多くの人は
「理解した」とか「わかった」とか「できた」と思いたいのでしょうか?
それは、
固定点が欲しいからです。
どうしても何か掴みたい「答え」みたいなものが欲しい人の考え方なんですね。
進んでいった先にのゴールみたいなものが。
でも安心してください!
この世界に人生に「答え」や「ゴール」なんていうものはないのですから。
宙ぶらりんな不安定の中を、
もがいてもがいて、もがいていくのが人生なんですよ。
老子の言葉
”道の道とすべきは常の道にあらず、本当の道は、不変の道ではない。
万物は常に変化し続ける。
これが宇宙の本質である。ものごとはすべて変化の中で捉えなければならない”
だからこの先、
「信じる」っていう言葉があればそれでいいでしょう。
そして、結果として
何か裏切られようが、
失敗しようが関係がないってことです。
「信じる」があれば前に進めます!
あなたの可能性を信じています!
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2020年05月13日
【言葉と感情を切り離した時に、本当の思考が始まる】
【022】
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「何をしたらいいですか?」
「何をしていいかわからない?」
最近よく質問されます。
私は、
「できることをやるしかない」とトートロジーを交えた返答をしています。
今あなたの
目の前にいる人、近くにいる人に対して、不足しているモノを補ってあげればいいのです。
難しく考えずに、すごくシンプルに簡単に考えればいいです。
例えば、
笑顔が不足していたら、笑わせてあげるとか、
食べ物が不足していたら、分けてあげるとか、
言葉が不足していたら、教えてあげるとか。
とにかく、
コツコツとできることの積み重ねをしていくことで、
また、次の「不足」を見つけることができるのです。
世の中は全て、均整でできていますから、
何かが不足すれば、そこを補ってあげることによって成り立ちます。
バランスよく保たれたシーソーのようなモノですね。
このバランスが崩れていってしまうから、おかしなことが起こっていくのです。
人は必ずどこかのポジションを任せられています。
あなたもきっとどこかのポジションです。
そして、
各自ができることは無数にあるはずなのですが、
その時にあなたを邪魔するものがあるんです。
それが、
「感情」です。
言葉には必ず、感情が張り付いてしまっています。
外向・内向 、 高い・低い 、 上位・下位 、 抽象・具体 、
広い・狭い 、 良い・悪い 、 不安・安心 、 必要・不要 、
自然・人工 、 金持・貧乏 、 年配・若い 、 幸せ・不幸 、
大人・子供 、 正常・異常 、 多数・少数 、 単体・複合 、
文系・理系 、 利口・馬鹿 、 太い・細い 、 頭脳・肉体 、
早い・遅い 、 得意・苦手 、 好き・嫌い 、 長い・短い 、
書き出すときりがなく無数に存在するので、このくらいにしておきますが、
あなたはどの言葉をどのように捉えましたでしょうか?
どんな感情が張り付いていますか。
あなたの当てはまる「ポジション」はありましたか?
1つ1つの言葉の解釈は、一人一人様々で違った捉え方をします。
どちらが良い、悪いと言うことは本来ないのですが、
人間は勝手に無意識的に優劣をつけてしまう。
優劣など人間の勝手な意味付けでしかない。
どれも欠けてはならない必要とされるポジションです。もちろん中間点もあります。
状況・時間・場所などによっても捉え方が変化をしていくことでしょう。
各自がそれぞれのポジションを担うことで、
バランスが何かしらの影響を受けて崩れそうな時には、
必ず何かが修正を行い、バランスを保ってくれるようになっているのです。
偏りがバランスを崩してしまう。
世の中は「不」に対して、誰かがそれを補うことで成り立ちますが、
また、次から次へと新たなる「不」が登場するのです。
その度に、補うことを考えていく。
この時に、
1つ1つの言葉から感情という厄介なものが切り離されると、
本当の人間としての思考が始まるのです。
あなたのポジションは、すでに振り分けられています。
あなたのできることをコツコツと行なっていきましょう!
いきなり難しいことをしようとしなくて、大丈夫ですから。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【 「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
「何をしたらいいですか?」
「何をしていいかわからない?」
最近よく質問されます。
私は、
「できることをやるしかない」とトートロジーを交えた返答をしています。
今あなたの
目の前にいる人、近くにいる人に対して、不足しているモノを補ってあげればいいのです。
難しく考えずに、すごくシンプルに簡単に考えればいいです。
例えば、
笑顔が不足していたら、笑わせてあげるとか、
食べ物が不足していたら、分けてあげるとか、
言葉が不足していたら、教えてあげるとか。
とにかく、
コツコツとできることの積み重ねをしていくことで、
また、次の「不足」を見つけることができるのです。
世の中は全て、均整でできていますから、
何かが不足すれば、そこを補ってあげることによって成り立ちます。
バランスよく保たれたシーソーのようなモノですね。
このバランスが崩れていってしまうから、おかしなことが起こっていくのです。
人は必ずどこかのポジションを任せられています。
あなたもきっとどこかのポジションです。
そして、
各自ができることは無数にあるはずなのですが、
その時にあなたを邪魔するものがあるんです。
それが、
「感情」です。
言葉には必ず、感情が張り付いてしまっています。
外向・内向 、 高い・低い 、 上位・下位 、 抽象・具体 、
広い・狭い 、 良い・悪い 、 不安・安心 、 必要・不要 、
自然・人工 、 金持・貧乏 、 年配・若い 、 幸せ・不幸 、
大人・子供 、 正常・異常 、 多数・少数 、 単体・複合 、
文系・理系 、 利口・馬鹿 、 太い・細い 、 頭脳・肉体 、
早い・遅い 、 得意・苦手 、 好き・嫌い 、 長い・短い 、
書き出すときりがなく無数に存在するので、このくらいにしておきますが、
あなたはどの言葉をどのように捉えましたでしょうか?
どんな感情が張り付いていますか。
あなたの当てはまる「ポジション」はありましたか?
1つ1つの言葉の解釈は、一人一人様々で違った捉え方をします。
どちらが良い、悪いと言うことは本来ないのですが、
人間は勝手に無意識的に優劣をつけてしまう。
優劣など人間の勝手な意味付けでしかない。
どれも欠けてはならない必要とされるポジションです。もちろん中間点もあります。
状況・時間・場所などによっても捉え方が変化をしていくことでしょう。
各自がそれぞれのポジションを担うことで、
バランスが何かしらの影響を受けて崩れそうな時には、
必ず何かが修正を行い、バランスを保ってくれるようになっているのです。
偏りがバランスを崩してしまう。
世の中は「不」に対して、誰かがそれを補うことで成り立ちますが、
また、次から次へと新たなる「不」が登場するのです。
その度に、補うことを考えていく。
この時に、
1つ1つの言葉から感情という厄介なものが切り離されると、
本当の人間としての思考が始まるのです。
あなたのポジションは、すでに振り分けられています。
あなたのできることをコツコツと行なっていきましょう!
いきなり難しいことをしようとしなくて、大丈夫ですから。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
2020年05月12日
【食い尽くすのではなく、切り離せ!】
【021】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
世の中には、色々な作品や表現されたもので溢れていますね。
そして、その作品もあなたの選びたい放題です。
その選びたい放題の作品を
あなたは、
作品をそのまま素直に作品として見ますか?
それとも、
作者を経由してから作品を見ますか?
1つ1つの作品には、必ず作者という人がいます。
多くの人は、
作者を経由してから作品に到着する人の方が多のではないかと思います。
「ああーこの人の書いている文章が、好きだな」
「ああーこの人の作る作品が、いいよな」
「ああーこの人の作る料理が、美味しいよね」って。
もちろん「この作品いいなー」と思い、調べてから作者に到着するケースもありますね。
どちらにしても、
私たちは、作品を体験した後に考える事があるんです。
考えてしまう事と言った方が伝わりやすいでしょうか。
それは、”作者が”「何を伝えたかったのか」です。
そうやって、”作者が”について考えてしまうんですね。
映画を見た後、本を読んだ後、そのほか色々と体験をした後に、
「あの作者は、きっと〇〇を伝えたかったんだよ」とか言って、勝手に評論会までしてしまい
作者の伝えたかったことの答え探しを始めるのです。
終いには作者に直接答えを聞いてみたりして。
[作者=作品]と言う考え方ですね。
しかし、
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、全く意味のない事だと説いたのです。
「作者の死」でお馴染みの文芸評論家です。
誰かが生み出した思考(作品)を解読するとき、
表現した人(作者)ではなく、
表現されたもの(作品)だけを解読すると言う考え方。
「作者」と「作品」を切り離して作品は作品とみなすことが大事。であるのだということです。
しかし、なぜだか私たちは、作者=作品という関係性が切り離せないのです。
ものすごく親密な関係だと思い込んでいる。
作者というのは、
その「作品」の解釈を決定するコトができる存在ではなく、
「作者」の中にある思想や思考、考え方やイメージや想いなどを、
まずは頭の中で言葉へと変換し、
そこから、文章であったり、絵であったり、映像であったりと色々なカタチとして具現化するコトで、わたしたちの元へと届けてくれる存在なのです。
そして、
その先にある「作品」についての解釈は、受け手側の思考に委ねられるはずなのです。
大切なのは、この委ねるという自由度が必要なのではないかと考えています。
事実とは、その人の解釈でしかないのですから。
作品に作者という人間がベタっと張り付いた状態で受け手側へと届いてしまう、
つまり、作者の意図を重視する作品論ではなく、
作品の受け手側が自身の自由な解釈で受け取ることのできる視点の解釈論とする事で、
自分自身の作者に対する勝手な先入観を排除し、作品自体を記号と捉えることにより、
本来の表現や現象が持っている「隠された意味」が分かってくるのではないかと考えます。
ロラン・バルトは「作者」と「作品」を切り離して見ることが大切だと言いました。
提唱したのは
「あるテクストにオリジナルはなく、無数のテクストからの引用で成り立っている」
という考え方です。
「作品」というのは、
作者自身が、これまでに学んできた、あるいは身につけてきた、
あらゆる「言葉」の規定を受けて作られたモノですので、
これまでの文化や歴史、先人たちの思想や想いが、
作者という人間を通じて表現され現在の私たちへと届けられているのです。
ですから、そこにはやはり「隠された意味」があるわけですね。
しかし残念なことに、
世の中には、受け手側を「食い尽くす」ような自由度のない一方通行的な作品や表現なども、
本当に沢山、出回ってしまっているのが現状です。
結論、
作者にしても、受け手側にしても、
「作品」と「作者」を切り離して捉えることができるようになった方が、
「作品」そのものを純粋に「気持ちが良く」味わえるのではないかと思います。
そして、
人それぞれに思考し、解釈された意味を持っていくことが大切だと思っております。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
世の中には、色々な作品や表現されたもので溢れていますね。
そして、その作品もあなたの選びたい放題です。
その選びたい放題の作品を
あなたは、
作品をそのまま素直に作品として見ますか?
それとも、
作者を経由してから作品を見ますか?
1つ1つの作品には、必ず作者という人がいます。
多くの人は、
作者を経由してから作品に到着する人の方が多のではないかと思います。
「ああーこの人の書いている文章が、好きだな」
「ああーこの人の作る作品が、いいよな」
「ああーこの人の作る料理が、美味しいよね」って。
もちろん「この作品いいなー」と思い、調べてから作者に到着するケースもありますね。
どちらにしても、
私たちは、作品を体験した後に考える事があるんです。
考えてしまう事と言った方が伝わりやすいでしょうか。
それは、”作者が”「何を伝えたかったのか」です。
そうやって、”作者が”について考えてしまうんですね。
映画を見た後、本を読んだ後、そのほか色々と体験をした後に、
「あの作者は、きっと〇〇を伝えたかったんだよ」とか言って、勝手に評論会までしてしまい
作者の伝えたかったことの答え探しを始めるのです。
終いには作者に直接答えを聞いてみたりして。
[作者=作品]と言う考え方ですね。
しかし、
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、全く意味のない事だと説いたのです。
「作者の死」でお馴染みの文芸評論家です。
誰かが生み出した思考(作品)を解読するとき、
表現した人(作者)ではなく、
表現されたもの(作品)だけを解読すると言う考え方。
「作者」と「作品」を切り離して作品は作品とみなすことが大事。であるのだということです。
しかし、なぜだか私たちは、作者=作品という関係性が切り離せないのです。
ものすごく親密な関係だと思い込んでいる。
作者というのは、
その「作品」の解釈を決定するコトができる存在ではなく、
「作者」の中にある思想や思考、考え方やイメージや想いなどを、
まずは頭の中で言葉へと変換し、
そこから、文章であったり、絵であったり、映像であったりと色々なカタチとして具現化するコトで、わたしたちの元へと届けてくれる存在なのです。
そして、
その先にある「作品」についての解釈は、受け手側の思考に委ねられるはずなのです。
大切なのは、この委ねるという自由度が必要なのではないかと考えています。
事実とは、その人の解釈でしかないのですから。
作品に作者という人間がベタっと張り付いた状態で受け手側へと届いてしまう、
つまり、作者の意図を重視する作品論ではなく、
作品の受け手側が自身の自由な解釈で受け取ることのできる視点の解釈論とする事で、
自分自身の作者に対する勝手な先入観を排除し、作品自体を記号と捉えることにより、
本来の表現や現象が持っている「隠された意味」が分かってくるのではないかと考えます。
ロラン・バルトは「作者」と「作品」を切り離して見ることが大切だと言いました。
提唱したのは
「あるテクストにオリジナルはなく、無数のテクストからの引用で成り立っている」
という考え方です。
「作品」というのは、
作者自身が、これまでに学んできた、あるいは身につけてきた、
あらゆる「言葉」の規定を受けて作られたモノですので、
これまでの文化や歴史、先人たちの思想や想いが、
作者という人間を通じて表現され現在の私たちへと届けられているのです。
ですから、そこにはやはり「隠された意味」があるわけですね。
しかし残念なことに、
世の中には、受け手側を「食い尽くす」ような自由度のない一方通行的な作品や表現なども、
本当に沢山、出回ってしまっているのが現状です。
結論、
作者にしても、受け手側にしても、
「作品」と「作者」を切り離して捉えることができるようになった方が、
「作品」そのものを純粋に「気持ちが良く」味わえるのではないかと思います。
そして、
人それぞれに思考し、解釈された意味を持っていくことが大切だと思っております。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!