2020年05月12日
【食い尽くすのではなく、切り離せ!】
【021】
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
世の中には、色々な作品や表現されたもので溢れていますね。
そして、その作品もあなたの選びたい放題です。
その選びたい放題の作品を
あなたは、
作品をそのまま素直に作品として見ますか?
それとも、
作者を経由してから作品を見ますか?
1つ1つの作品には、必ず作者という人がいます。
多くの人は、
作者を経由してから作品に到着する人の方が多のではないかと思います。
「ああーこの人の書いている文章が、好きだな」
「ああーこの人の作る作品が、いいよな」
「ああーこの人の作る料理が、美味しいよね」って。
もちろん「この作品いいなー」と思い、調べてから作者に到着するケースもありますね。
どちらにしても、
私たちは、作品を体験した後に考える事があるんです。
考えてしまう事と言った方が伝わりやすいでしょうか。
それは、”作者が”「何を伝えたかったのか」です。
そうやって、”作者が”について考えてしまうんですね。
映画を見た後、本を読んだ後、そのほか色々と体験をした後に、
「あの作者は、きっと〇〇を伝えたかったんだよ」とか言って、勝手に評論会までしてしまい
作者の伝えたかったことの答え探しを始めるのです。
終いには作者に直接答えを聞いてみたりして。
[作者=作品]と言う考え方ですね。
しかし、
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、全く意味のない事だと説いたのです。
「作者の死」でお馴染みの文芸評論家です。
誰かが生み出した思考(作品)を解読するとき、
表現した人(作者)ではなく、
表現されたもの(作品)だけを解読すると言う考え方。
「作者」と「作品」を切り離して作品は作品とみなすことが大事。であるのだということです。
しかし、なぜだか私たちは、作者=作品という関係性が切り離せないのです。
ものすごく親密な関係だと思い込んでいる。
作者というのは、
その「作品」の解釈を決定するコトができる存在ではなく、
「作者」の中にある思想や思考、考え方やイメージや想いなどを、
まずは頭の中で言葉へと変換し、
そこから、文章であったり、絵であったり、映像であったりと色々なカタチとして具現化するコトで、わたしたちの元へと届けてくれる存在なのです。
そして、
その先にある「作品」についての解釈は、受け手側の思考に委ねられるはずなのです。
大切なのは、この委ねるという自由度が必要なのではないかと考えています。
事実とは、その人の解釈でしかないのですから。
作品に作者という人間がベタっと張り付いた状態で受け手側へと届いてしまう、
つまり、作者の意図を重視する作品論ではなく、
作品の受け手側が自身の自由な解釈で受け取ることのできる視点の解釈論とする事で、
自分自身の作者に対する勝手な先入観を排除し、作品自体を記号と捉えることにより、
本来の表現や現象が持っている「隠された意味」が分かってくるのではないかと考えます。
ロラン・バルトは「作者」と「作品」を切り離して見ることが大切だと言いました。
提唱したのは
「あるテクストにオリジナルはなく、無数のテクストからの引用で成り立っている」
という考え方です。
「作品」というのは、
作者自身が、これまでに学んできた、あるいは身につけてきた、
あらゆる「言葉」の規定を受けて作られたモノですので、
これまでの文化や歴史、先人たちの思想や想いが、
作者という人間を通じて表現され現在の私たちへと届けられているのです。
ですから、そこにはやはり「隠された意味」があるわけですね。
しかし残念なことに、
世の中には、受け手側を「食い尽くす」ような自由度のない一方通行的な作品や表現なども、
本当に沢山、出回ってしまっているのが現状です。
結論、
作者にしても、受け手側にしても、
「作品」と「作者」を切り離して捉えることができるようになった方が、
「作品」そのものを純粋に「気持ちが良く」味わえるのではないかと思います。
そして、
人それぞれに思考し、解釈された意味を持っていくことが大切だと思っております。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
おはようございます!
小島です。
本日も
【「言葉」との向き合い方 】
についてお伝えしていきたいと思います。
世の中には、色々な作品や表現されたもので溢れていますね。
そして、その作品もあなたの選びたい放題です。
その選びたい放題の作品を
あなたは、
作品をそのまま素直に作品として見ますか?
それとも、
作者を経由してから作品を見ますか?
1つ1つの作品には、必ず作者という人がいます。
多くの人は、
作者を経由してから作品に到着する人の方が多のではないかと思います。
「ああーこの人の書いている文章が、好きだな」
「ああーこの人の作る作品が、いいよな」
「ああーこの人の作る料理が、美味しいよね」って。
もちろん「この作品いいなー」と思い、調べてから作者に到着するケースもありますね。
どちらにしても、
私たちは、作品を体験した後に考える事があるんです。
考えてしまう事と言った方が伝わりやすいでしょうか。
それは、”作者が”「何を伝えたかったのか」です。
そうやって、”作者が”について考えてしまうんですね。
映画を見た後、本を読んだ後、そのほか色々と体験をした後に、
「あの作者は、きっと〇〇を伝えたかったんだよ」とか言って、勝手に評論会までしてしまい
作者の伝えたかったことの答え探しを始めるのです。
終いには作者に直接答えを聞いてみたりして。
[作者=作品]と言う考え方ですね。
しかし、
フランスの哲学者、ロラン・バルトは、全く意味のない事だと説いたのです。
「作者の死」でお馴染みの文芸評論家です。
誰かが生み出した思考(作品)を解読するとき、
表現した人(作者)ではなく、
表現されたもの(作品)だけを解読すると言う考え方。
「作者」と「作品」を切り離して作品は作品とみなすことが大事。であるのだということです。
しかし、なぜだか私たちは、作者=作品という関係性が切り離せないのです。
ものすごく親密な関係だと思い込んでいる。
作者というのは、
その「作品」の解釈を決定するコトができる存在ではなく、
「作者」の中にある思想や思考、考え方やイメージや想いなどを、
まずは頭の中で言葉へと変換し、
そこから、文章であったり、絵であったり、映像であったりと色々なカタチとして具現化するコトで、わたしたちの元へと届けてくれる存在なのです。
そして、
その先にある「作品」についての解釈は、受け手側の思考に委ねられるはずなのです。
大切なのは、この委ねるという自由度が必要なのではないかと考えています。
事実とは、その人の解釈でしかないのですから。
作品に作者という人間がベタっと張り付いた状態で受け手側へと届いてしまう、
つまり、作者の意図を重視する作品論ではなく、
作品の受け手側が自身の自由な解釈で受け取ることのできる視点の解釈論とする事で、
自分自身の作者に対する勝手な先入観を排除し、作品自体を記号と捉えることにより、
本来の表現や現象が持っている「隠された意味」が分かってくるのではないかと考えます。
ロラン・バルトは「作者」と「作品」を切り離して見ることが大切だと言いました。
提唱したのは
「あるテクストにオリジナルはなく、無数のテクストからの引用で成り立っている」
という考え方です。
「作品」というのは、
作者自身が、これまでに学んできた、あるいは身につけてきた、
あらゆる「言葉」の規定を受けて作られたモノですので、
これまでの文化や歴史、先人たちの思想や想いが、
作者という人間を通じて表現され現在の私たちへと届けられているのです。
ですから、そこにはやはり「隠された意味」があるわけですね。
しかし残念なことに、
世の中には、受け手側を「食い尽くす」ような自由度のない一方通行的な作品や表現なども、
本当に沢山、出回ってしまっているのが現状です。
結論、
作者にしても、受け手側にしても、
「作品」と「作者」を切り離して捉えることができるようになった方が、
「作品」そのものを純粋に「気持ちが良く」味わえるのではないかと思います。
そして、
人それぞれに思考し、解釈された意味を持っていくことが大切だと思っております。
【LIBERAL & CREATIVE】ALIVE.
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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