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2017年04月25日
2016年01月05日
国防スキー列車
今回はスキーの歴史についてです。
国防スキー列車と聞いて何かわかる人はいますか?
中々分からない方が多いと思います。
スキーマニアの人しか興味ないと思いますが・・・笑
国防スキー列車というのは戦時中、列車でスキー場まで直接走る列車のことを言います。
実際どこの地域で国防スキー列車が走っていたかというと
岩原(新潟)、野沢温泉(長野)です。
あくまでも私の調査なので他にあれば教えてもらえると嬉しいです。
さて話は戻りますが、スキーは戦前からありましたが、戦時中はさすがにスキー客は減ったみたいです。
列車自体も3時間待ちというのもあり、乗車率もかなり高かったみたいです。
周囲からは戦時中に「娯楽か」と目線が痛かったみたいです。
そこで東京鉄道局とスキー関係の方が協議し「国防スキー列車」の運行を考えました。
その結果、毎週土曜日の夜、上越線の岩原スキー場まで運転してもらうことになりました。
一方、「国防スキー列車」であるからある程度形にしなければならなかったので、陸軍戸山学校に依頼をし毎回5名の下士官を派遣してもらい、軍事教練の指導を担当してもらうようになりました。
この国防スキー列車は昭和17年1月から3月にかけて、毎週土曜日の夜に出発されました。
希望者は連盟の指導員が指揮して上野公園に集合し、それから列を作って整然と乗車したそうです。文字通り一般の乗客はいなかったので、士気も上がったみたいです。岩原での軍事教練も短時間しか訓練をしなかったのでスキーを楽しむことができたそうです。
昔からスキーを愛してた人がいたんですね。
ちなみに今回の参考資料は
『日本スキー発達史』小川勝次
です。
恐らく流通していないので、図書館で探すしかないでしょうね。
写真は岩原ではありません。
野沢温泉村のスキー博物館から撮ったものです。
野沢温泉についても詳しく調べたいものです。
国防スキー列車と聞いて何かわかる人はいますか?
中々分からない方が多いと思います。
スキーマニアの人しか興味ないと思いますが・・・笑
国防スキー列車というのは戦時中、列車でスキー場まで直接走る列車のことを言います。
実際どこの地域で国防スキー列車が走っていたかというと
岩原(新潟)、野沢温泉(長野)です。
あくまでも私の調査なので他にあれば教えてもらえると嬉しいです。
さて話は戻りますが、スキーは戦前からありましたが、戦時中はさすがにスキー客は減ったみたいです。
列車自体も3時間待ちというのもあり、乗車率もかなり高かったみたいです。
周囲からは戦時中に「娯楽か」と目線が痛かったみたいです。
そこで東京鉄道局とスキー関係の方が協議し「国防スキー列車」の運行を考えました。
その結果、毎週土曜日の夜、上越線の岩原スキー場まで運転してもらうことになりました。
一方、「国防スキー列車」であるからある程度形にしなければならなかったので、陸軍戸山学校に依頼をし毎回5名の下士官を派遣してもらい、軍事教練の指導を担当してもらうようになりました。
この国防スキー列車は昭和17年1月から3月にかけて、毎週土曜日の夜に出発されました。
希望者は連盟の指導員が指揮して上野公園に集合し、それから列を作って整然と乗車したそうです。文字通り一般の乗客はいなかったので、士気も上がったみたいです。岩原での軍事教練も短時間しか訓練をしなかったのでスキーを楽しむことができたそうです。
昔からスキーを愛してた人がいたんですね。
ちなみに今回の参考資料は
『日本スキー発達史』小川勝次
です。
恐らく流通していないので、図書館で探すしかないでしょうね。
写真は岩原ではありません。
野沢温泉村のスキー博物館から撮ったものです。
野沢温泉についても詳しく調べたいものです。
2015年12月02日
秘湯にスキー場?
今回のネタも秘湯関連です。
先日の微温湯温泉(ぬる湯)の続きになりますが、旅館の中に入ると昔のパンフレットや看板が置いてありました。
旧国鉄時代の物とスキー場の物です。
これを見ると鉄道は2割引なんですね。
今では考えられないですね。
現在のJRであれば601キロ以上往復であれば1割引なので昔はお得だったのですね。
そして微温湯温泉にもスキー場らしいものがあったみたいですね。
こちらのパンフレットを見ると、微温湯温泉以外にも沼尻や五色温泉があります。
周辺の五色温泉はスキー場で有名です。
1911年にヨーロッパの方が日本で初めての滑ったとも言われているので日本最古のスキー場なのです。
現在ではリフトの営業も終了し廃止になりましたが...
戦前のスキー場というのは
リフトが存在しなかったので、いわゆる山スキー、ツアースキーだったので、雪があればどこにでもあったのでしょう。
なので、極端な話ですが
埼玉の飯能にもスキー場があったり、群馬県の四万温泉にもあったみたいてます。
詳しく調べて見たいのですが
スキーツアーといくのは、リフトなどの施設もないので、情報が入ってきません。
いつか詳しく調べてみたいですね。
先日の微温湯温泉(ぬる湯)の続きになりますが、旅館の中に入ると昔のパンフレットや看板が置いてありました。
旧国鉄時代の物とスキー場の物です。
これを見ると鉄道は2割引なんですね。
今では考えられないですね。
現在のJRであれば601キロ以上往復であれば1割引なので昔はお得だったのですね。
そして微温湯温泉にもスキー場らしいものがあったみたいですね。
こちらのパンフレットを見ると、微温湯温泉以外にも沼尻や五色温泉があります。
周辺の五色温泉はスキー場で有名です。
1911年にヨーロッパの方が日本で初めての滑ったとも言われているので日本最古のスキー場なのです。
現在ではリフトの営業も終了し廃止になりましたが...
戦前のスキー場というのは
リフトが存在しなかったので、いわゆる山スキー、ツアースキーだったので、雪があればどこにでもあったのでしょう。
なので、極端な話ですが
埼玉の飯能にもスキー場があったり、群馬県の四万温泉にもあったみたいてます。
詳しく調べて見たいのですが
スキーツアーといくのは、リフトなどの施設もないので、情報が入ってきません。
いつか詳しく調べてみたいですね。
2015年08月09日
湯沢町スキー歴史
今回はシリーズで紹介します。
新潟県湯沢町のスキー歴史についてです。
湯沢町にある雪国館(湯沢町歴史民俗資料館)を訪れた際、スキーの歴史がたくさんありました。
その一部を紹介していきます。
日本にスキーがやってきたのは1911年オーストリアハンガリー帝国のレルヒ陸軍少佐が新潟県高田にスキーを伝えました。
その後、スキーは民間人にも講習が行われ各地に広がりました。
湯沢町も同様に本間栄太郎さんが1913年に高田でスキー講習を受講し初めてスキー用具を一式持ち込んできました。
また本間栄太郎さんは逓信管理局員ということで、スキーを履いて電話線の見回りをしており、それを見た子供たちがスキーに興味を持ちスキーが庶民でも行われるようになりました。
湯沢町(当時は湯沢村)もこのブームにのり、村主催のスキー講習会が開催されます。
1919年に開催され布場スキー場や岩原スキー場で毎月のように開催されたみたいです。
各地から受講生が多かったみたいで、布場スキー場や岩原スキー場は県内有数のスキー場として発展していきました。
スキーの発展は町の人々の生活が良くなりました。
例えば浅貝・二居・三俣地区の人々は冬に町に出ることはめったになかったそうです。
スキーの普及によって楽に町に出ることが出来たそうで、営林署や電力の関係者は皆スキーを利用していたみたいです。
特に三俣郵便局の逓送隊の方達はスキーが必須だったそうです。
このようにスキーは遊ぶためだけでなく、雪国の人々の利便性を図る道具の一つになりました。
湯沢町の民族歴史や川端康成の小説「雪国」については下のブログで紹介しています。
「雪国館」湯沢町歴史民俗資料館
また今回参考した本は
湯沢町史 「雪の湯沢」−雪国に暮らしてー
発行 湯沢町教育委員会 湯沢町史編さん室
です。
大変参考になる資料でした。
新潟県湯沢町のスキー歴史についてです。
湯沢町にある雪国館(湯沢町歴史民俗資料館)を訪れた際、スキーの歴史がたくさんありました。
その一部を紹介していきます。
日本にスキーがやってきたのは1911年オーストリアハンガリー帝国のレルヒ陸軍少佐が新潟県高田にスキーを伝えました。
その後、スキーは民間人にも講習が行われ各地に広がりました。
湯沢町も同様に本間栄太郎さんが1913年に高田でスキー講習を受講し初めてスキー用具を一式持ち込んできました。
また本間栄太郎さんは逓信管理局員ということで、スキーを履いて電話線の見回りをしており、それを見た子供たちがスキーに興味を持ちスキーが庶民でも行われるようになりました。
湯沢町(当時は湯沢村)もこのブームにのり、村主催のスキー講習会が開催されます。
1919年に開催され布場スキー場や岩原スキー場で毎月のように開催されたみたいです。
各地から受講生が多かったみたいで、布場スキー場や岩原スキー場は県内有数のスキー場として発展していきました。
スキーの発展は町の人々の生活が良くなりました。
例えば浅貝・二居・三俣地区の人々は冬に町に出ることはめったになかったそうです。
スキーの普及によって楽に町に出ることが出来たそうで、営林署や電力の関係者は皆スキーを利用していたみたいです。
特に三俣郵便局の逓送隊の方達はスキーが必須だったそうです。
このようにスキーは遊ぶためだけでなく、雪国の人々の利便性を図る道具の一つになりました。
湯沢町の民族歴史や川端康成の小説「雪国」については下のブログで紹介しています。
「雪国館」湯沢町歴史民俗資料館
また今回参考した本は
湯沢町史 「雪の湯沢」−雪国に暮らしてー
発行 湯沢町教育委員会 湯沢町史編さん室
です。
大変参考になる資料でした。
2015年08月08日
東京都湯沢町 苗場編
国道17号を走ると群馬県と新潟県の境に三国トンネルがあります。
こちらのトンネルを抜けると、新潟県湯沢町になります。
群馬側も大自然が広がるのですが、湯沢町に入ると標高も高くなり自然豊かです。
しかし3キロ程度走ると景色が一変します。
それはリゾートマンションが続くのです。
これはいわゆる「東京都湯沢町」といわれる現象です。
道路の両側にはマンションや民家が広がり、苗場スキー場の前にはプリンスホテルが広がっています。
現在の苗場スキー場周辺(浅貝地区)では19棟のリゾートマンションがあります。
余談ですが他の湯沢町の地区と比べると
湯沢地区(温泉街)は14棟
中子(岩原地区)は19棟
このように湯沢町の中でも比較的リゾートマンションの多い地区にあたります。
なぜこれだけ苗場スキー場が発展したかというと・・・
元々浅貝地区は林業の集落でした。
田舎の不便な集落。
スキー場開発前の部落戸数は16戸で自給用野菜を栽培する畑地は若干所有していたものの、標高1000m近いため水田もほとんどなく営林署の労務者として苦労していたみたいです。
しかし1961年に転機が訪れます。
国道17号の三国トンネルの開通により、群馬県と新潟県が結ばれたのです。
これに目を付けたコクド(現在のプリンスホテル)が浅貝地区にスキー場を計画しました。
これが現在の苗場スキー場にあたります。
当時のスキー場の条件として駅ちかゲレンデが好まれていました。
例えば湯沢高原、岩原、中里、土樽など・・・
鉄道の近くのスキー場が典型的でした。
しかし苗場の開発により、鉄道の利便性よりも大規模なスキー場を望むようになったのです。
このようにして苗場の地区は発展していったのです。
今では日本を代表するスキー場に成長しています。
こちらのトンネルを抜けると、新潟県湯沢町になります。
群馬側も大自然が広がるのですが、湯沢町に入ると標高も高くなり自然豊かです。
しかし3キロ程度走ると景色が一変します。
それはリゾートマンションが続くのです。
これはいわゆる「東京都湯沢町」といわれる現象です。
道路の両側にはマンションや民家が広がり、苗場スキー場の前にはプリンスホテルが広がっています。
現在の苗場スキー場周辺(浅貝地区)では19棟のリゾートマンションがあります。
余談ですが他の湯沢町の地区と比べると
湯沢地区(温泉街)は14棟
中子(岩原地区)は19棟
このように湯沢町の中でも比較的リゾートマンションの多い地区にあたります。
なぜこれだけ苗場スキー場が発展したかというと・・・
元々浅貝地区は林業の集落でした。
田舎の不便な集落。
スキー場開発前の部落戸数は16戸で自給用野菜を栽培する畑地は若干所有していたものの、標高1000m近いため水田もほとんどなく営林署の労務者として苦労していたみたいです。
しかし1961年に転機が訪れます。
国道17号の三国トンネルの開通により、群馬県と新潟県が結ばれたのです。
これに目を付けたコクド(現在のプリンスホテル)が浅貝地区にスキー場を計画しました。
これが現在の苗場スキー場にあたります。
当時のスキー場の条件として駅ちかゲレンデが好まれていました。
例えば湯沢高原、岩原、中里、土樽など・・・
鉄道の近くのスキー場が典型的でした。
しかし苗場の開発により、鉄道の利便性よりも大規模なスキー場を望むようになったのです。
このようにして苗場の地区は発展していったのです。
今では日本を代表するスキー場に成長しています。
2015年07月12日
土樽スキー場
home villa
ホームページを新しくしました!
上記のホームペーシは岩原スキー場の歴史を中心に載せています!
今回は土樽スキー場についてです。
土樽スキー場は1923年に開業と日本でも歴史のあるスキー場です。
しかし現在は廃止されています。
先日越後湯沢に渓流釣りに行く際、土樽駅を通ったのでリポートしたいと思います。
土樽と思い浮かべると川端康成の小説「雪国」を想像する方も多いでしょう。
雪国の最初の文章の中に
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車がとまった」とあります。
この信号場というのが土樽駅なのです。
簡単に信号場と説明すると
駅距離が大きすぎると、続行列車を出したり、急行列車に緩行列車を追い越させたり、単線の場所には反対列車を行ききちがえさせることは、列車の保安上でないから、その間に旅客や貨物を扱わない、単なる待機線、信号扱所などを設け、これを信号所といった。上越線は昭和6年に全通開業してから、昭和42年に複線化が完成するまでは、単線運転であった。清水トンネルを出てすぐの信号所は、昭和16年1月に土樽駅として開業され一般に利用されるようになった。
(川端康成 『雪国』,新潮社版,p,174.)
抜粋しましたが、これだけ歴史のある土樽駅なのです。
ただスキー場自体は非常に小さく、リフト1本とコースが2本だけでした。
戦前のスキー場としては、リフトは存在しなかったので、十分楽しめたのでしょう。
湯沢町史をみると、土樽駅周辺に国鉄山の家があったみたいで、当時は賑ってたことがわかります。
そして日本で初のナイター整備とも言われています。
このように考えると最先端のスキー場だったのでしょう。
戦後のスキー場の交通手段として上越線が考えられますが、上越線沿線の中でも一番都心から近いのが、土樽スキー場でした。
しかし、スキー場の開発はあまりなく、周辺の湯沢中里や岩原、湯沢高原、そして苗場スキー場などにお客が移ってしまったのでしょう。
そして土樽スキー場は全国でも珍しいところでもあります。
車で来る場合は土樽駅前に車を止め、駅を通りスキー場に抜けるということ。
なかなか珍しいスキー場ですね。
こちらの写真は県道からの入り口ですが、草ボウボウで歩けません。
しかも駐車場はパットみて10台程度。
小規模なスキー場です。
そのようなことがあり、2003年にシーズンが終了しました。
おそらくこちらがスキー場のコースでしょうか?
ホームページを新しくしました!
上記のホームペーシは岩原スキー場の歴史を中心に載せています!
今回は土樽スキー場についてです。
土樽スキー場は1923年に開業と日本でも歴史のあるスキー場です。
しかし現在は廃止されています。
先日越後湯沢に渓流釣りに行く際、土樽駅を通ったのでリポートしたいと思います。
土樽と思い浮かべると川端康成の小説「雪国」を想像する方も多いでしょう。
雪国の最初の文章の中に
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車がとまった」とあります。
この信号場というのが土樽駅なのです。
簡単に信号場と説明すると
駅距離が大きすぎると、続行列車を出したり、急行列車に緩行列車を追い越させたり、単線の場所には反対列車を行ききちがえさせることは、列車の保安上でないから、その間に旅客や貨物を扱わない、単なる待機線、信号扱所などを設け、これを信号所といった。上越線は昭和6年に全通開業してから、昭和42年に複線化が完成するまでは、単線運転であった。清水トンネルを出てすぐの信号所は、昭和16年1月に土樽駅として開業され一般に利用されるようになった。
(川端康成 『雪国』,新潮社版,p,174.)
抜粋しましたが、これだけ歴史のある土樽駅なのです。
ただスキー場自体は非常に小さく、リフト1本とコースが2本だけでした。
戦前のスキー場としては、リフトは存在しなかったので、十分楽しめたのでしょう。
湯沢町史をみると、土樽駅周辺に国鉄山の家があったみたいで、当時は賑ってたことがわかります。
そして日本で初のナイター整備とも言われています。
このように考えると最先端のスキー場だったのでしょう。
戦後のスキー場の交通手段として上越線が考えられますが、上越線沿線の中でも一番都心から近いのが、土樽スキー場でした。
しかし、スキー場の開発はあまりなく、周辺の湯沢中里や岩原、湯沢高原、そして苗場スキー場などにお客が移ってしまったのでしょう。
そして土樽スキー場は全国でも珍しいところでもあります。
車で来る場合は土樽駅前に車を止め、駅を通りスキー場に抜けるということ。
なかなか珍しいスキー場ですね。
こちらの写真は県道からの入り口ですが、草ボウボウで歩けません。
しかも駐車場はパットみて10台程度。
小規模なスキー場です。
そのようなことがあり、2003年にシーズンが終了しました。
おそらくこちらがスキー場のコースでしょうか?