題号が「報恩抄」ですから、とにかく恩を報ずればよいと安易に考えてしまいがちですが、日蓮の筆を見ますと、単に恩を報ずればよいという単純な事柄ではないようです。1ページ目から、重要な視点が得られます。
仏法を習い極めんとおもわば、いとまあらずば叶うべからず。いとまあらんとおもわば、父母・師匠・国主等に随っては叶うべから。是非につけて、出離の道をわきまえざらんほどは、父母・師匠等の心に随うべからず。
『日蓮大聖人御書全集』新版 212頁(報恩抄)
仏法を習得するには、当然のことながら時間がかかります。この時間をいかに作るかが大切と日蓮は強調しています。時間を確保しませんと仏法習得ができないのですね。
いくら報恩が大事であっても、父母・師匠・国主等の言うことを唯々諾々と聞いていては時間を得ることはできません。それこそ、主体的に時間を確保すべく、父母・師匠・国主等の言うことを無視すべきときは無視すべきでしょう。
この世の中は、時間を奪う人々がうようよしていますから、出離の道である仏法を自らのものとするまでは、表面的な報恩を行わず、時間を確保し、研鑚に努めることですね。
その上で、それなりに仏法の根幹を身に付けますと、仏法的な観点からの行動が行えるようになり、単なる報恩ではなく、根本的な報恩ができるようになるということでしょう。
よくよく考えますと、仏法がよく分からないながら、功徳欲しさに、表面的な善行を行おうとする場合があります。私も若い頃はそのような状態でありました。「よかれと思って」と物事を為したとしても、智慧、知識が不足している人間が善行をしたところで、たいしたことはできません。ましてや、「よかれと思って」の内容も浅薄であり、善行をしようとする気持ちはよいことではあるのですが、結果的には、ありがた迷惑な行動になることがほとんどです。
結局、善行にならず、迷惑行為をまき散らすだけになります。やはり、功徳欲しさという根本的な問題点、いやらしさがあるために、うまくいかないのですね。
やはり、「報恩抄」で日蓮が指摘しているとおり、少なくとも日蓮仏法の骨格は身に付けませんと、日蓮仏法に基づいた行動にはなりません。「報恩抄」を含む五大部に「法華取要抄」を加えた六大部を研鑚するという基本を押さえることですね。そうしますと、「よかれと思って」などという、こちらの思惑などどうでもよく、行動そのものが日蓮仏法に基づけば、結果的に善行をしていたという状態となります。
善行をしようといきり立つのではなく、日蓮仏法を研鑚した結果として、その上で行動し、いつの間にか善行をしていたという流れが理想的でしょう。六大部を血肉化、骨髄化し、自らの振る舞いが六大部に即したものになるようにするのがよいですね。そうすることによって、冒頭に掲げた「報恩抄」の一節を身読したことになります。