かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定め無き習いなり。されば、まず臨終のことを習って後に他事を習うべし
『日蓮大聖人御書全集』新版 2101頁(妙法尼御前御返事(臨終一大事の事))
賢明な人間も、思慮分別がない人間も、老人も、若人も、どうなるか、いつ死ぬかは分かりません。それ故に、まずは、臨終のこと、つまり、死の時のことを念頭に置いて、その後に、その他のことを考えるべきと日蓮は言います。
人間にとって、一大事といえることは死ぬ時のことでしょう。死は、人生の総決算であるわけで、その時にその人間の真価があらわれるといってよいでしょう。どのような人生であったのか、それは、死の状態を見れば明瞭であると、日蓮は、この御書で述べていますが、ある意味、厳しい現実ですね。ごまかしがきかないのですね。
元気なときは、取り繕うこともできますが、死の間際では、取り繕うことは、まあ、できないでしょうね。その人間そのものがあらわれてしまいます。いままでどのような生き方をしていたのか、それが死の時に出てくるのですから、安易な生き方はできないですね。
死から生を考えると身が引き締まります。ダラダラと生を続けるのではなく、死というものを念頭に置き、その上で、生を考え、日々を過ごすことです。まさに、宗教的な生き方といえましょう。
法華経、御書を研鑽しながら、死を見つめ、そして、生を見つめる。生だけでなく、死を直視することによって、人間は人間たり得るといえるでしょう。極めて仏教的な、極めて宗教的な生き方が求められます。
この「妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)」は、真筆があるのですが、一部分が欠けているのですね。引用している部分があるのは、真筆でいうと第2紙の部分です。この第2紙も一行だけは真筆があるのですが、残念なことに引用している部分ではないのですね。引用している部分は、真筆がない部分です。
この御書の重要なところですから、この第2紙だけでもといって持っていた人がいたのでしょう。そして、その第2紙も分割され、バラバラになり、その一部である一行の部分だけ残ったのでしょうね。そして、引用している部分は欠けています。重ねて残念なことです。
また、この御書の最後の部分である第8紙、第9紙も欠けているということで、この部分も分割されてしまい、そして、紛失したのでしょう。
ただ、写しがあったので、真筆の一部が欠損しているとはいえ、全文が確認できる状態ですから、この点は、ありがたいですね。