当世・日本国中の諸人・一同に如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり等云云
如説修行抄 502頁
相待妙は、法華経を至高のものとして、その他の経典、爾前教を用いないということをあらわしています。
しかし、一旦、捨てたはずの爾前教も絶待妙の観点から、再度、用いられます。
相待妙といっても、絶待妙と一体ということなのですね。
相待妙だけで事足れりとしてはいけないわけです。
ただ、絶待妙だけで事足れりとするのも間違っているのですね。
その間違いを的確に表現したのが上記の御文ですね。
絶待妙の観点から、諸乗一仏乗と開会したならば、爾前教も法華経と同じと考えてしまっています。
これでは、相待妙において、法華経を最高とし、爾前教との違いを明確にした意義が台無しです。
諸乗一仏乗と開会したとしても、それは、法華経を中心とした上で、爾前教を活かすということであり、爾前教が法華経と一体になるわけではありません。
あくまでも法華経を中心として、その周辺に爾前教が位置付けられ、法華経のために活かされるという構造なのですね。
法華経と爾前教とは一体化しないわけです。ここに相待妙が効いているのですね。
つまり、相待妙の時にも絶待妙が効いており、絶待妙の時にも相待妙が効いているという構造です。
よって、日蓮は、上記の御文にあるような状況に対し、以下のように答えます。
予が云く然らず所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり
同書 同頁
諸乗一仏乗だから爾前教と法華経とは同じであり、よって、爾前教を修しても法華経を修したことになるという間違った考え方を糾しています。
仏法ですから、仏の金言を守るべきであり、理解力が不足している人間の言うことなど用いるなと言っているのですね。
絶待妙の考え方を間違って理解すると、根本的な間違いに至り、意味不明に陥ってしまいます。
仏教の概念は正しく理解し、その上で修行に励むのがよいですね。
我々からすると、意味不明なことを言う新宗教の人など相手にせず、御書、法華経を軸に信仰すべきでしょうね。