此の経には二妙あり釈に云く「此の経は唯二妙を論ず」と一には相待妙・二には絶待妙なり、相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節と申す、絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す
一代聖教大意 403−404頁
相待妙は、華厳・阿含・方等・般若の四時の経典を爾前教と判定し、法華経を最高のものと考えます。
法華経を最高のものとすることが目的であるならば、相待妙だけでよいはずですが、「二妙」ということですので、もう一つの妙があります。それが絶待妙なのですが、絶待妙は、一代聖教がすなわち法華経であると考えます。
先日、検討したように、法華経以外の経典が法華経と同格になるわけではなく、法華経という軸、中心をサポートする形で爾前教が活かされるということですね。
あくまでも法華経が至高であるという相待妙の考えは堅持されており、その上で、法華経を通しながら、爾前教を開き会していくという絶待妙が同時に展開されるということですね。
相待妙、絶待妙の考え方からすると、無駄になるものは何もないという結論が導き出されます。
相待妙によって否定されながらも、絶待妙によって肯定されるという、この相待妙と絶待妙との関係性は、まさに妙なる次元の事柄といえるでしょう。
この相待妙と絶待妙とが別々であるというのではなく、同時にあるというのがポイントですね。
別々と考えてしまいますと、相待妙で法華経を第一した後、爾前教がいりませんので、爾前教を捨てるだけになります。しかし、爾前教にも重要な法門があり、すべてを捨てる必要はないのですね。
また、別々に考えますと、絶待妙は、一代聖教は即ち法華経ということなのだから、爾前教が法華経だという意味不明な解釈が横行してしまいます。当然のことながら、爾前教と法華経とは違う経典ですので、違いを明確にしておかなければなりません。
やはり、相待妙だけでもない、絶待妙だけでもないという観点から、また、相待妙でありながら、絶待妙でもあるという、同時進行で相待妙、絶待妙を把握する必要があります。
そうしますと間違った解釈をしなくて済みます。
相待妙と絶待妙との関係性は、まさに妙なる関係性ですので、単に頭で考えるだけでは、よく分からないと思います。ここは、妙なる関係性を実感するしかないですね。
自由自在な境涯を得ることによって、相待妙、絶待妙の妙味が感じられ、十二分に活用することができます。そうしますと、絶妙な振る舞いができ、絶妙な判断能力がつき、所謂、成仏の状態となるのですね。
単なる知性の問題ではなく、人格の問題、境涯の問題に関わってくるのが相待妙、絶待妙であるといえましょう。