外道に対すれば小乗も大乗と云われ下揩ネれども分には殿と云はれ上揩ニ云はるるがごとし
蓮盛抄 151頁
大乗仏教の観点からすると、大乗が優れ、小乗が劣ると考えます。
そもそも、小乗という言い方が大乗仏教からの視点で言われていることで、上座部仏教、部派仏教、南伝仏教の側が自らを小乗と言うことはありませんし、そのような認識もないですね。
いずれにしても、大乗仏教の立場から物事を述べる場合、端的に、「小乗」という言葉を使うわけです。
「下劣乗」とも訳す場合があるということですので、小乗に対する評価はきわめて低いということがいえるでしょう。
その小乗であっても、外道と比べると優れており、大乗に等しく、大乗と呼ばれるという。
また、下掾A所謂、立場の低い人間であっても、より劣っている人間と対比すれば、相対的に上位になりますから、その小さな枠内では、殿と言われたり、上掾A所謂、立場の高い人間と言われたりします。
評価などというものは、いい加減なもので、対比する対象の選択次第でどうにでもなります。
よって、自分の方が上だ、といっていい気になっても仕方がないのですね。
逆に、自分は劣っている、といって必要以上に嘆くこともありません。
根本的に上を目指すというのがよいですね。
つまり、境涯を上げるということです。
十界論からいえば、地獄、餓鬼、畜生という三悪道や、修羅を含めた四悪趣に留まるのではなく、あくまでも仏の次元を土台とした状態であるべきですね。
他者と比べて、どうのこうのと言っても、その時々により、上に行ったり下に行ったりということですから、いちいち気にしていますと疲れるだけですね。
自分の境涯を仏界の状態に持っていきながら、地獄、餓鬼、畜生、修羅の状態すら活かすという生き方が求められます。
他者と比べるのではなく、自分自身の境涯を上げることに専念することが大切ですね。