しかし、すべての人間といっても、「仏性」や尊いものがあるとは思えないような人間にも出会います。
嫌いな人、嫌な人、苦手な人、好きになれない人、この野郎と思う人等々に対しては、「仏性」などないはずだと思いたくなる場合もあります。
どこが尊いのだと異論を差し挟みたくなる時もあります。
このような感情は、よくある感情ではありますが、好ましい感情ではありません。
また、仏教の観点からすると、単なる間違いといえましょう。
注意しなければなりません。
自分がどのように思おうとも、感じようとも、すべての人間には「仏性」があり、すべての人間は尊い存在であるというのが、「理」の側面からではありますが、仏教上の真理であり、根本です。
この点、自分自身の感情は、さほど重要ではありません。
というよりも、全く重要ではありません。
天台の「摩訶止観」第五には、「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此三千は一念の心に在り、若し心無くんば而已なん、介爾も心有らば即ち三千を具す」(『国訳一切経 (和漢撰述部 諸宗部 3)』大東出版社 178頁)とあります。
心、一念があるならば、十法界、十如是、三世間の三千があるということですが、この言葉の言わんとしていることは、どのような状態であれ、すべての存在は「仏界」に繋がっているということです。
すべての存在は、「仏」であるということです。
「理」の側面ではあっても、この「理」の側面を外して「事」の側面を論じたり、実践したりしてはいけません。
とすれば、当然のことながら、すべての人間は、本来的に「仏」という尊い存在であるということになります。
自分自身の単なる好き嫌いなどの感情は、仏教の教理からすれば、どうでもいいことです。
しかし、この感情というのが厄介ですね。仏教の教理でいえば、地獄界、餓鬼界、畜生界といった貪・瞋・癡に囚われている状態といえますね。
仏教ですから、仏界でなければなりません。
先に引いた天台の言葉をその通りだと実感し、その通りであると実践できる状態が仏界に相当する境涯といえるでしょう。
これは相当難しい実践ですね。
しかし、困難な実践ができないようでは、仏界の境涯には至らないでしょう。
物事が簡単に成就すると考えてはいけません。
どのような人にも「仏性」「仏界」「仏」があるという根本義をゆるがせにせず、「敬意」や「敬う」という態度を自分自身の根本としながら生きていくべきでしょう。
短期間では、これといった変化も何もないでしょうが、長い期間で考えれば、相当な変化となっていることと思われます。
何気ない日常、何気ない日々の積み重ねがその人の人生を形作ります。
目先のことではなく、長い目で物事を捉えていきたいですね。
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