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2015年01月06日

ネパールの旅10

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カトマンズで完全に沈没してしまった自分は、引きこもりの状態になってしまった。あっと言う間に1週間が過ぎてしまったが、特にする事もなく旅も駆け足で回ってきた感じがした。ネパールでゆっくりしていていいのか分からなくなったが、確実にダメ人間になっている罪悪感も出てきた。早く次の国、インドを目指さないといけないのだが、いまいちインドへ入るのが重くなってきており、このまま旅を終わらせて、日本へ帰ろうと何回も思った。その反面、インドに行かずに帰ってしまうと後悔するかなとも思ったりもして葛藤していた。昼食は日本食が中心となり、夜も日本食レストランに足を運ぶようになってしまった。カトマンズからインドへは近い。何とか、この沈没状態を脱出しないといけないと思いながらもグダグダの毎日を過ごしていた。ある日、バイクに乗ったネパールの少年がトレッキングに誘ってきた。またか、と思ったがバイクの燃料代だけでいいから払ってくれたら、ネガルコットまで案内すると言う。この少年は、ナガルコットに住んでいて買い物にカトマンズに来ただけであった。引きこもりの生活も、もういいかな。と思いOKを出した。次の日の出発で早朝の7時に待ち合わせをしたが、夜明けまで本を読んでいたせいか起きれなくて、ドタキャンをしてしまった。こんな事があって、自分自身が嫌になり、インドへ向かう決心をした。バスのチケットさえ買ってしまえば、インドに行かないといけないので自分を後ろから押す形でバスのチケットを買いに出掛けた。寒いカトマンズだが、日に日に寒くなっていくような気がした。


2015年01月05日

ネパールの旅9

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日本を出発してカトマンズで10ヶ月近くの旅になった。久しぶりの日本の活字を読んで楽しくなり、レンタル本を毎日借りるようになった。日本人の友人とナガラコットに行く約束もしていたが、1人になって夜明けまで本を読んでいる方が楽しくなり、その約束はぶっちぎる事となってしまった。昼過ぎに起きて、遅い昼食を取り、ダルバール広場に足を運び1時間ほどボーっとして、本のレンタルをして、シャワーを浴びて、夕食を取りに出かけて、夜に本を読みだす。大体、1冊の本を1夜で読み切る。そんな生活が続いた。完全に自分はカトマンズで沈没してしまっていたが、その生活に満足していた。ビザも15日間しかなかったが、延長して更に15日間のビザを取得した。沈没と分かっていても、それが楽しかった。外に出ると地元の若者が流暢な日本語で話しかけてくるが、1週間も同じ行動をしていると挨拶程度にしか声を掛けてこない。彼らの目的はトレッキングに同行・案内をして、その料金を取る仕組みだが、トレッキングに行きたいと思わなく、彼らも自分がトレッキングに興味がない事が分かるとシツコクして来なくなったからだ。彼らは貧困層で定職に就けなくて、旅行者をターゲットにしているので、自然と英語・日本語・フランス語を話せるようになっていくのだ。日本で就職したら、語学が堪能な人材なので企業は正社員として欲しいだろう。しかし、彼らには、そのチャンスさえないので可哀想だと思った。特に彼らはボッタくる事はしないのだが、地元の旅行会社がトレッキングの手配をしてくれるので、観光で来ている人達は旅行会社に頼んでしまい、トレッキングの案内の仕事も満足に出来ないのである。道端にたむろしているネパール人に声を掛けられてトレッキングに行く人は、そんなにいないのが現状であった。そして、自分は自分の世界に入りこんでしまい、沈没の生活を毎日繰り返すだけになってしまっていた。


2014年12月30日

ネパールの旅8

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カトマンズに戻ってきた。今回は、バスターミナルの客引きと値段交渉して「student guest house」に泊まる事にした。自分は学生ではないが、面白いネーミングだったので泊まる事にした。タメルのど真中にあり、ゲストハウスとは思えないほど綺麗で部屋の中もシングルベッドに机とトイレ・シャワー付で新しいゲストハウスに見える。隣の建物には日本の本や雑誌をレンタル出来る所があり、ラインナップも凄い数で、早速借りて見る事にした。宿に戻る際に、上海で一緒だった日本人に会いポカラの話をしたりして、トレッキングの話にもなった。エベレストを見るにはナガルコットに行って見るのがいいらしく誘われたので、近いうちに行こうと決めた。久しぶりの日本語の会話が楽しく夜がふけるまで話してしまった。適当に夜ご飯を食べて宿に帰る途中に、いつでもそうなのだがドラッグの売人が話掛けてきた。なんと小さな子供が売っていて、話を聞いていると外人相手に薬物を売って家族の生計を立てているそうだ。今日は何にも売れていないみたいで少しでも売れるまでは帰らないみたいなので、可哀想なので10ルピーをあげた。子供は非常に喜んで、何か包みを渡して帰って行った。しかし、夜のカトマンズは冷える。宿に帰ってホットシャワーを浴びて、帰りに買ってきたミネラルウォーターを飲み、子供からもらった小さい包みを見てみた。なんと、マリファナっぽい物が入っていたのにビックリしたが、上海で出会った彼が一日中マリファナを吸っている話を聞いたので、次回に会ったときに渡そうと机の上におき、借りてきた本を読む事にした。本の内容がアメリカとの戦争で日本がカリフォルニアまで支配して行くストーリーで中々面白く、活字を読むのも久しぶりだったので、疲れて寝るどころか本に集中してしまい寝たのは朝方5時になってしまった。


2014年12月26日

ネパールの旅7

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ポカラ2日目の朝、外に出て見るとエベレストの山々が綺麗に見えていた。圧巻の景色に満足。しばらくエベレストを見ていた。朝食はホテル側が出してくれて寒いながらもベランダでエベレストを見ながら食べる事にした。しかし、1人と言うのは、寂しくて、話相手がいないと退屈になるものだ。朝食を食べ終えて湖を散歩する事にして出掛けた。天気が良い以外は何も変わらない景色であり、自分にとってはポカラは、たった2日で飽きてしまった。先を急ぐ旅でもないが、あと1日居て、カトマンズに戻ろうと決心した。いたずらに時間だけが過ぎて行くのも嫌だったし、何より寂しかった。きっと、ダムサイドに移れば日本人バックパッカーに会えるだろうが、ダムサイドに移るのも面倒だったのでレイクサイドで残りの日を過ごす事にした。ホテルに戻ればオーナーが話相手になってくれるが、あまりにもゆっくりした時間を過ごすのは自分に合っていなかったので、明日を最終日にしてチェックアウトする事をオーナーにも話して、カトマンズ行のバスのチケットを購入した。湖を見て、カフェで昼食・夕食を取るのが日課となり、2日目・3日目も同じく過ごした。ポカラでは、あんまり良い思い出を作れなかった事に少々残念だったが、4日目の朝にチェックアウトをしてカトマンズ行のバスに乗込み、ポカラをあとにした。


2014年12月25日

ネパールの旅6

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カフェでサンドイッチを食べた後に湖畔を散歩する事にした。あいにく天気は曇りでエベレストは見えないが空気が澄んでいて気持ちが良く湖も綺麗だ。湖畔に人だかりが出来ているので何があったのか見に行ってみたら、何やら深刻な雰囲気が漂っていた。1人倒れていて、その付近にいたネパール人が何があったのか教えてくれた。湖の中に電線に感電したみたいで即死したとの事。外人は見ない方がいいと言われ、その場をあとにしてメインストリートへ戻り、土産屋を見てホテルへと戻った。なんとも、ポカラ初日で死人が出るとは考えもつかなかった出来事だった。ホテルでは、宿泊客が少ないみたいでオーナーとベランダで話して過ごした。ポカラの食事が美味しい所を聞いたが、オーナーは外食はしないので良く分からないみたいなので、夜ご飯も同じレストランで1人寂しく食べる事になってしまった。レストランではアメリカ映画を上映してしていたが面白くないので食後はホテルに戻り寝る事にした。


2014年12月24日

ネパールの旅5

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カトマンズからポカラに向かうバスは古くて、中国で使われたお払い箱のバスのようにも見えた。ネパールは山岳地帯が多いので運転手の技量に任せるしかないが、峠を走行している時は身体に寒気が走る。その反面、景色は最高に良い。天気が良いとヒマラヤ山脈が見えるのが圧巻だ。一体、どのくらい掛かるのか不安でもあったが、比較的治安の良いネパールだったので、くつろぎながらバスの旅を楽しんだ。朝一に出発して、夕方前にポカラに到着したが、ここでも安宿の客引きがバスターミナルに押し寄せていた。バスから降り、ダムサイドとレイクサイドのどちらかに分かれるのだが、事前の情報だと日本人沈没者がダムサイドに多いとの事だったので、沈没しないようにレイクサイドをチョイスした。レイクサイドの客引きが15人ほどいたが、とりあえず適当な客引きについて行く事にした。ここは、あくまでも第六感(適当)で決めたようなもんだった。汚くて高ければ、また客引きに捕まればいい。と言う考えだった。歩く事、10分で宿に着いた。なんか、お城みたいな造りで新築と言う感じだった。オーナーが出てきて値段交渉と思いきや、1泊2ドルでどうか?と聞いてきた。とりあえず部屋を見せてもらったら、ツインベッドで広くて綺麗なホテルであった。ホットシャワーも出て、この値段なら文句なし。二言返事でチェックインを済ませて、大通りに出て昼食を取る事にした。レイクサイドと言う事だけあって、湖が目の前にあった。大通りは、ほとんどが欧米人向けのカフェばかりで適当に入って、サンドイッチを注文。カフェの中にいる旅行者は自分以外、欧米人だった。サンドイッチも中々美味しかったが、これだけ日本人がいない所を見るとダムサイドへ行けば良かったかなと後悔もした。
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2014年12月22日

ネパールの旅4

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カトマンズではタメルを中心に歩いていたが、ちょっと歩くとダルバール広場へと着く。道は狭くて、レンガで簡素に造られた建物が連なっている。情緒はあるのだが、車が通る際には脇を歩かないといけないほど道幅が狭い。更に歩いて行くとモンキーテンプルと言うカトマンズを一望出来る丘へと登る事が出来る。最初、カトマンズに着いた時には快晴だったが、日が経つ事に雲に覆われてヒマラヤが見えなくなっていった。ネパールのカレーにも飽きた所で昼間は日本食屋に行くようになり、味も中々旨くて、長い間に日本を離れているので日本食がやたら恋しくなる時でもあったので、カトマンズの日本食は何軒かあったが、どれも自分には合った味であった。カトマンズで、ゆっくり過ごしていても仲の良い友達がいる訳でもないので、ネパールの避暑地のポカラを目指す事にした。バスのチケットを買って、ポカラで3泊過ごす事にした。バスターミナルは、ちょっとタメルから歩く事になったが、嫌な遠さではなかったので街の喧騒の中、歩いてバスターミナルに到着。避暑地に行って違う街を見る好奇心もあったので心は浮かれていた。一人になってから寂しくなり、一つの街に滞在する時間が少なくなっている事に気づいていたが、妙に日本に帰って就職しないといけないな。と言う罪悪感も考え始めていた。


2014年12月19日

ネパールの旅3

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宿に戻るとオーナーが夜ご飯を作って待っていてくれた。どうやら宿泊客が少ないので、ご飯を出してくれるみたいだが、昼食に食べた、カレーとモモ(餃子)が出てきた。ネパールの人は毎日同じ食事が日課のようで出してくれるのは嬉しいが1回で飽きがくる。カレーの味も薄くて水っぽいし、餃子も水餃子なのだが皮が厚い。嬉しい事にビールや酒を出してくれて、自分のネパール旅行の初日を歓迎してくれた。ミャンマーでは頻繁に停電があったのだが、今日一日を過ごしてみた感じでは停電はなさそうだ。いい気分で酔っ払ってきて食事も食べ終わったら、オーナーが見せたい物があると街に出る事になった。歩いて3分程の近さだったが、着いた先は酒場であり、檀上では女性の踊り子が踊っていて店はネオンで薄暗くなっていた。音楽のボリュームも大きく話をする事は困難だったが、まるでゲームの「ドラゴンクエスト」の酒場に見えた。席に着いてオーナーが酒を注文して飲みながら踊り子のダンスを見ていた。民族衣装に包まれて踊っている光景は、どこか懐かしい感じにもとらえられた。酒の瓶を見るとエベレストの絵が描いてあるのだが、ストレートで飲むので、やたら濃くて喉から火を噴きそうだ。瓶の裏を見るとアルコールの度数が50%と書いてあった。かなり酔っ払ってきて何時間、この場所にいるか思い出せないほどフラフラになってきて気が付いたら自分のベッドで寝ていた。朝になり、かなり二日酔いであったが、やたらと冷え込んでいた。カトマンズは高地にあるせいか寒い。これからの2週間、冬着で過ごす事になった。


2014年12月17日

ネパールの旅2

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安宿の屋上からのチャイは格別に美味しかった。宿の若いオーナーと話した後に街に出てみる事にした。灼熱のミャンマーから一転、寒いネパールの気温差に体がついてこなかったが、このタメル地区はかなりゴミゴミしており英語表記の看板が沢山見受けられる。10m歩くごとにネパール人から話掛けられるが無視して街の散策を楽しんだ。まだ昼間なので裏路地も怖くなく歩ける。あまり遠くに行くと迷子になりそうだったので、迷子にならない程度に歩いてみた。この土地柄、エベレストのトレッキングが外国人に受けているのか防寒着やシュラフを売っている店を多く見かける。日本食も所々にあり看板が出ている。ふと裏路地に入ってみたら、日本人らしき男性が座っていてネパール人と話していた。どこかで見た顔だなと思って、その場を通り過ぎようとした時に、「あれ?カズ?」と話し掛けられた。自分も振り返って見ると、なんと大阪港から出航して上海で共に過ごした仲間だった。上海ではクラブに行って、女の子にボッタくられた彼であった。懐かしい話をしていると、彼は結局、中国のチベットに入り、そこから陸路でカトマンズに来たのだが、この土地が住みやすくて沈没しているとの事。カトマンズは沈没者が多いので、その一人となっている訳だが、1泊80円で宿の従業員と同じ部屋で過ごしているらしく、毎日路地に座ってはネパール人と話してるだけみたいだった。自分は、中国からミャンマーまでの道のりを話したが、彼が言うには凄い行動力だね!と言っていた。色んな国が見たいので自然の流れなのだが、彼にとっては、まだ2ヶ国目なのである。これだけ長いしているとネパール語も日常程度覚えたらしく、彼がたくましくも見えた。泊まっている宿を教えて自分は散歩を続けたが、彼と話している時間が長かったのか、すでに夕方になって来たので、自分の宿へ戻る事にした。


2014年12月16日

ネパールの旅1

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ネパールの空港が近づいてきた。眼下にはカトマンズの街が見えて、横にはエベレストが曇っているけど見える。世界最高峰のエベレストは富士山の形状とは違って横に延々と伸びていて壁のようだ。エベレストを見ていると、着陸して飛行機はエアポートに着いた。見渡す限り飛行機の数は少なくて、ここも国際空港なのか。と疑問に思うほどであった。飛行機が停止して入国審査まで来た。入国審査を受ける前に15日か30日の観光ビザの取得が決められるので、とりあえず15日のビザを申請して15ドル支払った。1日1ドルの勘定になる。この入国審査で一番最後になったせいか、飛行機に乗っていた人達がいなくなっていて、空港を1人で出た。外は寒くて半袖1枚だと風邪を引いてしまいそうなので上着を取り出して着た。空港の出口を曲がって外のゲートに差し掛かると地元のネパール人がプラカードを持って騒いでいるが人数が50人ほどいてビックリ。警官が、敷いてある線から空港に入らないように、しりきに怒鳴っている。この人達は宿のキャッチで、自分1人しかいないのに、どの宿を選んでいいか分からず、この線を越えたら身ぐるみ剥がされそうなほど怖かった。1番端の兄ちゃんが「危ないから、こちらへどうぞ!」と声を掛けてきた。その兄ちゃんもキャッチなのだが面倒なので兄ちゃんに付いていくと周りの50人は最後の自分を捕まえられなかったので、バラバラに散り始めた。車に乗り込むと「ネパールへようこそ!私はアンナプルナ・ゲストハウスのオーナーです。」と日本語で話しかけてきた。日本語・英語が堪能で外人相手の商売なので自然に覚えたらしい。空港から街までは近くてタメル地区に着いた。古い町並みで、やたらとゲストハウスの文字が見かけられる。タメル地区は、かなり道が細くてレンガ造りの建物が多く見受けられる。火災や地震など起きたら危なそうな感じに受止められる。兄ちゃんに1泊の値段を聞いてなかったので聞いてみたが、部屋を見て決めて欲しいとの事だった。なんとも、自分で値段を決めていいなんて面白い発想だなと思い、宿に到着した。部屋を見せてもらったが、至って普通で良くもなく悪くもない。ネパールは物価が安そうなので、2ドルでどうだ?と話してみたら、それでOKだと言った。あまり客がいないのか閑散としていたが、食事を出してくれるので食堂に来てくれと言われ、カレーと餃子を出してくれた。さすが、中国とインドの間にある国だけあった2つの国の文化が混ざりあっているなと感じた。味は、あまり美味しいとは言えないが無料で出してくれているので、一応美味しいと言って食べた。食べ終わると日本語をもっと教えて欲しいから屋上で、チャイを飲みながら話をしようとなり、屋上に上がった。屋上からの眺めは最高でカトマンズが見渡せてエベレストも見る事が出来る。宿のオーナーとネパールの事を日本語で話をしたりしてコーヒータイムを過ごした。


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