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2020年11月21日

釜石の奇跡〜鵜住居小学校と釜石東小学校、あの日あのときの記録。

釜石の奇跡〜鵜住居小学校と釜石東小学校、あの日あのときの記録。

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 もう、あれから9年。(2019年1月現在)
 今年の3月11日で9年目を迎えることとなった2011年の東北関東・東日本大震災。

『巨大地震 巨大津波―東日本大震災の検証―』平田直・佐竹健治・目黒公郎・畑村洋太郎 著にこんなことがかかれてあった。

岩手県釜石市:これが後に‘釜石の奇跡’と呼ばれるようになった事実である。

 海岸から約1kmの位置にある鵜住居小学校(児童数361名)では、地震直後に児童は校舎の3階に集まろうとした。小学校の建物自体に被害が特に発生していなかったこと、また小学校の位置が明治と昭和の津波でいずれも被害がなかった場所で浸水想定区域外であったことによる。しかし、児童が3階に集まり始めた頃、隣接する釜石東中(生徒数222名)では生徒は校庭に駆け出していた。同中学と鵜住居小学校は日頃から訓練を合同で実施していたことから、中学生の行動を見た児童たちは自らの判断で校庭に駆け出した。児童・生徒ら約600人は、500m後方にある高台の指定避難所であったグループホームまで避難した。しかしここで裏側の崖が崩れるのを目撃する。危険を感じて児童・生徒はさらに500m先の高台にある介護福祉施設を目指した。背後から聞こえる轟音と防波堤にぶつかる白い波しぶきを見た児童・生徒は、介護福祉施設からさらに高台へ駆けた。津波は介護福祉施設の100m手前で止まった。小中学校はもちろん、グループホームも津波にのまれた。

 児童・生徒は全員無事であった(当日欠席していた3名が犠牲となった)。

 これを成し遂げたのは、≪群馬大学の片田敏孝教授の津波防災教育による成果≫だという。

避難3原則:@想定にとらわれない、A状況下において最善をつくす、B率先避難者になる
小学生が校舎3階から校庭に駆け出して高台に向かったこと、中学生が率先避難者になったことなどはすべて「避難3原則」にあてはまる。

 実は最近、この‘釜石の奇跡’の、当時の中学生にお会いしてお話を聴く機会を得た。
 先日、1月27日に岩手県の主催で「いわて三陸復興フォーラム」というものが開催された。今回は釜石市での開催だった。そのときの話である。

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 復興の現場見学で訪れた「うのすまい・トマス」の‘いのちをつなぐ未来館〜Tsunami Memorial Hall〜’で、語り部をしてくれた若い女の子が、釜石の奇跡の当事者だった。

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 その日、実は「運命」が彼女たち中学生を救った。
 釜石市立釜石東中学校3年生だった彼女たちは、もうあと2日を残して卒業という日だった。あの時間、通常だったら皆帰宅していたはずの時間だったと彼女は言った。

「あの日、ミラクルで先生に怒られて30分学校にいた」と。
 怒られてふてくされた感じで学校内に皆まだいた。そのとき、揺れが襲ってきた。ものすごい横揺れで、「絶対津波が来る!」と確信したと彼女は言った。揺れがすごくて彼女とその場にいた数人の生徒は動けなかった。他の子たちが点呼の場所に走って集まっていくのが見えた。最後にその場に辿り着いたとき、先生が叫んだ。

「点呼とってる場合じゃない。走れ!」

 そのとき、まだ小学生たちは逃げていなかった。そこへ消防団の方がやって来て、逃げろ、と小学生を誘導してくれた。そして、最初に辿り着いた「ございしょの里」で小学生と中学生は合流した。そこから「やまざきデイサービス」へ向かって、中学生と小学生が手を繋いで一緒に逃げた。

 彼女はそのとき思ったそうだ。手を繋いだ小学生の命への責任を。もし、今津波が襲ってきたら自分はこの手を放すべきなのかそれとも一緒に走って逃げるべきなのか、と。

 ようやく標高15メートルの「やまざきデイサービス」に辿り着いて振り返ったとき、すでに波が迫っていた。海が山の高さと同じだった、と。そのとき恐怖でパニックになった子ども達。今来た道に引き返そうとする子がいたり、泣き叫ぶ子もいた、と。

 それから標高44メートルの恋の峠まで逃げ切った彼女たち。

 避難所で一夜を明かしたとき、1日目は「屋内にいられるだけでラッキー」だと思っていたそうだ。つまり、外はものすごく寒かったということだろう。しかし、そのとき彼らは情報から遮断されていた。「ここにいて安全なのか?」「移動した方が良いのか?」

 2日目。3月12日。一夜明けて明るくなったらそこにいた皆それだけで元気になった。押し黙っていた人たちが一斉に話し始めたのだそうだ。知り合いの安否や物資は届くんだろうか、等。そして、周囲を見て、「これじゃ自衛隊も来られない」と残っていた重機を操作してガレキを避けたりと作業を始める人もいた。

 3日目。3月12日。自衛隊が入り、物資も届き始めた。

 奇跡というけれど、と最後に彼女は言った。先生が逃げろと言ってくれたから、小学生に消防団の方が避難を誘導してくれたから、そして、恋の峠からダンプカーの運転手さんが避難所まで乗せてくれたから、私たちは今もうやって生きている、と。だから地域の皆さんが助けてくれた命なのだ、と。

 最後に彼女はこう言った。「地域の子とも達に声を掛けてあげて欲しい」と。

 一生懸命説明してくれた彼女の真摯な表情と、綺麗な笑顔と、まっすぐで清らかな姿勢がいつまでも心に残り、あの「釜石の奇跡」の子どもの生の声を聞いて、心が震えた。

 最後に、「あの、30分先生に怒られたって言ってましたよね?」と聞いたら。

 なんでだったかな、確か、卒業式の後でお母さん達にありがとうをする企画のようなものがあって、合唱も練習してなくて、それを怒られていたと思います。合唱の練習もやったので、30分くらい掛かってしまって、と。

 その30分がなければ帰ってたかも知れないんですね、と聞くと「帰ってました」と即答。そして、親が迎えに来て帰った子だけが亡くなったという現実を知っている。そのとき、すべての生徒を学校に残した奇跡がすでにそのとき起こっていたのだ。

 偶然が、という表現をそのときしてしまったけど、急いでいて言葉を選ぶ暇がなかったからだったんだけど、違う。偶然なんかじゃない。運命だったのだ。

 実は、胸がいっぱいになっていたことと、移動時間が迫っていたこととでしっかり言葉に出来なかったことがある。そう、彼女に対して。

「中学生であの震災を体験し、生き延びて、つらい思い出をたくさん抱えたままで毎日を生きて、あなたは今ここにいる。それでも、そうやって笑顔で接客をしながら、この施設を訪れるたくさんの人の相手をしながら、時間で癒されながらも、当時のことを繰り返し繰り返し話し続けることで、それを心に刻み続けている現実。その緩やかで残酷な時間の流れの中、あなたがこうやってにこにこと楽しそうに生きていることが、どんなに辛いことがあってもそれを思い出に変えながらしっかり仕事をしている姿を見られたことが本当に嬉しかった。ありがとう。心からありがとう。素敵な笑顔に出会えた奇跡に心から感謝します」。

 最後に当時の資料を読み返して、感極まった記述があったので記して終わります。

平成23年4月21日『首都圏で、ゴールデンウィークの被災地での泥だしや、家屋の掃除などの力仕事のボランティアを200名募集したら、募集開始から10分で、600名の応募があり、早々に応募を締め切ったそうだ。』

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田舎で完全予約制の鍼灸院をやってます。 田舎とは言っても、車で30分くらいでイオンもあり(田舎じゃん!)、バスは一日に数本あり(超! 田舎じゃん!)、でも、JRの駅が徒歩圏内(ま、はいはいって感じ)にあります。
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