新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2020年11月19日
ソウルコーチング 〜あなたは本来の道を歩んでいますか?〜
ソウルコーチング 〜あなたは本来の道を歩んでいますか?〜
トウリーディングとは、足指が示す人生の歴史、無意識下に閉じ込められて無かったことにされた記憶に光をあて、その闇を解放・浄化して本来の自分を取り戻し、この世に生まれてきた使命を心地良く果たしていくための手法である。
これは、ある意味「個人の感想です」に過ぎない内容になるが、現段階で学んだこと、受け取ったことをお伝えしてみたいと思う。
病気という言葉は英語ではdiseaseとなる。これは、「dis=離れる」と「ease=心地良い状態」という二つに分けられます。つまり、病は「心地良い状態から離れてますよ」という意味であり、症状は身体本体へのメッセージです。
病気になったから心地良い状態から離れたのではなく、心地良い状態から離れているから病気になったということです。
マザー・テレサの言葉と言われている「愛の反対語は無関心」というものは、自分に対しても同じです。
今、病気に侵されている自分、それは「生かされているから大丈夫」。では、いったい誰を救ってあげれば良いのか?
おおまかに言えば、
右足は「男性性」「未来」「外面」「他者」「この世的な懸念」
左足は「女性性」「過去」「内面」「自己」「スピリット・神」
そして、親指から小指に至るまで、それぞれに人生の年齢や身体の臓器、チャクラと関連があり、それを言葉を通して、救ってあげるべき過去の記憶に光を当てていく。周囲の言動で傷ついた小さい子、周りの諍いを治めるために犠牲になった健気な子、家族の都合で振り回されて行き場のなかった迷い子、自分が悪いと思い込んでいたpureな子、その子たちが必死に訴えていることが足指に表れている、ということ。
○○、だから△△
ではなく、
○○、そして△△
つまり、過去にこんな酷いことがあった、こんなに悲しいことがあった、だから今がこうなっている、ではなく。過去に起こったことは変えられない。だけど、それを踏まえて、そして、「過去をどのように書き換えますか?(あなたは、どうしたかったの?)」「これから、どのように未来を生きていきたいですか?」
しかし、その最初の○○を探りだすことがそもそも困難で、幾重にも封印して押しこめている記憶はなかなか白日のもとに姿を現わさない。
それを丁寧に聞いていく。
悟り=enlightenmentは、en=当てる。lightは光。誰かに言われて闇にしてしまっていた部分に光=言葉を当てることにより、その閉じ込められていた思いを解放し、浄化して天に放つ。解放出来ない限り、その子はいつまでも訴えてくる。ここにいるよ、見ない振りしないで、無かったことにしないで、と。
個人的なハナシ(個人の感想です)になるが、実は、今回受講したこのコース(2020年6月7月)のことが、その日にあったことすら忘れてしまうような現象が起こっていた。そのときの旅は深くて、周りが闇で、ほんとうに別世界に落ちていたのかも知れない。後日、少しずつ思い出して、今ではほぼ明確に思い出せるが、もしかしてその記憶は捏造かも知れない、などとちょっと思っている。
傷ついたあのときの小さい自分、自分を責めることで存在の許可を得ていた自分、自分の中心がしっかりしていないから、他人の腹時計(太陽)をお腹に置いて、つまり相手の立場に立とうとして空回りしていた自分、それはアイデンティティがしっかりしてなくて、右に左に振れて地に足がついてない、腹の据わっていない、不安定な状態だったことを暗示している。
埋もれていた過去の記憶を掘り起こしたとき、掛けてもらった言葉にハッとする。
あ、そういうことか。なんだ、そうだったのか。
するするする…っと、こんがらかっていた糸がほどけていき、複雑に絡み合っていた視界がどんどんクリアになっていった。
それでも、今回も帰りの夜行バスであまり眠れなくてヘロヘロになって駅に降り立ったときに起こったこと。
回顧と嫌悪、そして後悔。
いつも、どんな集まりであろうが、それが終わって家に帰る途中、帰ったあと、必ず後悔が襲ってくる。振り返ってみると、その場での自分の言動のすべてがイヤになり、過去をすべて消し去りたいと思ってしまう。
しかし、今回はそれに襲われたとき、「あ、いかんいかん」とその根底にある感情や何に対してそんなに嫌悪を抱くのかを掘り下げてみた。そしたら、「ああ、そうか」というものが浮かんで来た。
振り返って消してしまいたい記憶というのは、そのときの言動が「自分がしっかりと中心に」いないときに、勝手に誰かのためを思って動いてしまった上っ面の言葉であり、行為だったからだと思う。
相手じゃない。周囲じゃない。自分がそこにいないとダメなのだ。そりゃ、ほんとうに相手の気持ちなんて分からないし、例えシンクロしていたとしても相手にとっては有難迷惑だったり、本人の学びのために放っておくべきことだったという場合もある。
地に足が付いていない、というのがどういうことなのか、今までまったく分からなかった。
今まで地に足がついていなかったことが、今、ほんとうに分かった。
心の癖は怖いな、と改めて実感。
そして、思ったのです。
この闇を掘り起こす作業が個人レベルでどんどん進み、次第に周囲の人を巻き込み始めると、いつかシンクロニシティが起こり、一気に人類という闇に光が当たる日が来るかも知れない。そしたら、きっと地球は進化のステージをひとつ進めるのではないかと。
壮大だけど、始まりはやはり一歩からである。
革命を達成する人の原動力は私怨だったりする。
世界平和を漠然と願うより、目の前の泣いている子どもに手を差し伸べる。その繰り返しが大きな進化の潮流へと注がれるのではないだろうか。
「今までの自分はこうでした。そして、これからは、こうしていきたいと思います。」
「今までの世界はこうでした。そして、これからは、こんな世界にしていきたいと思います。」
トウリーディングとは、足指が示す人生の歴史、無意識下に閉じ込められて無かったことにされた記憶に光をあて、その闇を解放・浄化して本来の自分を取り戻し、この世に生まれてきた使命を心地良く果たしていくための手法である。
これは、ある意味「個人の感想です」に過ぎない内容になるが、現段階で学んだこと、受け取ったことをお伝えしてみたいと思う。
病気という言葉は英語ではdiseaseとなる。これは、「dis=離れる」と「ease=心地良い状態」という二つに分けられます。つまり、病は「心地良い状態から離れてますよ」という意味であり、症状は身体本体へのメッセージです。
病気になったから心地良い状態から離れたのではなく、心地良い状態から離れているから病気になったということです。
マザー・テレサの言葉と言われている「愛の反対語は無関心」というものは、自分に対しても同じです。
今、病気に侵されている自分、それは「生かされているから大丈夫」。では、いったい誰を救ってあげれば良いのか?
おおまかに言えば、
右足は「男性性」「未来」「外面」「他者」「この世的な懸念」
左足は「女性性」「過去」「内面」「自己」「スピリット・神」
そして、親指から小指に至るまで、それぞれに人生の年齢や身体の臓器、チャクラと関連があり、それを言葉を通して、救ってあげるべき過去の記憶に光を当てていく。周囲の言動で傷ついた小さい子、周りの諍いを治めるために犠牲になった健気な子、家族の都合で振り回されて行き場のなかった迷い子、自分が悪いと思い込んでいたpureな子、その子たちが必死に訴えていることが足指に表れている、ということ。
○○、だから△△
ではなく、
○○、そして△△
つまり、過去にこんな酷いことがあった、こんなに悲しいことがあった、だから今がこうなっている、ではなく。過去に起こったことは変えられない。だけど、それを踏まえて、そして、「過去をどのように書き換えますか?(あなたは、どうしたかったの?)」「これから、どのように未来を生きていきたいですか?」
しかし、その最初の○○を探りだすことがそもそも困難で、幾重にも封印して押しこめている記憶はなかなか白日のもとに姿を現わさない。
それを丁寧に聞いていく。
悟り=enlightenmentは、en=当てる。lightは光。誰かに言われて闇にしてしまっていた部分に光=言葉を当てることにより、その閉じ込められていた思いを解放し、浄化して天に放つ。解放出来ない限り、その子はいつまでも訴えてくる。ここにいるよ、見ない振りしないで、無かったことにしないで、と。
個人的なハナシ(個人の感想です)になるが、実は、今回受講したこのコース(2020年6月7月)のことが、その日にあったことすら忘れてしまうような現象が起こっていた。そのときの旅は深くて、周りが闇で、ほんとうに別世界に落ちていたのかも知れない。後日、少しずつ思い出して、今ではほぼ明確に思い出せるが、もしかしてその記憶は捏造かも知れない、などとちょっと思っている。
傷ついたあのときの小さい自分、自分を責めることで存在の許可を得ていた自分、自分の中心がしっかりしていないから、他人の腹時計(太陽)をお腹に置いて、つまり相手の立場に立とうとして空回りしていた自分、それはアイデンティティがしっかりしてなくて、右に左に振れて地に足がついてない、腹の据わっていない、不安定な状態だったことを暗示している。
埋もれていた過去の記憶を掘り起こしたとき、掛けてもらった言葉にハッとする。
あ、そういうことか。なんだ、そうだったのか。
するするする…っと、こんがらかっていた糸がほどけていき、複雑に絡み合っていた視界がどんどんクリアになっていった。
それでも、今回も帰りの夜行バスであまり眠れなくてヘロヘロになって駅に降り立ったときに起こったこと。
回顧と嫌悪、そして後悔。
いつも、どんな集まりであろうが、それが終わって家に帰る途中、帰ったあと、必ず後悔が襲ってくる。振り返ってみると、その場での自分の言動のすべてがイヤになり、過去をすべて消し去りたいと思ってしまう。
しかし、今回はそれに襲われたとき、「あ、いかんいかん」とその根底にある感情や何に対してそんなに嫌悪を抱くのかを掘り下げてみた。そしたら、「ああ、そうか」というものが浮かんで来た。
振り返って消してしまいたい記憶というのは、そのときの言動が「自分がしっかりと中心に」いないときに、勝手に誰かのためを思って動いてしまった上っ面の言葉であり、行為だったからだと思う。
相手じゃない。周囲じゃない。自分がそこにいないとダメなのだ。そりゃ、ほんとうに相手の気持ちなんて分からないし、例えシンクロしていたとしても相手にとっては有難迷惑だったり、本人の学びのために放っておくべきことだったという場合もある。
地に足が付いていない、というのがどういうことなのか、今までまったく分からなかった。
今まで地に足がついていなかったことが、今、ほんとうに分かった。
心の癖は怖いな、と改めて実感。
そして、思ったのです。
この闇を掘り起こす作業が個人レベルでどんどん進み、次第に周囲の人を巻き込み始めると、いつかシンクロニシティが起こり、一気に人類という闇に光が当たる日が来るかも知れない。そしたら、きっと地球は進化のステージをひとつ進めるのではないかと。
壮大だけど、始まりはやはり一歩からである。
革命を達成する人の原動力は私怨だったりする。
世界平和を漠然と願うより、目の前の泣いている子どもに手を差し伸べる。その繰り返しが大きな進化の潮流へと注がれるのではないだろうか。
「今までの自分はこうでした。そして、これからは、こうしていきたいと思います。」
「今までの世界はこうでした。そして、これからは、こんな世界にしていきたいと思います。」
posted by 朱鷺(shuro) at 10:19| 健康・美容・予防医学