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2020年11月16日
「黄泉がえり」梶尾真治の原作と草なぎ剛主演映画それぞれの感動!
「黄泉がえり」梶尾真治の原作と草なぎ剛主演映画それぞれの感動!
梶尾真治の小説『黄泉がえり』(新潮文庫)を原作とする映画「黄泉がえり」(東宝)が公開されたのは2003年。最初は3週間の公開予定が、感動が口コミで広がって実に3ヶ月のロングラン大ヒットとなったそうだ。
この映画は、朱鷺(shuro)も観た。もう細部まで覚えていないが、ものすごく印象に残ったことだけは覚えている。切ないラヴ・ストーリィであり、美しい余韻を残してすべてが去って行った、という気がする。
物語の筋としては、原作本の紹介より抜粋すると。
「熊本で起きた不思議な現象。老いも若きも、子どもも大人も、死んだ当時そのままの姿で生き返る。間違いなく本人なのだが、しかしどこか微妙に違和感が。喜びながらも戸惑う家族、友人。混乱する行政。そして“黄泉がえった”当の本人もまた新たな悩みを抱え…」
泣けるリアルホラーと紹介されている。
ホラーだったのか、これ?
しかし、映画ではむしろファンタジー的な優しい空気で満たされたまま物語は進み、そして、切ない思いを抱いて終わるラストだった。と、記憶している。
「黄泉がえり」。
このキーワードというか、この概念が、ずっとずっとこころに残ったまま、時間の経過と共に記憶の細部が薄れ、存在そのものも小さくなりながらも、決して消えることがなかった訳を、最近、知った。
朱鷺(shuro)にも、「黄泉がえり」を望む存在があるからだ。生まれ変わってまた会いたいとか、その相手が生きていた過去に帰りたいとか、そういうことではない。そうじゃない、そうじゃない。ただ、もう一度会いたい。そのままの存在を取り戻したい。吐くようにそれを思った日々が、「黄泉がえり」をファンタジーとしてでも深いところに留めて、拠り所にしてきたんだと。
だから、映画の物語がどうとか、原作ではこうだったとか、正直、大きな問題ではないのだけれど。
映画から入ったから、映画版の物語はとても好きで、大好きで、でも悲しくて何度も繰り返して観ることはしないけど、好き。
ふと最近、原作を読んだ。
そして、原作を今とても愛している。映画は映画として、原作は原作として。よくあることだけど、[原作]と[映画]はけっこうstoryの流れ方は違うし、登場人物の光の当て方やどちらかにしか存在しないキーパーソンがいたりする。だから、もしかして、設定は同じだけど全然別の物語ってこともありだと思う。
これは、そこまで違っているか? と言われると、亡くなった方々が黄泉がえってくること、そして、ラストの迎え方は大筋で同じ。ただ、登場人物がちょっと違って、映画は大きな流れをつくって、中心人物が物語を引っ張っていくのだけど、原作はたくさんの「黄泉がえり」が並行して進み、それぞれが絡み合ったり影響し合ったりしつつも独自の物語を進んでいく感じ。
だから、映画はひとつの物語が完結して余韻を残すのに対し、原作は、たくさんの物語がそれぞれのラストを迎えるという点がものすごく大きな違いだと朱鷺(shuro)は感じている。
「黄泉がえり」を引き起こした存在が明確になっているのが「原作」で、朱鷺(shuro)はしまいに、その「彼」が大好きになっていた。
これは、「彼」の成長物語でもあるのではないかと後で思った。成長というとちょっと語弊があるというか、感触的にちょっと違う。
仏教用語で「成仏」とは人間になることだとどこかで聞いたが、もしかして、「彼」が成仏する物語だったとでも言うのか。
イジメに寄る自殺で他界し、黄泉がえってきた男の子の台詞にこんなのがあった。
「ぼくは、一度、死にました。でも、自殺したことで家族やまわりの人たちを苦しませてしまったことを知りました。今度、黄泉がえり、これから皆さんの迷惑にならないよう、そして一所懸命に生きるように、もう一度やり直そうと誓いました。」
そして、イジメていた子が「俺のことは許さんだろう!」と声を荒げて彼を睨んだとき。
「許すよ。ぼくが死んだことで倉中くんにもつらい思いをさせたってことがわかる。」
そして、右手を差し出して言ったのだ。
「許すよ。倉中くんも許してくれ。」
こういうこと、すべてを「彼」が目論んだわけでは、もちろん、ない。だけど、「彼」が成し遂げたことは、最終的にこれ以上の崇高なことだった。
「彼」に思いが通じることは永遠にないのだから、これも片思いなんだろうな、としょんぼりするほど大好きで、「え、そこ?」と第三者だったら突っ込みたくなること間違いない!
考えさせられることとして、「思い残すこと」というキーワードがある。黄泉がえった少年が、自分の死が引き起こした波紋を知ったとき、それをどのように償えるのか。黄泉がえるとは要するに生き直すことであり、それに寄って「何が起こるのか?」。
切なくも深いテーマが根底に流れ続け、激しいオーケストラの旋律を聴きながら「ある結果」へと怒涛のように、まさに為す術もなくというのだろうか、吸い込まれていく。大きな渦に巻き込まれて、だけど流されているというより、その波に果敢に挑みながら清らかに生きる黄泉がえり者たちの姿が今でも目に浮かびます。
さて、ここから先は本筋とはまったく関係ない個人的なことなので読まなくて大丈夫です。
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梶尾真治の小説『黄泉がえり』(新潮文庫)を原作とする映画「黄泉がえり」(東宝)が公開されたのは2003年。最初は3週間の公開予定が、感動が口コミで広がって実に3ヶ月のロングラン大ヒットとなったそうだ。
この映画は、朱鷺(shuro)も観た。もう細部まで覚えていないが、ものすごく印象に残ったことだけは覚えている。切ないラヴ・ストーリィであり、美しい余韻を残してすべてが去って行った、という気がする。
物語の筋としては、原作本の紹介より抜粋すると。
「熊本で起きた不思議な現象。老いも若きも、子どもも大人も、死んだ当時そのままの姿で生き返る。間違いなく本人なのだが、しかしどこか微妙に違和感が。喜びながらも戸惑う家族、友人。混乱する行政。そして“黄泉がえった”当の本人もまた新たな悩みを抱え…」
泣けるリアルホラーと紹介されている。
ホラーだったのか、これ?
しかし、映画ではむしろファンタジー的な優しい空気で満たされたまま物語は進み、そして、切ない思いを抱いて終わるラストだった。と、記憶している。
「黄泉がえり」。
このキーワードというか、この概念が、ずっとずっとこころに残ったまま、時間の経過と共に記憶の細部が薄れ、存在そのものも小さくなりながらも、決して消えることがなかった訳を、最近、知った。
朱鷺(shuro)にも、「黄泉がえり」を望む存在があるからだ。生まれ変わってまた会いたいとか、その相手が生きていた過去に帰りたいとか、そういうことではない。そうじゃない、そうじゃない。ただ、もう一度会いたい。そのままの存在を取り戻したい。吐くようにそれを思った日々が、「黄泉がえり」をファンタジーとしてでも深いところに留めて、拠り所にしてきたんだと。
だから、映画の物語がどうとか、原作ではこうだったとか、正直、大きな問題ではないのだけれど。
映画から入ったから、映画版の物語はとても好きで、大好きで、でも悲しくて何度も繰り返して観ることはしないけど、好き。
ふと最近、原作を読んだ。
そして、原作を今とても愛している。映画は映画として、原作は原作として。よくあることだけど、[原作]と[映画]はけっこうstoryの流れ方は違うし、登場人物の光の当て方やどちらかにしか存在しないキーパーソンがいたりする。だから、もしかして、設定は同じだけど全然別の物語ってこともありだと思う。
これは、そこまで違っているか? と言われると、亡くなった方々が黄泉がえってくること、そして、ラストの迎え方は大筋で同じ。ただ、登場人物がちょっと違って、映画は大きな流れをつくって、中心人物が物語を引っ張っていくのだけど、原作はたくさんの「黄泉がえり」が並行して進み、それぞれが絡み合ったり影響し合ったりしつつも独自の物語を進んでいく感じ。
だから、映画はひとつの物語が完結して余韻を残すのに対し、原作は、たくさんの物語がそれぞれのラストを迎えるという点がものすごく大きな違いだと朱鷺(shuro)は感じている。
「黄泉がえり」を引き起こした存在が明確になっているのが「原作」で、朱鷺(shuro)はしまいに、その「彼」が大好きになっていた。
これは、「彼」の成長物語でもあるのではないかと後で思った。成長というとちょっと語弊があるというか、感触的にちょっと違う。
仏教用語で「成仏」とは人間になることだとどこかで聞いたが、もしかして、「彼」が成仏する物語だったとでも言うのか。
イジメに寄る自殺で他界し、黄泉がえってきた男の子の台詞にこんなのがあった。
「ぼくは、一度、死にました。でも、自殺したことで家族やまわりの人たちを苦しませてしまったことを知りました。今度、黄泉がえり、これから皆さんの迷惑にならないよう、そして一所懸命に生きるように、もう一度やり直そうと誓いました。」
そして、イジメていた子が「俺のことは許さんだろう!」と声を荒げて彼を睨んだとき。
「許すよ。ぼくが死んだことで倉中くんにもつらい思いをさせたってことがわかる。」
そして、右手を差し出して言ったのだ。
「許すよ。倉中くんも許してくれ。」
こういうこと、すべてを「彼」が目論んだわけでは、もちろん、ない。だけど、「彼」が成し遂げたことは、最終的にこれ以上の崇高なことだった。
「彼」に思いが通じることは永遠にないのだから、これも片思いなんだろうな、としょんぼりするほど大好きで、「え、そこ?」と第三者だったら突っ込みたくなること間違いない!
考えさせられることとして、「思い残すこと」というキーワードがある。黄泉がえった少年が、自分の死が引き起こした波紋を知ったとき、それをどのように償えるのか。黄泉がえるとは要するに生き直すことであり、それに寄って「何が起こるのか?」。
切なくも深いテーマが根底に流れ続け、激しいオーケストラの旋律を聴きながら「ある結果」へと怒涛のように、まさに為す術もなくというのだろうか、吸い込まれていく。大きな渦に巻き込まれて、だけど流されているというより、その波に果敢に挑みながら清らかに生きる黄泉がえり者たちの姿が今でも目に浮かびます。
さて、ここから先は本筋とはまったく関係ない個人的なことなので読まなくて大丈夫です。
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タグ:黄泉がえり