2017年02月19日
沖田畷の戦いを制した薩摩の陰陽師集団A
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沖田畷とは有明海に面した湿地帯で、人の通れる道幅が狭く、たとえ数万の軍勢であろうと二列〜三列縦隊にならないと通れない交通の難所です。
島津派遣軍の総大将は、当時の島津家当主「義久」の末弟「家久」でした。彼が数で圧倒的に勝る龍造寺勢に勝つために「有馬晴信」らと立てた作戦は、この場所に敵軍を誘い込み、軍列が長く伸びきったところを、正面・右・左の三方から一斉に攻めるというものでした。
結果、龍造寺勢は当主「晴信」を失ったうえ多くの死傷者を出し、本拠地の佐賀城まで退却するしかありませんでした。
これにより、龍造寺氏は急速に勢いを失い、島津氏にとっては九州統一の悲願が現実味をおびてきます。
今までの話が冒頭の案内板の話とどう繋がるかといいますと、薩摩領内から選びぬかれた島原派遣軍3.000名は、その祈祷所に集められ、念入りな加持祈祷を受けてから出兵したと書かれていました。
また、当時の島津軍の軍列は、先頭に僧形の兵を並べて、その者達に念仏を唱えさせながら行軍するという、かなり異様なものだったそうです。これも平安時代の武士の戦いの名残りかもしれませんね。
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