2017年01月29日
篠原国幹誕生地
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若くして、伊地知正治、重野安繹等と共に薩摩の藩校「造士館」に学び、和漢学を修めました。
戊辰の役では薩軍三番小隊長として活躍し、その功により明治5年陸軍少佐となり、その後「桐野利秋」と共に陸軍少将に任じられました。
明治6年征韓論に破れた西郷に従うように官職を辞し、桐野利秋等と帰鹿しました。
帰郷後は、私学校設立の総監督となり、完成後は教師陣の一人として子弟達の養成に励みました。
庄内からの留学生を自宅に住ます等、情に厚い人でもありました。西南の役では、総指揮官「桐野利明」を支える副官として薩軍一番大隊長という立場で出陣。田原坂の激戦を指揮しましたが、吉次峠の激戦で敵の敵弾に倒れ、41歳の若い生涯をとじました。
彼もまた加治屋町方切りの出身で、西郷・大久保の誕生地もすぐ近くです。
今更ながらたいして広くもない一つの町内から、多くの偉人たちが出ているのに驚きます。
生誕地跡に残るのは一つの石柱のみ。これはスペースの関係で、その跡地には現在「鹿児島県立中央高等学校」が建っています。
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