2017年03月09日
徳の交わりA
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東北地方には徳川譜代の藩が多かったため、戊辰戦争では官軍相手に連合を組んで
(奥羽越列藩同盟)武士らしく最期まで戦おうとする雰囲気に満ちていました。
「庄内藩」もその中の一つで、「酒井家15万石」老中まで輩出した名門です。
官軍が攻めてくると大いに戦い、米沢藩・会津藩と次々と降伏するなか、最期まで
戦い続けましたが、藩主「酒井忠篤」は重臣らと協議して、苦渋の降伏を決断しました。
これには伏線があります。倒壊寸前の幕府から、会津藩が京都守護職を命じられたように
庄内藩にも、「江戸市中警備」の命が下ります。その時に血気にはやり過ぎた藩士たちが
薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしていました。
酒井忠篤からすれば、その時の遺恨を持った「薩摩藩」の軍勢が中心の官軍に降伏すると
いうことは、自身の身は良くて切腹、獄門貼り付けまで覚悟し、主だった家来衆にも重い
罰が与えられるであろう事は必定と覚悟の上で降伏したのでした。 (続く)
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