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2021年03月14日

「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,81


「痴人の愛」本文 角川文庫刊vol,81



と言いつつ、私の背中に腕を回してワン・ステップの歩み方を教えた時、私はどんなにこの真っ黒な私の顔が彼女の肌に触れない様に、遠慮した事でしょう。



その滑らかな清楚な皮膚は、私にとってはただ遠くから眺めるだけで十分でした。

握手してさえ済まないように思われたのに、その滑らかな羅衣(うすもの)を隔てて彼女の胸に抱きかかえられてしまっては、私は全くしてはならないことをしたようで、自分の息が臭くは無かろうか、このにちゃにちゃした脂ッ手が不快を与えはしなかろうかと、そんなことばかり気にかかって、たまたま彼女の髪の毛一と筋が落ちて来ても、ヒヤリとしないではいられませんでした。



それのみならず夫人の体には一種の甘い匂いがありました。

「あの女ァひでえ腋臭(わきが)だ、とてもくせえや」



と、例のマンドリン倶楽部の学生たちがそんな悪口を言っているのを、私は後で聞いたことがありますし、西洋人には腋臭が多いそうですから、夫人も多分そうだったに違い無く、それを消すために始終注意して香水をつけていたのでしょうが、しかし私にはその香水と腋臭との交じった、甘酸っぱいようなほのかな匂いが、決して厭でなかったばかりか、常に言いしれぬ蠱惑(こわく)でした。



それは私に、まだ見たことも無い海の彼方の国々や、世にも妙なる異国の花園を思い出させました。

「ああ、これが夫人の白い体から放たれる香気か」

と、私は恍惚となりながら、いつもその匂いを貪(むさぼ)るように嗅いだものです。





引用書籍

谷崎潤一郎「痴人の愛」

角川文庫刊



次回に続く。


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