2018年08月24日
8月24日は何に陽(ひ)が当たったか?
西暦79年8月24日は、イタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火をおこした日です。この噴火による火砕流で、ナポリ近郊のポンペイ市が埋没しました。
イタリア南部、ナポリ東方に位置するナポリ湾岸にて、79年8月24日、ここにある標高1,281mの活火山ヴェスヴィオ(ヴェスヴィオス。ウェスウィウス)が大噴火をおこしました。同山が噴き出す大量の火山礫や火山灰が降り注ぎ、火砕流・溶岩流が途切れることなく流れ出て、周辺の都市に襲いかかりました。なかでも最も大きな被害を受けたのは同山の麓にあった、ポンペイと呼ばれる町でした。
ポンペイ市は、紀元前89年にローマに征服され、植民市となりましたが、葡萄の産地であったポンペイはその後葡萄酒産業としてローマの重要商業地域となって繁栄し、一時人口は2万人を超え、市内では平和な日々が続きました。観光旅行地としても繁栄し、多くのローマ人が訪れました。またポンペイの守護神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、他のどの都市よりも男女間の恋愛、美貌を最重視する町であったといわれています。
こうした平和で豊かな都市が、火山の噴火によって一瞬に潰されてしまいました。セメントのように重い火山灰が、豪雨のごとく降り積もって都市を覆い尽くし、翌日には完全に地中に埋没してしまったのです。時のローマ皇帝ティトゥス帝(位79.6.24-81.9.13)はポンペイに使者を派遣しましたが、すでに壊滅状態であり、手立ての施しようがありませんでした。
このとき、ローマ海軍を指揮していた博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス。22/23/24?-79。名著『博物誌(77年。全37巻)』)は艦隊を出動させ、被災者の救出と火山調査に向かいましたが、彼も有毒ガスによる窒息で犠牲となりました。
のちに大プリニウスの甥にあたるガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス。61?-112/114?。元老院議員。博物学者)は、友人である歴史学者タキトゥス(55?-120?。名著『ゲルマニア』『年代記』)宛てに書簡を送りました。その書簡によれば、雲化した噴煙が焼けた岩石や高温ガス、火山灰がヴェスヴィオ山の斜面を雪崩のように急速に下っていったと記されています(その被災エリアがこちら。wikipediaより)。それは現代で言う火砕流のことをあらわしています。小プリニウスが著したこの書簡を含む『書簡集』は、当時の噴火のすさまじさを知る貴重な資料となっています。
この79年の大噴火でポンペイ市民の多くは市外に避難しましたが、それでも約2000人が逃げ遅れて火砕流・降灰の犠牲となりました。火山灰はその後硬化し、その後は何もなかったかのように硬くなった地上を人が歩きました。壊滅したポンペイの跡地では、復興作業が行われることもなく、しばらく新たな都市が形成されることもありませんでした。イタリア・ルネサンス期、建築家ドメニコ・フォンタナ(1543-1607)が1599年にポンペイの都市遺跡を見つけたことがありましたが、大きな展開は見られることがなく、年月が経過していきました。しかしポンペイの中では、被災直後の火山灰をかぶったまま、時間は止まっていました。
被災して1700年もの歳月が経った1748年、ポンペイの発掘調査が遂に始まりました(本格的な調査はイタリア統一後の1860年代以後)。火山灰の真下は79年当時の状況のままでありました。逃げ遅れて被災し死んでいった人たちの遺骸が硬化した灰の中で腐敗して消滅し、空洞と化していました。この状態を残すために当時の考古学者は、この空洞に石膏を流し込んでその部分を固め、火山灰を取り除いていきました。こうして、被災した直後から時が止まっていたポンペイが、そのままの形で再現され、息をのむほどのすさまじさをあらためて痛感させられることになったのです。
子どもを守ろうとしてうずくまりながら死んでいった母親、鎖につながれたままもだえ死んだ飼い犬、卓上に置かれた食べ物などが当時のまま再現されました。また浴場施設、神殿、広場、酒屋なども再現され、壁に描かれた男女絵や、床に描かれた犬のモザイク画なども発見されました(この状況の1つがこちら。wikipediaより)。その後、発掘は現在も進行中ですが、観光地として多くの旅行客が訪れ、再び注目が集められていきました。こうして、79年に止められたポンペイの時間は、再び動き始めたのです。
引用文献・・・『世界史の目 第143話 時間を止められた街』より
イタリア南部、ナポリ東方に位置するナポリ湾岸にて、79年8月24日、ここにある標高1,281mの活火山ヴェスヴィオ(ヴェスヴィオス。ウェスウィウス)が大噴火をおこしました。同山が噴き出す大量の火山礫や火山灰が降り注ぎ、火砕流・溶岩流が途切れることなく流れ出て、周辺の都市に襲いかかりました。なかでも最も大きな被害を受けたのは同山の麓にあった、ポンペイと呼ばれる町でした。
ポンペイ市は、紀元前89年にローマに征服され、植民市となりましたが、葡萄の産地であったポンペイはその後葡萄酒産業としてローマの重要商業地域となって繁栄し、一時人口は2万人を超え、市内では平和な日々が続きました。観光旅行地としても繁栄し、多くのローマ人が訪れました。またポンペイの守護神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、他のどの都市よりも男女間の恋愛、美貌を最重視する町であったといわれています。
こうした平和で豊かな都市が、火山の噴火によって一瞬に潰されてしまいました。セメントのように重い火山灰が、豪雨のごとく降り積もって都市を覆い尽くし、翌日には完全に地中に埋没してしまったのです。時のローマ皇帝ティトゥス帝(位79.6.24-81.9.13)はポンペイに使者を派遣しましたが、すでに壊滅状態であり、手立ての施しようがありませんでした。
このとき、ローマ海軍を指揮していた博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス。22/23/24?-79。名著『博物誌(77年。全37巻)』)は艦隊を出動させ、被災者の救出と火山調査に向かいましたが、彼も有毒ガスによる窒息で犠牲となりました。
のちに大プリニウスの甥にあたるガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス。61?-112/114?。元老院議員。博物学者)は、友人である歴史学者タキトゥス(55?-120?。名著『ゲルマニア』『年代記』)宛てに書簡を送りました。その書簡によれば、雲化した噴煙が焼けた岩石や高温ガス、火山灰がヴェスヴィオ山の斜面を雪崩のように急速に下っていったと記されています(その被災エリアがこちら。wikipediaより)。それは現代で言う火砕流のことをあらわしています。小プリニウスが著したこの書簡を含む『書簡集』は、当時の噴火のすさまじさを知る貴重な資料となっています。
この79年の大噴火でポンペイ市民の多くは市外に避難しましたが、それでも約2000人が逃げ遅れて火砕流・降灰の犠牲となりました。火山灰はその後硬化し、その後は何もなかったかのように硬くなった地上を人が歩きました。壊滅したポンペイの跡地では、復興作業が行われることもなく、しばらく新たな都市が形成されることもありませんでした。イタリア・ルネサンス期、建築家ドメニコ・フォンタナ(1543-1607)が1599年にポンペイの都市遺跡を見つけたことがありましたが、大きな展開は見られることがなく、年月が経過していきました。しかしポンペイの中では、被災直後の火山灰をかぶったまま、時間は止まっていました。
被災して1700年もの歳月が経った1748年、ポンペイの発掘調査が遂に始まりました(本格的な調査はイタリア統一後の1860年代以後)。火山灰の真下は79年当時の状況のままでありました。逃げ遅れて被災し死んでいった人たちの遺骸が硬化した灰の中で腐敗して消滅し、空洞と化していました。この状態を残すために当時の考古学者は、この空洞に石膏を流し込んでその部分を固め、火山灰を取り除いていきました。こうして、被災した直後から時が止まっていたポンペイが、そのままの形で再現され、息をのむほどのすさまじさをあらためて痛感させられることになったのです。
子どもを守ろうとしてうずくまりながら死んでいった母親、鎖につながれたままもだえ死んだ飼い犬、卓上に置かれた食べ物などが当時のまま再現されました。また浴場施設、神殿、広場、酒屋なども再現され、壁に描かれた男女絵や、床に描かれた犬のモザイク画なども発見されました(この状況の1つがこちら。wikipediaより)。その後、発掘は現在も進行中ですが、観光地として多くの旅行客が訪れ、再び注目が集められていきました。こうして、79年に止められたポンペイの時間は、再び動き始めたのです。
引用文献・・・『世界史の目 第143話 時間を止められた街』より
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posted by ottovonmax at 00:00| 歴史