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〈995〉絆の希薄化に関する若干の考察

あなたがシングルファーザー(マザー)だと仮定しよう。実家は遠い。子供はまだ2歳。たとえば、自分自身が高熱を出してしまったり、仕事が忙しくて子供の面倒を見れない時、頼れる人はいるだろうか?

この問いにYESと答えられる人は、おそらく日本に10%に観たないのではないだろうか。とりわけ人口密度が高い大都市ほど、その傾向は顕著といえるのではないだろうか。私たちはこの意見について、なぜか否定できない。それは、自分自身がその一翼を担っているからにほかならない。同じアパート、同じマンション、一軒隣の家、向かいの家、顔を合わせれば挨拶こそすれ、いわゆる家族ぐるみの付き合いや、お酒やお茶を一緒に飲むなどのレベルの関係性を構築できている人は少ない。筆者も直近10年で3つの町に住んだが、いずれのケースでも最初の問いの答えはNOだ。

現代社会における、近隣住民間の交流の減少。より解像度を上げるならば、世代によって減少幅に違いがある。高齢者はそれほど経年で変化はないが、20~40代は、2000年以前のそれと比較して近所付き合いは薄くなっている。実はこの原因の一端は携帯電話の普及にある。今の20〜40代の大半は社会に羽ばたく前に携帯電話を手にした世代だ。携帯電話を手にする以前、人と人のコミュニケーションの手段は限られていた。学校や部活動に来ないと会えない友達。手紙や電話はあったが、頻繁に使うツールにはなり得なかった。誰かと繋がるための物理的な制約がそこには存在していた。その垣根が携帯電話の登場によって取っ払われた。ベッドに寝ながら電話で相手の声を聞くことができ、メールで時間を問わず連絡することができた。電話帳には友達が並び、誰とでもいつでも繋がれる、そんな時代がきた。むしろ、「誰と繋がらないか」を選択する立場に逆転したのだ。時間は今も昔も有限だ。電話をすればあっというまに30分、1時間が経ってしまう。その時間を誰に費やすか?多くは選べない。さらには、いつでも繋がれる状態が生まれたことによって、オフラインの場での従来のコミュニケーションは、その必要性が薄れてしまった。実空間上では、繋がりたい相手とそれ以外の人間がいる。だからこそ、偶発的なコミュニケーションが生まれ、結果として多くの人と交流できる。その場が自然と軽視されてしまい、交流の範囲を自身で狭めてしまった。無論、これは一般論で性格によってボラティリティはあるが、おしなべて携帯電話の普及前後で人は暗愚な性格となり、クローズドなコミュニケーションを好み、深い付き合いをする友人は片手に収まってしまった。そうしてコミュニケーションのスタイルを確立した世代は、社会に出ても上司や職場の同僚との付き合いはあくまで仕事上と割り切っていて、プライベートでの親友に昇華できる存在だと認識するのが難しくなってしまった。多くの社会人にとって「親友は学生時代の同級生」なのだ。
交流範囲を狭めれば、そうした人が近隣に住む確率は時間が経てば経つほど低くなり、気がつけば同居家族以外に頼れる人がいない状態が生まれている。友達を作らないという選択をしていた私たちは、いつのまにか友達を作るのが苦手になっていて、どの町に住もうがなかなか心を開いて話せる相手を作ることができない。何年も住んでるのに、一方的に知っているという関係性しかなく、引っ越すときに送別会をしてくれる人はいない。勝手な郷愁を抱いて、それで自分を慰めている。それは単にその場所を住所にしていただけで、真の意味でその町で生活していたと言えないと私は思う。その町に根付く、生活するとは、単に住民票を移して住む家を見つけ、衣食住するだけでなく、その場所に住む他の生命と交流して、共同体の一部となることだ。自分の記憶の中だけでなく、相手の記憶にしっかり刻まれないと客観的な事実にならないのだ。
行きつけの店を見つけよう、相手に自分の名前と顔を覚えてもらおう、そこから友人の輪を広げよう。世界は思ってるよりも温かい、彼も彼女もきっと孤独なのだ。だから勇気を、いや勇気なんて単語をわざわざ使うまでもない。気軽に声をかけてみよう。雑談をしてみよう。今日がこの町で最初の一日になる。

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