新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
2015年05月27日
宇多丸、実写版『進撃の巨人』を批判(ネタバレあり)!
はい。
これが、タイトルほいほい、ってヤツですね。
実際は、宇多丸氏は関係ないし、まったく映画を批判するつもりはありません。
別に『進撃の巨人』も嫌いじゃないし、実写化もいいと思うし、SEKAI NO OWARIも別に嫌いじゃないです(というか、よく知らないです)。
というわけで、本日も皆さんのご機嫌を伺いに馳せ参じました。
小説家のともなりたかひろと申します。
以下、真面目に『進撃の巨人』を論じますので、最後までお読み下さい。
まず、原作(漫画)の話からしますと、僕は1巻しか持っていません。
理由は、どこの本屋(というか海老名市に本屋は2件しかない)にも売ってないんですよね! それに、最後の砦のブックオフにも置いてない始末。
じゃあ、Amazonで買えばいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、・・・うーん、そこまでして読みたい漫画でもないかな、と思ってしまって、すいません、結局、1巻以降は買わずじまいの僕なのでした。
でも、1巻を読んで、なるほど、と思う点が多々ありました。
つまりこれは、3.11に代表されるような「世界の不条理」をテーマにした「文学的な漫画」なんだな、ということです。
ようは「巨人」という存在は、「地震」だったり、「津波」だったり、人類がどうしようもできない「世界の不条理さ」の象徴なわけですよね?
この点から、『進撃の巨人』はある種の「寓話」だ、と言えるわけです。
だから、「巨人」という存在を、前述の通り、「地震」だったり、「津波」だったりと、色んなものに置き換えて考えてみるとより面白い、ということなのではないでしょうか。
僕がこの漫画を読んだのは去年ですから、読んですぐに「ああ、この漫画は3.11のことを描いているんだな」と思いました。
でも、連載開始は、2009年ですよね。
だから、作者の諌山創さんは、すごく先見の明があるな、と素直に感心しました。
まぁ、もちろん、諌山さん自身はそんなことは意識してなかったでしょうけど。
ゲームでいえば、『FF10』の「シン」、文学でいえば、うん、やっぱりカフカの『審判』や『城』でしょうね。
まぁ、安部公房も入れてもいいんですが、彼の著作の大半はカフカのパクリですから度外視してもいいかな、とも思います。
それでまぁ、今後の展開についてですが、――勿論、1巻しか読んでいない僕に展開予想もクソもないわけですが、今後、こうしていったらいいんじゃないかな、という勝手な提案を一つさせて頂きたいなと思います。
僕はですね、「巨人」を倒す、とか、「巨人」の正体を明かす、とか、あるいは、「巨人」が実はある登場人物と関連があった、みたいな展開にはしてほしくないなぁ、と思うんです(もう既にそういう展開になっているかもしれませんが)。
「巨人」=「地震」=「津波」は、あくまで「世界の不条理」のまま、「謎」のまま、絶対に崩せない「壁」のまま、屹立していてほしいんです。
なぜなら、この漫画の「力点」は、おそらくですけど、「巨人」=「地震」=「津波」(世界の不条理)を前にしたら人類はどういう振る舞いをするのか、にあるからだと思うからです。
一応、1巻から推察するに、人類は「巨人」を倒そうと立ち上がる選択をしているみたいですけど、人類が他の振る舞いをする可能性もあると思うんです。
だって、考えてみてください。
あの3.11が起こって、当初、僕たちは自然(巨人)の猛威に対して、唖然としましたよね。
そして、一方では原発問題や東電批判があり、また、一方ではボランティア活動が盛んに行われました。
勿論、東京も危ないから関西に引っ越そう的な卑怯な振る舞いをした人もいましたが、日本人の大半が「これからはちゃんと人類の未来について真剣に考えよう」と真剣に考えていたはずです。
しかし、現在はどうでしょうか。
すっかり震災のことなど忘れ、「いつも通りの一週間」が戻ってきて、芸能ニュースに一喜一憂したり、スポーツ選手の大躍進に湧いたり、かの宇多丸氏が言うところの「ものの見事に過去から学ばねぇ」平和ボケ的な振る舞いが復活してきました。
『進撃の巨人』も、こういった「風化してしまった」時期の人類の振る舞いを描けば、より「深みのある漫画」になるのではないでしょうか。
つまり、「巨人」が去ってしまった「平和な時期」をあえて描くのです。
そうしたら、人類はどういう振る舞いをするでしょうか?
もしかしたら、より高い壁を作り、「よし、これで未来永劫安全」と思い込むんじゃないでしょうか。
でも、その中でも疑問を持つ人は出てくるでしょう。
「100年 壁が壊されなかったからといって 今日壊されない保障なんか どこにもないのに・・・」(1巻のアルミンなる人物の台詞より引用)。
――なんてね。
繰り返すようですが、勿論、こんな展開になるわけがないし、根本のテーマ自体も少し捻じ曲げてしまっているし(元々のテーマは抑圧にあえて挑み、自由=外の世界を見たいということでしょうし)、それにもし、こんな展開になったら、まず「少年漫画」として失格でしょう。
だがしかし、この漫画の「力点」は、「巨人」を倒す云々よりも、「巨人」(不条理)を前にしたときの人類の振る舞いにこそある、ということは確実ラインだとは思うんです。
などと、長々と話してきました。
最後に、関係ないですが、SEKAI NO OWARIというバンドの勢いは、凄いですね。
僕はボーカルのFukaseくんとは同年代なのですが、なんだか、別世界の人みたいに思えます。
それに比べて、――ね、神聖かまってちゃん。
『進撃の巨人』の作者諌山さんも、神聖かまってちゃんのファンだそうで、たびたびブログで取り上げているようですが、SEKAI NO OWARIと同世代なのに、なんだか、いまいち伸びきらないですね。
そんな彼らをフックアップするために、『小説・神聖かまってちゃん』を紹介して、この記事を終りたいと思います。
この小説を読めば、神聖かまってちゃんのイメージが随分変わると思います。
小説・神聖かまってちゃん
というわけで、完全に無関係の宣伝になりましたが、その理由は、・・・・・・言わなくてもわかるね?
これが、タイトルほいほい、ってヤツですね。
実際は、宇多丸氏は関係ないし、まったく映画を批判するつもりはありません。
別に『進撃の巨人』も嫌いじゃないし、実写化もいいと思うし、SEKAI NO OWARIも別に嫌いじゃないです(というか、よく知らないです)。
というわけで、本日も皆さんのご機嫌を伺いに馳せ参じました。
小説家のともなりたかひろと申します。
以下、真面目に『進撃の巨人』を論じますので、最後までお読み下さい。
まず、原作(漫画)の話からしますと、僕は1巻しか持っていません。
理由は、どこの本屋(というか海老名市に本屋は2件しかない)にも売ってないんですよね! それに、最後の砦のブックオフにも置いてない始末。
じゃあ、Amazonで買えばいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、・・・うーん、そこまでして読みたい漫画でもないかな、と思ってしまって、すいません、結局、1巻以降は買わずじまいの僕なのでした。
でも、1巻を読んで、なるほど、と思う点が多々ありました。
つまりこれは、3.11に代表されるような「世界の不条理」をテーマにした「文学的な漫画」なんだな、ということです。
ようは「巨人」という存在は、「地震」だったり、「津波」だったり、人類がどうしようもできない「世界の不条理さ」の象徴なわけですよね?
この点から、『進撃の巨人』はある種の「寓話」だ、と言えるわけです。
だから、「巨人」という存在を、前述の通り、「地震」だったり、「津波」だったりと、色んなものに置き換えて考えてみるとより面白い、ということなのではないでしょうか。
僕がこの漫画を読んだのは去年ですから、読んですぐに「ああ、この漫画は3.11のことを描いているんだな」と思いました。
でも、連載開始は、2009年ですよね。
だから、作者の諌山創さんは、すごく先見の明があるな、と素直に感心しました。
まぁ、もちろん、諌山さん自身はそんなことは意識してなかったでしょうけど。
ゲームでいえば、『FF10』の「シン」、文学でいえば、うん、やっぱりカフカの『審判』や『城』でしょうね。
まぁ、安部公房も入れてもいいんですが、彼の著作の大半はカフカのパクリですから度外視してもいいかな、とも思います。
それでまぁ、今後の展開についてですが、――勿論、1巻しか読んでいない僕に展開予想もクソもないわけですが、今後、こうしていったらいいんじゃないかな、という勝手な提案を一つさせて頂きたいなと思います。
僕はですね、「巨人」を倒す、とか、「巨人」の正体を明かす、とか、あるいは、「巨人」が実はある登場人物と関連があった、みたいな展開にはしてほしくないなぁ、と思うんです(もう既にそういう展開になっているかもしれませんが)。
「巨人」=「地震」=「津波」は、あくまで「世界の不条理」のまま、「謎」のまま、絶対に崩せない「壁」のまま、屹立していてほしいんです。
なぜなら、この漫画の「力点」は、おそらくですけど、「巨人」=「地震」=「津波」(世界の不条理)を前にしたら人類はどういう振る舞いをするのか、にあるからだと思うからです。
一応、1巻から推察するに、人類は「巨人」を倒そうと立ち上がる選択をしているみたいですけど、人類が他の振る舞いをする可能性もあると思うんです。
だって、考えてみてください。
あの3.11が起こって、当初、僕たちは自然(巨人)の猛威に対して、唖然としましたよね。
そして、一方では原発問題や東電批判があり、また、一方ではボランティア活動が盛んに行われました。
勿論、東京も危ないから関西に引っ越そう的な卑怯な振る舞いをした人もいましたが、日本人の大半が「これからはちゃんと人類の未来について真剣に考えよう」と真剣に考えていたはずです。
しかし、現在はどうでしょうか。
すっかり震災のことなど忘れ、「いつも通りの一週間」が戻ってきて、芸能ニュースに一喜一憂したり、スポーツ選手の大躍進に湧いたり、かの宇多丸氏が言うところの「ものの見事に過去から学ばねぇ」平和ボケ的な振る舞いが復活してきました。
『進撃の巨人』も、こういった「風化してしまった」時期の人類の振る舞いを描けば、より「深みのある漫画」になるのではないでしょうか。
つまり、「巨人」が去ってしまった「平和な時期」をあえて描くのです。
そうしたら、人類はどういう振る舞いをするでしょうか?
もしかしたら、より高い壁を作り、「よし、これで未来永劫安全」と思い込むんじゃないでしょうか。
でも、その中でも疑問を持つ人は出てくるでしょう。
「100年 壁が壊されなかったからといって 今日壊されない保障なんか どこにもないのに・・・」(1巻のアルミンなる人物の台詞より引用)。
――なんてね。
繰り返すようですが、勿論、こんな展開になるわけがないし、根本のテーマ自体も少し捻じ曲げてしまっているし(元々のテーマは抑圧にあえて挑み、自由=外の世界を見たいということでしょうし)、それにもし、こんな展開になったら、まず「少年漫画」として失格でしょう。
だがしかし、この漫画の「力点」は、「巨人」を倒す云々よりも、「巨人」(不条理)を前にしたときの人類の振る舞いにこそある、ということは確実ラインだとは思うんです。
などと、長々と話してきました。
最後に、関係ないですが、SEKAI NO OWARIというバンドの勢いは、凄いですね。
僕はボーカルのFukaseくんとは同年代なのですが、なんだか、別世界の人みたいに思えます。
それに比べて、――ね、神聖かまってちゃん。
『進撃の巨人』の作者諌山さんも、神聖かまってちゃんのファンだそうで、たびたびブログで取り上げているようですが、SEKAI NO OWARIと同世代なのに、なんだか、いまいち伸びきらないですね。
そんな彼らをフックアップするために、『小説・神聖かまってちゃん』を紹介して、この記事を終りたいと思います。
この小説を読めば、神聖かまってちゃんのイメージが随分変わると思います。
小説・神聖かまってちゃん
というわけで、完全に無関係の宣伝になりましたが、その理由は、・・・・・・言わなくてもわかるね?