2012年06月09日
司馬遼太郎「歳月」と鍋島直正(閑叟)侯その2
江藤新平について昨日の続きを・・・
江藤と最もかかわりの深いと言うか影響を与えた人物として、大久保利通を除けば
私が思うに鍋島直正侯(号は閑叟)があげられるとおもいます
志士活動で薩長に後れを取った佐賀藩を憂えて脱藩した江藤でしたが、そのときの見聞録を見た直正侯がその見識を高く評価し罪をを許したのでした(普通は死罪となる所を永蟄居)
そればかりか大政奉還後は即座に謹慎を解き、佐賀藩の代表として中央に派遣するなど、
その功績は大きいと思います
もちろん江藤を中心に見ての話なのでそんなことは無いと言う突っ込みはナシでお願いします
鍋島の殿様直正侯と言えば、いわゆる幕末四賢侯と言われる所には名前を連ねないのですが、その藩内を統御する能力においては四賢候をも凌ぐのではと勝手に思っています
島津斉彬、山内容堂、伊達宗城、松平慶永と数えれていますが特に佐賀がぬきんでていたのは
藩校による教育の徹底に有ったんじゃないかと思っています
なんといっても下級藩士で食費も払えないほど貧乏だった江藤ですら勉強出来たというのはさすがと言わざるをえないと思います
だんだん郷土自慢風になってきましたが、もう少し続けます
全国で先駆けたものとして、蒸気機関の開発、大砲製作のための反射炉の建設(これらの技術は島津斉彬の薩摩藩へも伝授されているそうです)
この反射炉の高温に耐えうるレンガの製作に、有田焼の技術が使われているとの事
これだけの実績を残しながらも自らは質素・倹約を守り「一汁一菜」の食事で、衣服は普段は木綿とし、絹のものは着なかったと言われています
住まいも、装飾のほとんど無い質素なものだったようです
この殿様の普段の居室が現在もそのまま残っており
「佐賀城歴史記念館」に入場無料でいつでも見学することが出来ます
昨日の記事にも書いたかもしれませんが、この記念館は新しく復元した建物で、その当時の図面と記録写真等を元に、実際の礎石の上にそのまま立てられており、場所と大きさは当時のままに再現されています
四間続きの大広間と大廊下はさすがに35万石の大藩の屋敷を思わせ、実際に殿様の位置から末席が遠くて誰か分からないと言うほどの広さですが(実際廊下の長さは江戸城の松の廊下より広いらしい)
そして一番奥にある、殿様の居室に入ると、それまでの雰囲気とは一変し、全く飾り気の無い部屋にも関わらず、荘厳で妙に落ち着いた雰囲気を醸し出しているのでした
聞いた話では、以前は別の場所に移されて公民館として使われていたそうです
もったいない話ですが、柱には釘や画鋲でポスターなんかを貼っていたんでしょうか穴がイッパイ開いていました、ただ常に使われていたのが逆に状態よく保てた理由でもあるとある方がおっしゃっていました
しかし、材木は今では手に入らないようないい材料が使われているとの事です
木目の詰まった正目で、写真ではよく分からないかもしれませんが、左側の新しい木目と右側の木目の違いを見てください、違いが分かると思います、とある方がおっしゃっていました
現在は元の場所に戻され展示されていますが、一度足を運んでみることをおススメします
すこし江藤新平の話からは外れてしまいました
本当はゆかりの地とかをめぐってみたい気持ちも有ったのですが、私が知らないのと行動力の無さで行けてないのでごめんなさい、縁があったらまた書いて見ます
歳月 上 講談社文庫 新装版 / 司馬遼太郎 シバリョウタロウ 【文庫】 |
江藤と最もかかわりの深いと言うか影響を与えた人物として、大久保利通を除けば
私が思うに鍋島直正侯(号は閑叟)があげられるとおもいます
志士活動で薩長に後れを取った佐賀藩を憂えて脱藩した江藤でしたが、そのときの見聞録を見た直正侯がその見識を高く評価し罪をを許したのでした(普通は死罪となる所を永蟄居)
そればかりか大政奉還後は即座に謹慎を解き、佐賀藩の代表として中央に派遣するなど、
その功績は大きいと思います
もちろん江藤を中心に見ての話なのでそんなことは無いと言う突っ込みはナシでお願いします
鍋島の殿様直正侯と言えば、いわゆる幕末四賢侯と言われる所には名前を連ねないのですが、その藩内を統御する能力においては四賢候をも凌ぐのではと勝手に思っています
島津斉彬、山内容堂、伊達宗城、松平慶永と数えれていますが特に佐賀がぬきんでていたのは
藩校による教育の徹底に有ったんじゃないかと思っています
なんといっても下級藩士で食費も払えないほど貧乏だった江藤ですら勉強出来たというのはさすがと言わざるをえないと思います
だんだん郷土自慢風になってきましたが、もう少し続けます
全国で先駆けたものとして、蒸気機関の開発、大砲製作のための反射炉の建設(これらの技術は島津斉彬の薩摩藩へも伝授されているそうです)
この反射炉の高温に耐えうるレンガの製作に、有田焼の技術が使われているとの事
これだけの実績を残しながらも自らは質素・倹約を守り「一汁一菜」の食事で、衣服は普段は木綿とし、絹のものは着なかったと言われています
住まいも、装飾のほとんど無い質素なものだったようです
この殿様の普段の居室が現在もそのまま残っており
「佐賀城歴史記念館」に入場無料でいつでも見学することが出来ます
昨日の記事にも書いたかもしれませんが、この記念館は新しく復元した建物で、その当時の図面と記録写真等を元に、実際の礎石の上にそのまま立てられており、場所と大きさは当時のままに再現されています
四間続きの大広間と大廊下はさすがに35万石の大藩の屋敷を思わせ、実際に殿様の位置から末席が遠くて誰か分からないと言うほどの広さですが(実際廊下の長さは江戸城の松の廊下より広いらしい)
そして一番奥にある、殿様の居室に入ると、それまでの雰囲気とは一変し、全く飾り気の無い部屋にも関わらず、荘厳で妙に落ち着いた雰囲気を醸し出しているのでした
聞いた話では、以前は別の場所に移されて公民館として使われていたそうです
もったいない話ですが、柱には釘や画鋲でポスターなんかを貼っていたんでしょうか穴がイッパイ開いていました、ただ常に使われていたのが逆に状態よく保てた理由でもあるとある方がおっしゃっていました
しかし、材木は今では手に入らないようないい材料が使われているとの事です
木目の詰まった正目で、写真ではよく分からないかもしれませんが、左側の新しい木目と右側の木目の違いを見てください、違いが分かると思います、とある方がおっしゃっていました
現在は元の場所に戻され展示されていますが、一度足を運んでみることをおススメします
すこし江藤新平の話からは外れてしまいました
本当はゆかりの地とかをめぐってみたい気持ちも有ったのですが、私が知らないのと行動力の無さで行けてないのでごめんなさい、縁があったらまた書いて見ます
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