アフィリエイト広告を利用しています

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

伊奈屋敷跡 訪問記 後編

昨日の続きです。
昨日は物見櫓まで書きましたね。
物見櫓の確認が終わりまして、屋敷跡の内部方面に入ります。
当時の名残としまして、道路が屈曲していました。
現代社会では事故のもととなりそうですが、当時は敵に潜入されても、屋敷内の地理がどのようになっているか分かりづらくするためと思われます。
そのあとに、頭殿社(神社)のほうへ行ってきました。ちょっとした神社となっています。
地図上では、「陣屋」の右上あたりに位置します。
この頭殿社には現状でもかなりの遺構が確認できます。
堀で囲まれておりますので、曲輪となっていたことが確認できます。
訪問した日はめちゃくちゃ寒く、しかも曇りで暗かったのでなんだか頭殿社の近辺はちょっと怖い感じでしたね。。。あ!史跡を肝試しスポットにはしないように!(笑)
次に、二の丸のほうを見学しました。
二の丸はきちんと整備されております。
土塁と堀を確認することができました。
当時は、どのようになっていたのかはなかなか想像しにくかったのですが、二の丸の端のほうの土塁が高くなっていることが確認できました。
当時はこの土塁の上に塀があった可能性が高そうです。

最後に表門のほうを見学。
上記写真の上部の「裏門」と書かれている場所です(現地案内板の間違い)。
表門付近では土塁と水掘りを確認できました。
水掘りは、伊奈屋敷跡の南から東側にかけてかなり現存しています。
水源は、確かなことは分かりませんが、伊奈屋敷跡の西方(頭殿社方面)にある原市沼、南方(表門方面)にある原市沼川より流れ込んできていると思われます。

以上でひと通り書かせていただきました。
伊奈氏屋敷跡のほとんどが私有地となっていますので、見学する際は注意が必要です。
「告!住民無視の一方的な史跡指定と保存管理計画は一切認めない。」という看板が随所にあります。
マナーを持っての見学をよろしくお願いいたします★


【キャンペーン0912:自動更新】年末年始セール(120x60)

伊奈屋敷跡 訪問記 前篇

写真の選別ができましたので、伊奈氏屋敷跡について書かせていただきますね♪
まずは、所在地ですが、埼玉県伊奈町の小室にあります。
最寄り駅はニューシャトルの丸山駅です。
下車2分ほどです。
詳しい所在地はこちら。

大きな地図で見る
伊奈氏屋敷跡の全体像は以下の画像のような感じとなっています。

ただ、ちょっと現地案内板が間違っていまして、「裏門」が二つ記入されています。
上のほうの裏門は「表門」です。

まずは、下の裏門から訪問してみました。
裏門近辺は、きちんと草が刈り取られており、見学しやすくなっています。
この裏門近辺では、綿密な発掘調査が行われておりまして、堀の存在が確認されています。
しかもその堀は特殊なものとなっていたそうで、「障子堀」というものとなっていたそうです。
中世の関東でよくみられる堀の一つです。たとえば小田原城、静岡の山中城などが障子堀で有名です。
障子堀は、堀の中に障子のような桟が堀の中に作られているんです。なぜそのように作られているかと申しますと、堀の中で動き回ったりされないようにされないように考え出されたものなんだそうですよ。

足利政氏館跡の堀と同じようにこちらの堀も関東ローム層を巧みに利用しています。
関東ローム層の特徴である堅牢性を生かし、水をためて防御を固めていたそうです。

その裏門の先には、物見櫓跡があります。
うっそうとした木の中にあったので、写真はうまくとれなかったのですが、堀と土塁を確認いたしました。
前回行ったときは確認できなかったのですが、物見櫓の土塁は2層になっていまして、堀の底辺より物見櫓の土塁の頂点までは約7〜8メートルほど、という印象を受けました。
現在では堀がかなり埋まってしまっているということが想像できますので、当時は10メートルほどあったかもしれません。
その土塁の上に物見櫓があったと考えられますので、かなり遠くまで見渡せるものとなっていることが想像できます。

ちょっと長くなってしまったので次回に続きます。

伊奈氏屋敷跡へ行ってきました


折角の3連休ということで、埼玉県の伊奈町にある、伊奈氏屋敷跡に行ってきました。
最寄り駅は、ニューシャトルの丸山駅です。
私は、伊奈氏屋敷跡は自転車で行ける範囲のために、自転車で行ってきました。

伊奈氏屋敷跡は、戦国時代後期から江戸時代初期に屋敷があった場所です。
現存している遺構としましては、「堀」「水掘り」「土塁」となっています。
建物等は一切残っていません。
しかし、「堀」「水掘り」「土塁」は非常に良好な状態で残っています。
隠れた歴史スポットといえるでしょう(^^)

まだ写真の選別ができていませんので、選別ができましたら訪問記を書かせていただきたいと思います♪
木の下に遺構が残っています。

セコムが食の安全も守る!

セコムといいますとセキュリティの印象が強い方も多いと思います。
しかし、最近では食品のほうでもセコムが注目を集めていきているんですよ★

セコムの食というのですが、全国各地の美味をお届けするということを行っているんです。
セキュリティをお紺あっている会社ですから、食品の安全もきちんと考えてくれるんですよ♪
さすが食の安全を守るということを言っているだけはありまして、添加物を使用していないものをお届けしてくれる会社となっているんです★

そのセコムの食ですが、私がとっても注目しているギフトがあるんです。
それは、福井県の鯖江市のお取り寄せギフトなのですが、【6つのぷるぷるスイーツ (6つのぷるぷるすいーつ)】という商品です。
種子島特産の安納芋を使ったプリンが入っておりまして、いま女性を中心に大きな話題となっているんですよ。
女性などへの贈り物などにぴったりのものといえるのではないでしょうか★(^^)
きっと喜んでくれると思いますよ♪
私自身は男なのですが、甘党ですので、その【6つのぷるぷるスイーツ (6つのぷるぷるすいーつ)】をいただけたらきっと嬉しいと思います★

他にもセコムの職にはいろいろがギフトがありますよ。
スイーツ以外にも、お肉系・魚介系・ご飯系・麺系などもあるんですよ。
必見のサイトといえるのではないでしょうか。
お歳暮に使うという手も多いにありますよ(^^)

気になった方は下記バナーより是非チェックしてみてくださいね★
セコムの食_400×125
リンクシェア レビュー・アフィリエイト

高島屋でお歳暮とおせちをゲット♪

そろそろ、考えなくてはいけない時期に入ってきましたよね。
それは、「お歳暮」と「おせち」です。
これらは本当に頭を悩ませるものとなっているんですよね〜。
どんなものを送ればいいのか、どんなものを頼めばいいのか。。。

そこでなのですが、あの高島屋さんでとっても素敵な企画が行われているとの情報をキャッチしたんです。
その企画とは、【高島屋のお歳暮2009 47都道府県ご当地ギフト】です。
【高島屋のお歳暮2009 47都道府県ご当地ギフト】のサイトでは、全国各地の名産品をお歳暮のギフトとして贈ることが可能となっているんです。
私が注目しましたのは、[サバエ・シティーホテル]トマトプリン5個セットです。
スイーツ系ブログをしている私としましては見逃せない商品なんですよ♪
舌の上でとろけるなめらかな食感と優しい甘み、後口に広がる上質なトマトジュースのようなさわやかさが特徴となっているんだそうです。
とっても美味しそうですよね♪
気になる価格は、3,150円です。
しかも、お歳暮ご当地ギフト(送料無料)となっていますので、送料はかかりません♪
とってもお得です☆^^
是非お歳暮は高島屋さんにお願いしたいですね☆

また、注目しなくてはいけないのが、【2010年 高島屋 おせち料理】です。
そちらのサイトではバラエティ豊かなおせちを取り扱ったサイトとなっているんですよ♪
洋風おせちなどもあったりするんです。
早速チェックしてみたのですが、私は中華おせちというものに興味を持ちました。
商品名ですが、中華おせち 一段重 約2〜3人前といいます。
くるみの飴炊き・中華くらげ・椎茸煮・中華風きゅうりの甘酢漬け・ミニももまんじゅう・ホタテ貝柱のあっさり風味・フカヒレとカニのゼリー寄せ・鶏のピリ辛炒め・白菜の甘酢漬け・栗の甘露煮・松笠いか柚子の香り・大海老のチリソースの全12種類が入っておりまして、価格は9,975円となっております☆
こちらは送料が500円かかりますが、豪華なおせち料理が1万円ちょっとで手に入るチャンスです♪

おせち料理は高島屋さんにお願いするのがお勧めです☆(^^)

しかも、現在ならキャンペーン中です。
期間中に「高島屋のお歳暮 2009」サイトの掲載商品を、1回のお買上げにつき税込10,000円以上お買上げのお客様から抽選で20名様に全国百貨店共通商品券 2万円分プレゼントというキャンペーンを行っているんです。
今がチャンスです☆^^

気になった方は下記バナーより是非チェックしてみてくださいね♪
高島屋
高島屋
リンクシェア レビュー・アフィリエイト

足利政氏館についてと私的感想

足利政氏館跡について最後に、足利政氏館(甘棠院)についての概要を記しておきたいと思います。

まず足利政氏の館の成立は、嫡子・高基との勢力争いに敗れ1516年の岩付(現・岩槻)へ逃れてきたのちのことだと考えられます。
1518年に久喜へ隠居しますから、その前には館が成立していたと考えられます。16〜18年の間に作られ成立したものだと考えられます。

足利政氏は勢力争いに敗れたのちに出家をしています。
その久喜の館(足利政氏館)に永安山甘棠院を開山しました。
開山には、政氏の弟とも、三男ともいわれる貞巌和尚がかかわりました。

政氏が亡くなったのちに、1548年に火災が起きますが、翌年にはすぐに再建。
このあたりはさすが関東の名門・足利氏の寺というところですね。

そののち、戦国末期に入りますと、関東には徳川氏が入ってきます。
1591年に、徳川家康より寺領100石の朱印地を賜ったそうです
足利氏と徳川氏は同じく【源氏】(一説には徳川氏の家系が源氏というのは怪しいという話があります。家の格を得るために嘘をついていた可能性もあるんだとか。)ということですので、大事にされたのかもしれません★


足利政氏館跡には、寺でありながら堀と土塁がめぐらされています。
当時は寺も防御施設の一つと見なされることがありましたので、堀や土塁が築かれるのはメジャーなことなんです。
たとえば、有名な大阪の石山本願寺は、あの織田信長をさんざん苦しめたほどです。
また、最近になって織田信長が討たれた本能寺も堀で囲まれた一種の砦となっていたことが発掘調査により分かってきました。

ただ、隠居の地でありながらこの久喜の足利政氏館の堀は最大の部分で幅10メートル深さ5メートルというかなりの大きさのものです。
私はここに一つの仮説として、足利政氏は出家をして隠居をする段階ではまだ野望を持っていたのではないか、と思うわけです。
この久喜の地は、彼の有力な支持者であった下野の小山氏(現・栃木県小山市付近)の「小山」、彼が古河公方として本拠にしていた「古河」、そして彼が出家した太田氏の「岩付」(岩槻)から比較的近い立地ですから、何かあれば、また表舞台に立とうと考えていたのではないでしょうか。
また隠居してから、亡くなるまでに10年以上ありましたから、隠居した当初はまだまだ健康で自分の力を示したい、という欲望もあったでしょう。
ただ、嫡子・高基と最終的に和解するに及んで、その野望もしぼんでいったものだと思われます。


古河公方家としての足利氏のその後ですが、戦国時代後期に北条氏の関東支配が確立すると男子が生まれなかったこともあり、自然消滅します。
上の写真は館付近の道路。右側が足利政氏館跡です。
この道路は、当時は堀だったと思われます。
史跡の付近には、このように堀を利用した道路がよく見られます。
金沢の金沢城と兼六園の間の道路はまさに堀を利用した道路として有名ですね★

足利政氏について

今回、足利政氏の館跡に行ったわけですが、折角ですので「足利政氏」のついてちょこっと調べてみました。

【足利政氏】
足利政氏についてですが、まずは彼の祖父からたどってみましょう。
彼の祖父は、第4代鎌倉公方足利持氏です。
足利持氏は、幕府に対し永享の乱(1438年)に起こした人物です。しかし、敗れ結果的に自害しています。
その子が成氏(しげうじ)であり、足利政氏の父です。成氏は、父が処分され兄弟たちも処分される中、生き抜きます。
そして、1447年に鎌倉公方を引き継ぎます。
しかし、父(持氏)と同じように幕府との関係が悪化。享徳の乱がおこります。30年にも及ぶ長きにわたる乱です。
幕府側が鎌倉を制圧。成氏は下総の古河へのがれます。
これ以後、彼は古河公方と呼ばれます。
幕府は対立する成氏に対抗するために、新たな公方(堀越公方)を送り込みますが、こちらも混乱の中、鎌倉にさえ入れない始末。
結果的には、1483年に古河公方と幕府の間で和議が成立。鎌倉に戻ることはありませんでしたが、一定的な安定を得たようです(古河公方がほぼ鎌倉公方と同等の位置づけに。堀越公方の力は限定的。のちに北条早雲に滅ぼされます。)

そして、その成氏の後を継いだのが、2代目古河公方の足利政氏です。
彼が跡目を継いですぐに長享の乱がおこります。
長享の乱は、関東管領上杉家の山内上杉と扇谷上杉家の同族内での争いです。この争いに、政氏は積極的に関わります。古河公方としての職務を全うしようとしたのでしょう。
ただ、当初は扇谷上杉家を支持するものの、のちに山内上杉家支持への転換。ブレを見せます。
この上杉家の争いに首を突っ込んだのが、彼の命取りとなります。
両上杉氏和解後は弟の顕実を上杉顕定(山内上杉家)の養子に入れたのですが、これをきっかけに嫡子・高基と対立します。一時は和解しますが、再び対立。それどころか、次男・義明とも対立します。またまたそれどころか、義明には小弓公方として独立されてしまう結果に。。。

嫡子・高基との争いに敗れた政氏は、当時居を構えていた下野(栃木)小山の祇園城から落ちのびます。この結果、古河公方は嫡子・高基に強奪される形に(3代目古河公方の誕生)。
政氏は、太田氏の武蔵(埼玉)岩付城(現・さいたま市岩槻区)へ入ることとなりました。

そして岩付にて出家をし、1518年に久喜の館に隠居します。

その2年後の、1520年に古河城に嫡子・高基をたずね、両者は和解。このときの高基は、非常に礼儀正しく父を迎えたそうです。

久喜の地に隠居してから10年以上たってのち、享禄四(1531)年七月十八日に足利政氏はなくなりました。

以上、簡単に書かせていただきましたが、とにかく波乱万丈な方だったようですね。
他家の争いに積極的に参加するし、その報いを受ける形となったといっていいのかは分かりませんが、見事なまでの自家のお家騒動です。
悲しみの中で、久喜へ隠居したわけですが、すぐに高基と和解できたのは彼にとっての救いといえるかもしれません。
しかし、小弓公方の義明とは和解することがありませんでした。出家した彼にとってはそのことは心に残っていたのかもしれませんね。

*1538年に小弓公方の義明は、北条氏により敗死して滅亡しています。
画像は足利政氏の墓がある甘棠院の本堂方面を写した写真です。
門の扉には足利家の「二つ引両」の家紋があります。

足利政氏館跡(甘棠院)訪問記

足利政氏館跡(甘棠院)へ行ってきました。
足利政氏館跡(甘棠院)は埼玉県の久喜市にあります。
詳しい所在地はこちら。

大きな地図で見る
JR久喜駅から約二キロ。
自動車で行く場合は、さいたま栗橋線で久喜駅入口の交差点より久喜駅方面へ。
「しまむら」を目印にして行くと分かりやすいと思います。また、「甘棠院(かんとういん)」といえば近所の方は大体分かると思います。

まずは、門構えですが非常に立派になっていました。
足利家の家紋(二つ引)がどーんと表示されています。
そうそう。足利家のライバルだった新田家の家紋は一つ引なんです。やはり親戚ということで家紋も似ているんでしょうかね〜。

上記の門をくぐりますと、さらにもう一つの門がありました。
古い感じもしますがもちろん足利政氏の当時のものではないでしょう。

上記の門の左右に雄大な堀が現存していました。

この堀ですが、関東ローム層を利用して作られているそうです。
関東ローム層は堅牢性に優れているためによく堀としては利用されています。水がたまりやすい性質のために、雨が降ると水掘りになるんだそうです。
しかも、雨が降って水分を含むとツルツルになって登れなくなるそうです。
防御に非常に役に立つものとなってきます。

詳しい堀の構造ですが、幅は10メートル深さは5メートル、そして水深は2メートルもあったそうです。傾斜は45度。
一応は足利政氏の隠居の館ということになっていますが、館というよりはやはり城や砦といった印象が強いです。

そうそう。お寺の境内には、足利政氏のお墓もあります。
以下の五輪塔です。

私は、お寺の中に入って見ることはしませんでした。上記は外側から写した写真です。
お願いすると見せてもらえるそうなのですが、私が当地を訪問したのが午後4時過ぎということもありまして、今回は遠慮しました。

そうそう。そのお願いする時に、「見せてください」というと住職さんに怒られるそうです。
きちんと「拝観させてください」または「拝ませてください」といえば気持ちよく見せてくれるそうです。
訪問の際は上記の点をお気を付けください(^^)

足利政氏館跡(甘棠院)

本日はお菓子情報ではなくって、ちょっとした訪問記を。
埼玉県の久喜市にある、甘棠院へ行ってきました。

甘棠院とは、お寺なのですがかつて足利政氏の館があったところなんです。
足利政氏は、古河公方として非常に活発な活動を行った人であり、その晩年に久喜に館を構え隠居をしたということです。
戦国時代の館ということで、濠や土塁で囲まれたところとなっていまして、一種の砦や城といった趣のあるところだったそうです。
現状でも、濠や土塁は大きく残っており、歴史ファンには嬉しいところとなっていおるんですよ♪

楽しみながら、見て回ることができました★^^

まだ、写真の選別等はできていないので、いずれまた紹介いたします(^^)




サントリーウイスキー「響12年」にぞっこん♪

いまとっても注目を集めているウイスキーがあるんです。
それは、サントリーウイスキー「響12年」です。

早速、飲んでみたのですがとってもおいしいんですよ。
しかも、お勧めの美味しい飲み方で飲んでみたんです。
それはどういった飲み方かと申しますと、ペリエで割って飲んでみたんです。
ペリエといいましたらさわやかな炭酸が印象ですよね。

では、どのようにしますとさらに「響12年」がおいしくなるかと申しますと、
まずは、多めの氷をグラスに入れます(下記画像参照)

次にウイスキーを注ぎます(20~50ml)
そして、水を足さずに13回転半かき混ぜます
。(下記画像参照)

最後にウイスキーに対して3倍程度のペリエを注ぎます(200ml前後)
注ぎましたら1回転かき混ぜます

この点に注意です!多く混ぜすぎると炭酸ガスが逃げてしまいますので注意です。

下記画像が完成画像です。
いかがでしょう。めちゃくちゃ美味しそうですよね♪(^^)
ペリエを加えたことで、「響12年」自身が持つ本来の甘さをさらに引き立てることに成功しているんです。
とってもおいしくなるんですよ。
炭酸があることにより甘さもさわやかになります。
口当たりも柔らかです。
酸味もあるのですが、甘さとのバランスが絶妙です★
また、香りでも楽しむことができます。まろやかで柔らかな香りとなっています(^^)

とっても高級感のある味わいなので、特別な日にでも飲んでみたらよいのではないでしょうか★
誕生日などへのプレゼントなどにもよさそうです♪

気になった方はぜひ下記バナーよりチェックしてみてくださいね★
<< 前へ     >>次へ
プロフィール

マート
埼玉に生息する31歳の男です。お菓子などについて書いていこうと思います。 お菓子についてですが、主に近所のスーパーなど購入したものです。 紹介する前に少なくても多少は食べてから記事を書いています★
カテゴリアーカイブ
























































































































Q10 フェイスインターネットショップ(faith-go.co.jp)パソコン2% QLOOKアクセス解析
×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。