2010年01月22日
吉見百穴訪問記
ちょっと遅くなりましたが、昨年末に訪れた埼玉県吉見町の吉見百穴の訪問記を。
そうそう。吉見百穴の読み方ですが、どうやら正式名称は「よしみひゃくあな」だそうです。
まぁ、「ひゃっけつ」といっても意味は通じますのでオッケーですかね。
ちなみに最寄りのバス停は、[百穴入口(ひゃくあないりぐち)]です。
初めて訪問した3年ほど前にバスの運転手さんに「[ひゃっけつ入口]にいきますか?」と聞いた私がいます...はずかちい(笑)
吉見百穴の所在地はこちら。
大きな地図で見る 吉見百穴は写真のように岩に穴があけられているようになっています。
初めて百穴と呼ばれたのは、江戸時代のころからだそうです。
明治に入りまして坪井正五郎という博士が大発掘を開始したそうです。
横穴からは、人骨・玉類・金属器・土器などが発掘されたそうですよ。
その坪井正五郎という博士は、土蜘蛛人(コロボックル人)の住居でありのちにその横穴を墓として後世の人が利用した、という説を唱えたそうです。
実際のところは、古墳時代後期の横穴墓群なわけですが、なかなか夢のある説でしたね。
この吉見百穴には実は天然記念物が自生しているんです。
それはヒカリゴケというコケです。
緑色に光っていて幻想的な趣をもっていました。
吉見百穴の豆知識なのですが、横穴は全部で219基が確認されているそうです。
それだけあっても、「百穴」と呼ぶ“奥ゆかしさ”がよいと思うのは私だけでしょうか♪
219基が確認されているわけですが、戦争中に軍需工場が作られるために、数十基が破壊されたそうです。
ですので、現存しているのは百数十基となるでしょう。。。
あ!もう一個、吉見百穴の豆知識を。
戦国時代に、小田原北条氏を攻めるために武田信玄が上野の国(群馬)から武蔵の国(埼玉&東京)へ攻めのぼり、要衝であった吉見町の松山城を攻めるわけですが、その時にこの吉見百穴を見たそうです。
その横穴を見まして、甲斐の国(山梨)より金堀衆を呼びまして、松山城まで地下道を掘って城の水脈を断とう、というアイデアを思いついたそうです。(俗説の可能性が高い)
結果は失敗し。松山城は攻略せずに、さらに小田原へ攻め進んだそうです。
そうそう。吉見百穴の読み方ですが、どうやら正式名称は「よしみひゃくあな」だそうです。
まぁ、「ひゃっけつ」といっても意味は通じますのでオッケーですかね。
ちなみに最寄りのバス停は、[百穴入口(ひゃくあないりぐち)]です。
初めて訪問した3年ほど前にバスの運転手さんに「[ひゃっけつ入口]にいきますか?」と聞いた私がいます...はずかちい(笑)
吉見百穴の所在地はこちら。
大きな地図で見る 吉見百穴は写真のように岩に穴があけられているようになっています。
初めて百穴と呼ばれたのは、江戸時代のころからだそうです。
明治に入りまして坪井正五郎という博士が大発掘を開始したそうです。
横穴からは、人骨・玉類・金属器・土器などが発掘されたそうですよ。
その坪井正五郎という博士は、土蜘蛛人(コロボックル人)の住居でありのちにその横穴を墓として後世の人が利用した、という説を唱えたそうです。
実際のところは、古墳時代後期の横穴墓群なわけですが、なかなか夢のある説でしたね。
この吉見百穴には実は天然記念物が自生しているんです。
それはヒカリゴケというコケです。
緑色に光っていて幻想的な趣をもっていました。
吉見百穴の豆知識なのですが、横穴は全部で219基が確認されているそうです。
それだけあっても、「百穴」と呼ぶ“奥ゆかしさ”がよいと思うのは私だけでしょうか♪
219基が確認されているわけですが、戦争中に軍需工場が作られるために、数十基が破壊されたそうです。
ですので、現存しているのは百数十基となるでしょう。。。
あ!もう一個、吉見百穴の豆知識を。
戦国時代に、小田原北条氏を攻めるために武田信玄が上野の国(群馬)から武蔵の国(埼玉&東京)へ攻めのぼり、要衝であった吉見町の松山城を攻めるわけですが、その時にこの吉見百穴を見たそうです。
その横穴を見まして、甲斐の国(山梨)より金堀衆を呼びまして、松山城まで地下道を掘って城の水脈を断とう、というアイデアを思いついたそうです。(俗説の可能性が高い)
結果は失敗し。松山城は攻略せずに、さらに小田原へ攻め進んだそうです。
[松山城から見た吉見百穴]