2009年11月30日
伊奈氏屋敷の歴史と私的考察
伊奈氏屋敷についてですが、せっかく今回訪問したので、いろいろと調べてみました。
まずは伊奈氏屋敷についてですが、史料によりますと徳川家康の家臣であった伊奈忠次が徳川家より鴻巣小室領1万3千石を賜ってこの地(小室・・・現在でも地名として残っています)に屋敷を構えたとのことです。
徳川氏の関東移封は1590年ですから、そのときに屋敷を構えたと考えられます。
伊奈忠次は、関東各地の検地を実施し、中山道の整備、堤を作るなどこの地の安定に努めたそうです。
2代目は嫡子の忠政。
しかし、34歳の若さで死去。
3代目は、忠政の嫡子である忠治です。
忠治は幼少でありながら、8歳で病死してしまいます。
これにより武蔵小室藩は無嫡廃絶してしまいました。
1619年のことですが、その時に伊奈氏屋敷も廃館したと思われます。
伊奈氏屋敷は1590〜1619年に存続したというのが一般的な解釈です。
そこでなのですが、一般的な解釈だけではつまらないと私は考えます。少しばかり私的考察を。
伊奈氏屋敷は、伊奈氏が入っていくる前にも拠点として確立していたと考えられます。
戦国期の伊奈は岩槻の太田氏(江戸城築城でおなじみの太田道灌の子孫)の管轄地とされていました。
太田氏は、北条氏と対立してさまざまな行動を起こしています。
戦国時代の武蔵の国(埼玉&東京)では、関東管領上杉氏と北条氏が激烈な戦いをしていました。太田氏は上杉氏に組みします。
川越の川越城、そして吉見町の松山城にて多くの戦いが繰り広げられました。
特に松山城は攻防の拠点となりました。
北条氏が松山城に迫ったときに、太田氏は岩槻よりその背後を突く動きをして北条氏を非常に困らせたということが何度かあったそうです。
そのことを考えますと、伊奈の立地の重要性が出てきます。
それぞれの三角が城の位置を指しています。
右から、青:岩付城/紫:伊奈氏屋敷跡/赤:川越城/緑:松山城となっています。
見てもらうとわかるように、伊奈の地が岩槻から川越城や松山城向かう時に拠点たるべき位置だということがわかっていただけると思います。
また、武蔵の国での北条氏の支配が確立したのちも松山城は攻防の拠点となります。
北条氏の新たなる敵としまして、あの上杉謙信や武田信玄が現れます。
両者とも、松山城を攻撃し北条氏の本拠へ乗り込んできたことがありました。
そのことを考えますと、北条氏も伊奈氏館跡を拠点としたことが考えられます(松山城や川越城を支援するという太田氏と同じ利用法が考えられる)。
その、理由の一つに挙げられるのが障子堀です。障子堀は特に北条氏が得意としている堀なんです。
障子堀は西国ではまず見られない堀となっています。
ですので、徳川氏が入ってから障子堀を作成するということはまず考えられません。
以上のことを考えますと、ある程度整備された所に伊奈氏が屋敷を構えたということがいえるのではないでしょうか。
まずは伊奈氏屋敷についてですが、史料によりますと徳川家康の家臣であった伊奈忠次が徳川家より鴻巣小室領1万3千石を賜ってこの地(小室・・・現在でも地名として残っています)に屋敷を構えたとのことです。
徳川氏の関東移封は1590年ですから、そのときに屋敷を構えたと考えられます。
伊奈忠次は、関東各地の検地を実施し、中山道の整備、堤を作るなどこの地の安定に努めたそうです。
2代目は嫡子の忠政。
しかし、34歳の若さで死去。
3代目は、忠政の嫡子である忠治です。
忠治は幼少でありながら、8歳で病死してしまいます。
これにより武蔵小室藩は無嫡廃絶してしまいました。
1619年のことですが、その時に伊奈氏屋敷も廃館したと思われます。
伊奈氏屋敷は1590〜1619年に存続したというのが一般的な解釈です。
そこでなのですが、一般的な解釈だけではつまらないと私は考えます。少しばかり私的考察を。
伊奈氏屋敷は、伊奈氏が入っていくる前にも拠点として確立していたと考えられます。
戦国期の伊奈は岩槻の太田氏(江戸城築城でおなじみの太田道灌の子孫)の管轄地とされていました。
太田氏は、北条氏と対立してさまざまな行動を起こしています。
戦国時代の武蔵の国(埼玉&東京)では、関東管領上杉氏と北条氏が激烈な戦いをしていました。太田氏は上杉氏に組みします。
川越の川越城、そして吉見町の松山城にて多くの戦いが繰り広げられました。
特に松山城は攻防の拠点となりました。
北条氏が松山城に迫ったときに、太田氏は岩槻よりその背後を突く動きをして北条氏を非常に困らせたということが何度かあったそうです。
そのことを考えますと、伊奈の立地の重要性が出てきます。
それぞれの三角が城の位置を指しています。
右から、青:岩付城/紫:伊奈氏屋敷跡/赤:川越城/緑:松山城となっています。
見てもらうとわかるように、伊奈の地が岩槻から川越城や松山城向かう時に拠点たるべき位置だということがわかっていただけると思います。
また、武蔵の国での北条氏の支配が確立したのちも松山城は攻防の拠点となります。
北条氏の新たなる敵としまして、あの上杉謙信や武田信玄が現れます。
両者とも、松山城を攻撃し北条氏の本拠へ乗り込んできたことがありました。
そのことを考えますと、北条氏も伊奈氏館跡を拠点としたことが考えられます(松山城や川越城を支援するという太田氏と同じ利用法が考えられる)。
その、理由の一つに挙げられるのが障子堀です。障子堀は特に北条氏が得意としている堀なんです。
障子堀は西国ではまず見られない堀となっています。
ですので、徳川氏が入ってから障子堀を作成するということはまず考えられません。
写真:伊奈氏屋敷跡より発掘された障子掘
以上のことを考えますと、ある程度整備された所に伊奈氏が屋敷を構えたということがいえるのではないでしょうか。
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