2010年01月04日
松山城訪問記2
前回は2の丸跡についてまで書きましたね。
次に3の丸跡ですが、3の丸は比較的、城の中でも比較的前線に置かれる部分となっています。
松山城の3の丸ですが、前線の平場のいくつかを支援する立地に設置されている感じとなっていました。
松山城には1〜3の丸以外にもいろいろな曲輪や平場が現存しています。
太鼓郭や笹郭、兵糧倉、総郭、春日丸といったものです。
笹郭は笹の形をしていますし、兵糧倉には兵糧がおかれていたのでしょう。
なかなかユニークな名前の付けかたですね。
古城図にも笹郭や太鼓郭といった名前が見受けられますので、当時からそう呼ばれていたと思われます。
以上、簡単に松山城訪問記を書かせていただきましたが、とにかく素晴らしい!
ほぼ当時の姿をそのままの形で残しています。
全体として現状では、堀の深さは3〜5メートルといった感じです。
かなり埋まってしまっていることが考えられますので、さらに当時は2〜3メートルほど深かったと思われます。
そう考えますと、かなり守りが堅い城だったということがいえるのではないでしょうか。
県指定史跡から国指定史跡へ移行しましたので、これから注目されていく城になってくるかもしれませんね。
そうそう。
今回は2回目の訪問だったのですが、木の多くが切られており、土塁や堀の現状が見やすくなっていました。
やはり指定史跡の格上げというものがあり予算がついたのかもしれません。
個人的には、あまり有名になるとちょっと嫉妬しちゃうかも!?(笑)
[参考]松山城縄張図
次に3の丸跡ですが、3の丸は比較的、城の中でも比較的前線に置かれる部分となっています。
松山城の3の丸ですが、前線の平場のいくつかを支援する立地に設置されている感じとなっていました。
松山城には1〜3の丸以外にもいろいろな曲輪や平場が現存しています。
太鼓郭や笹郭、兵糧倉、総郭、春日丸といったものです。
笹郭は笹の形をしていますし、兵糧倉には兵糧がおかれていたのでしょう。
なかなかユニークな名前の付けかたですね。
古城図にも笹郭や太鼓郭といった名前が見受けられますので、当時からそう呼ばれていたと思われます。
以上、簡単に松山城訪問記を書かせていただきましたが、とにかく素晴らしい!
ほぼ当時の姿をそのままの形で残しています。
全体として現状では、堀の深さは3〜5メートルといった感じです。
かなり埋まってしまっていることが考えられますので、さらに当時は2〜3メートルほど深かったと思われます。
そう考えますと、かなり守りが堅い城だったということがいえるのではないでしょうか。
県指定史跡から国指定史跡へ移行しましたので、これから注目されていく城になってくるかもしれませんね。
そうそう。
今回は2回目の訪問だったのですが、木の多くが切られており、土塁や堀の現状が見やすくなっていました。
やはり指定史跡の格上げというものがあり予算がついたのかもしれません。
個人的には、あまり有名になるとちょっと嫉妬しちゃうかも!?(笑)
松山城の堀と土塁
[参考]松山城縄張図
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