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松山城について

せっかく今回、松山城へ行ってきましたので、ちょっと松山城について書かせていただきますね。
松山城ですが、日本各地に存在しています。
有名なのは愛媛の松山城ですよね。
なぜ松山城という名前の城が多いかと申しますと、城の素材として、燃料として、食材として、松は使われていたんです
ですので、松の産地の近くに城が設けられることが多かったんだそうです。
城の名前の理由にはそういったこともあるようですね。

では、私が訪問した松山城の成立した時期ですが、諸説あります。
古くは、太平記の時代(鎌倉時代末期)の新田義貞が鎌倉に攻め入る際に陣を置いた場所ということが言われています。
史料として松山城が出てくるのが、「鎌倉大草紙」にて「松山城主上田上野介討死」という場面です。
応永23年の鎌倉六本松合戦についての記述ですので、応永年間(1394〜1428年)には松山城は成立していたことが考えられます。

その後の松山城ですが、主にクローズアップされるのが、北条氏との関係性です。
16世紀に入ると小田原の北条氏が本格的に武蔵の国に進出を開始します。
松山城は関東管領側の城だったのですが、のちに北条氏の支配下にはいります。
北条氏の支配下にはいっても、松山城は大きな争点となります。
上杉謙信や武田信玄の関東進出の際も攻城戦が繰り広げられました

松山城が攻防の拠点となったのは理由があります。
松山城の天然の水掘りである市野川の対岸には北関東最大の宿場町の東松山の宿がありました。
また、市野川以外にもこの近辺には荒川も流れておりまして、農耕も盛んだったそうです。
現在でも水田が多く、当時の姿を感じさせます。
以上のことを考えますと、なぜ松山城が攻防の拠点となったのかが見えてきます。
北武蔵の経済と農業の拠点として松山城は重要な位置を占めていたことが攻防を繰り広げられた理由ということがいえるでしょう。
[松山城より東松山市街を望む(当時の宿場町もこの辺りに)]

その松山城ですが、豊臣秀吉の関東進出で落城(降伏)。
徳川氏の関東移封にて、松山城は徳川氏の支配下にはいりました。
松平家広が城主になったのですが、弟の忠頼が浜松に移封されまして1601年に廃城になりました。
[戦国期の松山城想像図:戦国の城<上>関東編 学研より]

[参考文献]
・「戦国期の松山城跡」 吉見百穴の資料館にてゲット
・現地案内板
・戦国の城<上>関東編 学研 1993年
・戦国の城 藤木久志 埼玉県立歴史資料館 高志書院 2005年

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プロフィール

マート
埼玉に生息する31歳の男です。お菓子などについて書いていこうと思います。 お菓子についてですが、主に近所のスーパーなど購入したものです。 紹介する前に少なくても多少は食べてから記事を書いています★
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