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足利政氏館についてと私的感想

足利政氏館跡について最後に、足利政氏館(甘棠院)についての概要を記しておきたいと思います。

まず足利政氏の館の成立は、嫡子・高基との勢力争いに敗れ1516年の岩付(現・岩槻)へ逃れてきたのちのことだと考えられます。
1518年に久喜へ隠居しますから、その前には館が成立していたと考えられます。16〜18年の間に作られ成立したものだと考えられます。

足利政氏は勢力争いに敗れたのちに出家をしています。
その久喜の館(足利政氏館)に永安山甘棠院を開山しました。
開山には、政氏の弟とも、三男ともいわれる貞巌和尚がかかわりました。

政氏が亡くなったのちに、1548年に火災が起きますが、翌年にはすぐに再建。
このあたりはさすが関東の名門・足利氏の寺というところですね。

そののち、戦国末期に入りますと、関東には徳川氏が入ってきます。
1591年に、徳川家康より寺領100石の朱印地を賜ったそうです
足利氏と徳川氏は同じく【源氏】(一説には徳川氏の家系が源氏というのは怪しいという話があります。家の格を得るために嘘をついていた可能性もあるんだとか。)ということですので、大事にされたのかもしれません★


足利政氏館跡には、寺でありながら堀と土塁がめぐらされています。
当時は寺も防御施設の一つと見なされることがありましたので、堀や土塁が築かれるのはメジャーなことなんです。
たとえば、有名な大阪の石山本願寺は、あの織田信長をさんざん苦しめたほどです。
また、最近になって織田信長が討たれた本能寺も堀で囲まれた一種の砦となっていたことが発掘調査により分かってきました。

ただ、隠居の地でありながらこの久喜の足利政氏館の堀は最大の部分で幅10メートル深さ5メートルというかなりの大きさのものです。
私はここに一つの仮説として、足利政氏は出家をして隠居をする段階ではまだ野望を持っていたのではないか、と思うわけです。
この久喜の地は、彼の有力な支持者であった下野の小山氏(現・栃木県小山市付近)の「小山」、彼が古河公方として本拠にしていた「古河」、そして彼が出家した太田氏の「岩付」(岩槻)から比較的近い立地ですから、何かあれば、また表舞台に立とうと考えていたのではないでしょうか。
また隠居してから、亡くなるまでに10年以上ありましたから、隠居した当初はまだまだ健康で自分の力を示したい、という欲望もあったでしょう。
ただ、嫡子・高基と最終的に和解するに及んで、その野望もしぼんでいったものだと思われます。


古河公方家としての足利氏のその後ですが、戦国時代後期に北条氏の関東支配が確立すると男子が生まれなかったこともあり、自然消滅します。
上の写真は館付近の道路。右側が足利政氏館跡です。
この道路は、当時は堀だったと思われます。
史跡の付近には、このように堀を利用した道路がよく見られます。
金沢の金沢城と兼六園の間の道路はまさに堀を利用した道路として有名ですね★

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プロフィール

マート
埼玉に生息する31歳の男です。お菓子などについて書いていこうと思います。 お菓子についてですが、主に近所のスーパーなど購入したものです。 紹介する前に少なくても多少は食べてから記事を書いています★
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