2009年11月08日
足利政氏について
今回、足利政氏の館跡に行ったわけですが、折角ですので「足利政氏」のついてちょこっと調べてみました。
【足利政氏】
足利政氏についてですが、まずは彼の祖父からたどってみましょう。
彼の祖父は、第4代鎌倉公方足利持氏です。
足利持氏は、幕府に対し永享の乱(1438年)に起こした人物です。しかし、敗れ結果的に自害しています。
その子が成氏(しげうじ)であり、足利政氏の父です。成氏は、父が処分され兄弟たちも処分される中、生き抜きます。
そして、1447年に鎌倉公方を引き継ぎます。
しかし、父(持氏)と同じように幕府との関係が悪化。享徳の乱がおこります。30年にも及ぶ長きにわたる乱です。
幕府側が鎌倉を制圧。成氏は下総の古河へのがれます。
これ以後、彼は古河公方と呼ばれます。
幕府は対立する成氏に対抗するために、新たな公方(堀越公方)を送り込みますが、こちらも混乱の中、鎌倉にさえ入れない始末。
結果的には、1483年に古河公方と幕府の間で和議が成立。鎌倉に戻ることはありませんでしたが、一定的な安定を得たようです(古河公方がほぼ鎌倉公方と同等の位置づけに。堀越公方の力は限定的。のちに北条早雲に滅ぼされます。)
そして、その成氏の後を継いだのが、2代目古河公方の足利政氏です。
彼が跡目を継いですぐに長享の乱がおこります。
長享の乱は、関東管領上杉家の山内上杉と扇谷上杉家の同族内での争いです。この争いに、政氏は積極的に関わります。古河公方としての職務を全うしようとしたのでしょう。
ただ、当初は扇谷上杉家を支持するものの、のちに山内上杉家支持への転換。ブレを見せます。
この上杉家の争いに首を突っ込んだのが、彼の命取りとなります。
両上杉氏和解後は弟の顕実を上杉顕定(山内上杉家)の養子に入れたのですが、これをきっかけに嫡子・高基と対立します。一時は和解しますが、再び対立。それどころか、次男・義明とも対立します。またまたそれどころか、義明には小弓公方として独立されてしまう結果に。。。
嫡子・高基との争いに敗れた政氏は、当時居を構えていた下野(栃木)小山の祇園城から落ちのびます。この結果、古河公方は嫡子・高基に強奪される形に(3代目古河公方の誕生)。
政氏は、太田氏の武蔵(埼玉)岩付城(現・さいたま市岩槻区)へ入ることとなりました。
そして岩付にて出家をし、1518年に久喜の館に隠居します。
その2年後の、1520年に古河城に嫡子・高基をたずね、両者は和解。このときの高基は、非常に礼儀正しく父を迎えたそうです。
久喜の地に隠居してから10年以上たってのち、享禄四(1531)年七月十八日に足利政氏はなくなりました。
以上、簡単に書かせていただきましたが、とにかく波乱万丈な方だったようですね。
他家の争いに積極的に参加するし、その報いを受ける形となったといっていいのかは分かりませんが、見事なまでの自家のお家騒動です。
悲しみの中で、久喜へ隠居したわけですが、すぐに高基と和解できたのは彼にとっての救いといえるかもしれません。
しかし、小弓公方の義明とは和解することがありませんでした。出家した彼にとってはそのことは心に残っていたのかもしれませんね。
*1538年に小弓公方の義明は、北条氏により敗死して滅亡しています。 画像は足利政氏の墓がある甘棠院の本堂方面を写した写真です。
門の扉には足利家の「二つ引両」の家紋があります。
【足利政氏】
足利政氏についてですが、まずは彼の祖父からたどってみましょう。
彼の祖父は、第4代鎌倉公方足利持氏です。
足利持氏は、幕府に対し永享の乱(1438年)に起こした人物です。しかし、敗れ結果的に自害しています。
その子が成氏(しげうじ)であり、足利政氏の父です。成氏は、父が処分され兄弟たちも処分される中、生き抜きます。
そして、1447年に鎌倉公方を引き継ぎます。
しかし、父(持氏)と同じように幕府との関係が悪化。享徳の乱がおこります。30年にも及ぶ長きにわたる乱です。
幕府側が鎌倉を制圧。成氏は下総の古河へのがれます。
これ以後、彼は古河公方と呼ばれます。
幕府は対立する成氏に対抗するために、新たな公方(堀越公方)を送り込みますが、こちらも混乱の中、鎌倉にさえ入れない始末。
結果的には、1483年に古河公方と幕府の間で和議が成立。鎌倉に戻ることはありませんでしたが、一定的な安定を得たようです(古河公方がほぼ鎌倉公方と同等の位置づけに。堀越公方の力は限定的。のちに北条早雲に滅ぼされます。)
そして、その成氏の後を継いだのが、2代目古河公方の足利政氏です。
彼が跡目を継いですぐに長享の乱がおこります。
長享の乱は、関東管領上杉家の山内上杉と扇谷上杉家の同族内での争いです。この争いに、政氏は積極的に関わります。古河公方としての職務を全うしようとしたのでしょう。
ただ、当初は扇谷上杉家を支持するものの、のちに山内上杉家支持への転換。ブレを見せます。
この上杉家の争いに首を突っ込んだのが、彼の命取りとなります。
両上杉氏和解後は弟の顕実を上杉顕定(山内上杉家)の養子に入れたのですが、これをきっかけに嫡子・高基と対立します。一時は和解しますが、再び対立。それどころか、次男・義明とも対立します。またまたそれどころか、義明には小弓公方として独立されてしまう結果に。。。
嫡子・高基との争いに敗れた政氏は、当時居を構えていた下野(栃木)小山の祇園城から落ちのびます。この結果、古河公方は嫡子・高基に強奪される形に(3代目古河公方の誕生)。
政氏は、太田氏の武蔵(埼玉)岩付城(現・さいたま市岩槻区)へ入ることとなりました。
そして岩付にて出家をし、1518年に久喜の館に隠居します。
その2年後の、1520年に古河城に嫡子・高基をたずね、両者は和解。このときの高基は、非常に礼儀正しく父を迎えたそうです。
久喜の地に隠居してから10年以上たってのち、享禄四(1531)年七月十八日に足利政氏はなくなりました。
以上、簡単に書かせていただきましたが、とにかく波乱万丈な方だったようですね。
他家の争いに積極的に参加するし、その報いを受ける形となったといっていいのかは分かりませんが、見事なまでの自家のお家騒動です。
悲しみの中で、久喜へ隠居したわけですが、すぐに高基と和解できたのは彼にとっての救いといえるかもしれません。
しかし、小弓公方の義明とは和解することがありませんでした。出家した彼にとってはそのことは心に残っていたのかもしれませんね。
*1538年に小弓公方の義明は、北条氏により敗死して滅亡しています。 画像は足利政氏の墓がある甘棠院の本堂方面を写した写真です。
門の扉には足利家の「二つ引両」の家紋があります。
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