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たか
歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年02月05日
天下無双の三段突き
天才の名をほしいままにし、若くして散った沖田総司の得意技が三段突きだったそうです。

昔読んだ本で、この技はどんな技だったのか今としては知る由もないというような話を読んだ事があります。
(ちょっとタイトルを忘れましたが、何冊か記載されていました)

伝わっている所によると、沖田の動きは1回の突きに見えるのに踏み込みの音が3回鳴っているそうです。

そういった本によると、技の形からいって諸説あるそうです。

大きく分けて2つですかね。

1.頭、喉、みぞおちの三か所を素早く突く
  一般的にはこれが正しいのでは?と思われますね。
  三段突きのイメージにぴったりですね。

2.突く、引く、突く
  突いて引いて突くという三段階の動きを三段突きといったとの説。

  どうも三段突きと言われるにはイメージのずれがあります。

と、色々と書いてきましたが、実はこの三段突きに関して、書いている本がありました。

「天下無敵の剣士」という本で、PHP社から出版されています。
著者は戦国歴史研究会。
(実はずいぶん前に読んでましたが、記事にしてませんでした。)

この本は剣術のルーツやらその始祖、剣術の図解、剣豪列伝等が記載されています。

その中で剣豪列伝にある「沖田総司」の項を見ると「総司の得意技は無明剣だった。これは天然理心流にある三段突きの技である。」と書いてました。

これをみて「おっ!!わかってんねんや!!」と喜び勇んで読み進むと、

刃を外側に向けた状態で刀を水平にし、その形を保ちながら三回相手を突くというものだ。
刃が外側に向いている為、少しでも刃に当たれば傷を受けてしまう。
しかも連続して三回も突いてくるのだから、これをかわすのは至難の業だった。
総司の無明剣は、この三度の突きが、まるで一回しか突いていないように見えるほど早かったという。

と書かれています。

現在も天然理心流は存在しますので、という事は「天然理心流の人達はこの型も知っているし、総司の三段突きも別に謎ではなかったんや」なんて思いました。

ただ、この本には「剣術の秘技」という章があり、そこに主だった流派の主だった技が図解で書かれているのですが…ありました。
無明剣(天然理心流)。

そのページを開いて読んでみると…

相打ち覚悟でカウンターを狙う
 無明剣−天然理心流−

とありました。
(ん?!)

まあ、突きはカウンターにも使えるからな…と思って読み進めると、

間合いを取って、互いに構え、相手がどう動くのかを見る。
相手が踏み込んできて、突きを出してきたら、こちらは鎬(シノギ)でそれを受け止め、そのまま刀の反りを利用して流し、剣先を相手ののどもとに突きつけるのだ。
無明剣は首筋にある頸動脈を狙っての攻撃で、ここからは力勝負になる。

とあります。

(ん?!)

なんか沖田総司の所に書いていた物と違うような…。

まあ、文の説明、図解を見ても突きは突きなんですが…。
(でも図をみると刃が外側を向いていない…。)

カウンターなら三回突くのはどうでしょう。
一撃でよろしいんじゃないでしょうか?

それをかわされた際に二度目、三度目を突くという事なら分かりますが…。

これは総司の所に書いた技の名前が違っていたのでしょうか?

もしくは剣術の秘技の方の名前が違ったのでしょうか?

それとも三段突きは無明剣を元にしたオリジナルなんでしょうか?

この本を読んで、総司の三段突きが分かったような分からないような、消化不良の状況です。

ご存じの方は教えて下さい。

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Posted by たか at 03:03 | 幕末 | この記事のURL
2010年02月04日
戦は時代によっても変わる
今回はちょっと違う観点から戦について書きたいと思います。

昔の日本における戦の編成は大体中国に影響を受けています。

そんな部隊編成等では当たり前に出てくる騎馬隊ですが、太古の中国には騎馬隊は存在しませんでした。

どういう機動隊を出していたかというと、それは戦車です。
(戦車って言ってもティーガーとかレオパルドとかではないですよ。)

馬に車を引かせるのですが、その車に乗るのは将軍(もしくは君主)と馬を操る御者、将を守る勇者という3人編成のものです。

ただ、太古の中国に存在しないと言ってましたが、異民族と呼ばれた遊牧民族等は純粋に騎馬隊を持ってました。

戦車はやはり平地でなければ展開しづらく、戦う場所を選ぶのに対し、騎馬隊は戦える場所は平地に限りません。

どう考えても戦車よりも騎馬隊の方が有利なんですが、それを導入しなかったのは訳があります。

当時中国の大夫(要は偉いさん方)は裾が長く、株がスカート状の服を着ていて、乗馬の為には、これは邪魔です。

遊牧民は乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着ていたので馬に乗る事が出来たのですが、当時の中国の大夫達はその服装を卑しい人の服としてさげすんでいたので、着る事はありませんでした。
(要はプライドが邪魔をしていたんですね)

そんな状況を打破する人が現れます。
(どんな時代にもプライドとか外見よりも実を取る人はいるもんだ。)

紀元前307年に趙という国に武霊王(ブレイオウ)が「胡服騎射」と言って要は胡服(ズボンのような服)を着て馬に乗って弓を射るという事を取り入れます。
(最初は反発がありましたが、粘り強く説得を続けて導入にこぎつけます)

出来上がった騎馬隊を用いて快進撃を遂げる武霊王を見て、他の君主達も取り入れていった結果、戦車隊は無くなり、騎馬隊が残った訳です。

また、時代は変わりますが、屯田兵という制度があり、これを成功させたのは三国志の曹操(ソウソウ)ですが、民屯と軍屯に分かれます。

この民屯は農民に土地をあてがい、耕せるという制度で、軍屯とは戦争をしている際にその駐屯地で兵を使って田を耕すというものです。

これで曹操はかなりの成果を挙げました。
(やはり遠征していると兵糧が不安になりますが、その土地で耕し収穫すれば良い訳ですからね。)

しかしながら、日本の戦国時代、織田信長は兵士と農民を分ける事で成果を出しました。
(兵農分離)

日本の戦国時代の戦は秋の収穫時になると兵が刈入れを行う為に国に帰らないといけなく、その為、そこで戦が打ち切りになるんですが、信長の兵農分離で兵は収穫をしなくて良くなった為、いつまでも戦場にいる事が出来るという事で成果を挙げました。

まあ、中国では人が多いので兵隊は専業だったので軍屯が有効だった訳ですが…。

兵に耕させる事で成果を挙げた曹操、兵に耕させない事で成果を挙げた信長。

時代と条件が変われば取る策も変わり、逆の動きもまた効果的になるという事なんですね。

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Posted by たか at 01:27 | その他 | この記事のURL
2010年02月03日
春秋時代の賢婦その1
今回のタイトルは「春秋時代の賢婦その1」としましたが、続編を書くかどうかは判りません。
(書きたくなった時にこまるのでこう書きました。)

私は今38歳で独身なもので、飲んでる席なんかで「好みの女性はどんなタイプ?」なんて聞かれる事がままありました。

普通、よくある質問で、たいていの人はすぐに答えられると思うのですが、数年前までこの質問の答えがわかりませんでした。

いつも聞かれると「う〜ん。」と考え込んでしまうのが常で…。

というのも、大体が一目ぼれをしない人でして…。

一応、今ではタイプといえば「笑顔のすてきな人」という結論に達しているんですが…。
(そこに行きつくまでに30数年かかった私っていったい…。でも笑顔が可愛い人はものすごい好きですしね。)

まあ、私の好みのタイプはいいとして、久しぶりに宮城谷氏の書かれた「孟夏の太陽」という本を今読んでいます。

この本は重耳(チョウジ)の晋(シン)に仕えた趙氏一族の短編集なんですが、ここになかなか素晴らしい女性が出てきます。

その名前は君姫(クンキ)です。

おいおい!そら本名ちゃうやろ!なんてツッコミが聞こえてきそうですが、その通り、本名じゃありません(と思います)。

男女平等の今の時代とは違い、昔はやはり男尊女卑な面があり、中国の歴史書等ではよっぽどの事が無い限り女性の名前はちゃんと記載されません。

君姫の場合は趙衰(チョウシ)に嫁いだのですが、親は趙衰の主君にあたる重耳です。
(だから君の姫なんですね。)

何が偉いかというと…。

趙衰という人は主君の重耳に従って19年間放浪した人物です。
(まあ、後継者争いで負けたので放浪せざるを得なかったのですが…。)

その間に赤狄(セキテキ)と呼ばれる異民族扱いされていた族の元で数年を過ごしますが、その際に妻を迎えています。

そのいきさつは、主君の重耳の身の回りの世話をする人が必要という事で家臣が探すのですが…。

探した結果、白狄(ハクテキ こちらも異民族扱いされている族)の族長の娘を迎えるのですが、白狄の族長は姉妹をよこしました。

これは良くある事なんですが、当時の結婚というのは国と国もしくは、族と族の友好を図る目的が多く、仮に送られてきた娘を気に入らなければ、その主君の寵愛を受けれず、国同士の友好を深める事が出来なくなります。

また、子を産まなければ他の妾に寵愛が移り、これも国同士の友好を深いものにすることが難しくなります。
(後継ぎを産んでその子が次の君主になるのが一番友好を深めれますからね。)

その為、保険として、2人、3人一緒に嫁がせるという話はよくあることです。

話がそれましたが、重耳の元には二人の姉妹が送られてきました。

その二人を見て重耳は「妹を妻とする」と言って姉の方を配下の趙衰に嫁がせました。

その姉が趙衰の初めての妻となる叔隗(シュクカイ)です。
(これも本名ではありません)

趙衰と叔隗の間には趙盾(チョウトン)という男の子が産まれます。

その後、狄(テキ)を去る事になった重耳に付いて趙衰も狄を離れるのですが、その際に妻子を狄に残していきます。

長い放浪の末、重耳は晋に帰り君主となった際に趙衰を大臣とし城まで与え、さらに娘を趙衰に嫁がせました。

この人が君姫です。

重耳は自分の妻を狄から晋に呼びましたが、趙衰は主君をはばかって呼びませんでした。
(主君の娘を差し置いて叔隗を正室にする訳にはいかないし、叔隗の性格からすると正室にならない事に甘んじる人ではないし…という事で)

君姫はそんな状況を理解して内密に叔隗親子の事を調べ、夫に叔隗を晋に呼ぶ事をお願いします。

が、趙衰が了解しません。

そこで、父である重耳にお願いし、君命という形で迎えに行く事になりました。

その親子を迎えた君姫は正室の座を叔隗に渡し、自分の子供には趙盾を長兄として敬うよう厳しくしつけ、趙衰の歿後は趙盾を趙家の棟梁としてたて、自分は叔隗をしのぐような驕色(おごり偉そうにする事)を見せなかったそうです。

これはなかなかできないですよ。

自分の位は主君の娘という高い位置にありながら異民族出身の女性に対し、一歩も二歩も譲って生きていく訳ですからね。
(ちなみに、そうさせるだけの人品を叔隗も持っていたという事でしょうが…。)

自分の産んだ子供に家督を継がせたいと願う女性が多い時代(重耳もそういういざこざで陰謀にはまり放浪しました)において、これはなかなかできない事です。

ほんと、一度会ってみたいと思わせる女性ですね。

すがすがしさと好感を私に抱かせる人です。
(こういう感情って惚れたという感情なんだろうか…。)

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Posted by たか at 03:30 | 春秋時代 | この記事のURL
2010年02月02日
武田家の盛衰
日本の戦国時代において恐らく最強を誇った武田軍。

この軍団には名将と言われる人が数えきれないほどいます。

しかしながら信玄亡き後、かなりもろく崩れ去りますね。

それは武田勝頼の器量が足りなかった等と言われていますが…。

実はもっと現実的な理由がありました。

武田家の名将達をつなぎとめていたのは、領地から産出される金だったんですね。

一説によると大将首を取ると1500万円位もらえたそうです。

そらやる気出しますよね。

世の中、大金がかかるほど人をやる気にさせるものはないですからね。

そんな武田家が衰退を始めるのは勝頼の代からですが、この頃になると領地からの金の産出量が激減しているようですね。

しかし、さすがは戦国時代!恐ろしや。

この金が激減した武田家に対し、小山田信茂(信玄の従兄弟)、穴山信君(信玄の甥)など、一門衆が離反してますからね。

そう考えるとちょっと怖い時代ですが…。

ただ、確かにトップの器量の差はあったんでしょうね。

武田信玄と武田勝頼では器量が違いすぎる…。

というか、武田信玄なんてバケモノを親に持った勝頼が不幸だったのかも知れませんが…。

武田信玄という男は本当に頭の良い男だったんですね。

例えば、「武田の赤備え」と言えば戦国時代でも一二を争うほど有名な最強騎馬軍ですが、これは信玄(もしくはその側近)が考えたイメージ戦略だったんですね。

どういう事かというと、赤備えは戦争が始まって、勝敗が決するまでまったく動かないんですね。

武田軍の勝利が見えた時点で動き出して、的に大ダメージを与える訳です。
(当然、敵は崩れているのでそこに今まで戦場にいなかった部隊を投入されたらさらに大きく崩れますよね。)

これを繰り返す事により、「武田の赤備えが動いた時は、戦争が終わる時。」というイメージを持たせる訳です。

これにより、「赤備えは最強の部隊。」、「赤備えは死を呼ぶ部隊。」といったイメージが広まっていき、ついには「戦国最強の部隊」となった訳ですね。

情報戦を効果的に使った武田信玄はやはり戦国屈指の名将ですね。


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2010年02月01日
龍馬伝第5話を見て
とうとう黒船がきました。

当時の人達は本当に度肝を抜かれたんでしょうね。

しかしながら今回の中で私が一番印象に残ったシーンはペリーの使者に対して無表情で「長崎にまわっていただきたい」という所。

何を言っても無表情で「長崎にまわっていただきたい」って言い続けるあたり、当時の日本を凄く表している、なんともおかしいシーンでした。

佐那が女になっていくというなかなかほほえましいシーンでもありますね。

実際に佐那は「私は龍馬の妻」と言っていたらしいですしね。

しかしこの龍馬伝、つっこむ所が無いというか無味無臭というか色が無いというか…。
(そう感じるのは私が龍馬のファンではないからなのでしょうか…。)

龍馬もなんか真面目すぎるし…。

果たして、このドラマを最後まで見て龍馬の生きざまを理解できるのだろうか…。

ちなみに、大河ドラマが龍馬伝の為、来年の中学入試は幕末からかなり出題されると予想されているようです。

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Posted by たか at 01:25 | 幕末 | この記事のURL
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